番外編「あなたの奥さんと私2」
「おい、あぶねえぞ!」とぶつかった男が大きな声を上げた。
「ご、ごめんなさい」
「ちょっと、そんな言い方はないでしょう?」
声を上げたのは、ジルベルタだった。エルゼは驚いて思わずジルベルタを見る。彼女は一瞬エルゼをみて、しかしすぐに視線を男に移した。
強い口調で、ジルベルタが男を責める。
「狭い道だから、お互い様ってどうして言えないのかしら」
「なんだ――」
男は一瞬言いかえそうとして、しかしすぐにジルベルタの顔を見て硬直した。見れば、顔を赤くしている。彼女の美しさは通行人すら魅了するのだと、エルゼは理解した。男は視線をジルベルタから離すことができないという顔で、ジルベルタを凝視している。
一方のジルベルタはすでに男への興味を失ったらしかった。
「大丈夫?」
ジルベルタが覗き込むようにエルゼを見る。
コクコクと頷きながら、エルゼはジルベルタが自分の顔をしらないということに気づいた。
――そう、よね、彼女は有名人だけど、私はちがうもの。
卑屈になる。
それでも知られていなかったことに安心して、エルゼは肩の力をわずかに抜いた。
「あ、ありがとうございます。すみません、ぶつかって」
「いいのよ。ごめんなさいね、道を邪魔して」
「え、いえ、店に用があったんですよね。それなら仕方ないというか」
「ありがとう」
そう言って笑ったジルベルタがふと思い出したように「ああそうだ」と声を上げた。
不思議に思って首をかしげるエルゼに、ジルベルタは片手で抱えていた紙袋から果物を取り出した。
「もも?」
「ええ、たくさん貰ってしまって困っていたの。もしよかったらいくつかどう?」
「――え?」
「遠慮しないで。家の人が桃好きじゃなくて」
――遠慮してるわけじゃ……。
エルゼの困惑を無視して、彼女は桃をエルゼに押し付けるように渡した。
思わず受け取って、エルゼはどうしたらいいかわからずジルベルタと桃を見つめる。
「あの、もらう理由が……」
「そう? 私が道を遮っていたせいで、あの男性にぶつかってしまったのだもの。怪我は、ないようだけど、お詫びに」
ジルベルタはにこにこと笑う。断ることもできなさそうだったし、おいしそうな桃だったので、エルゼは結局それを受け取ることにした。
――変だけど、明るくて、優しい人。
――私とは、正反対。
エルゼの胸には罪悪感ばかりが押し寄せてくる。それがつらくて、ジルベルタの顔を見ないように視線を下げた。
きれいな美しい靴が目に入る。それから自分の汚れた靴が。
ふと、エルゼの中に黒い感情が浮かんだ。ジルベルタに対する嫉妬。リベルトが愛していた彼女を傷つけたいという暗く冷たい感情だった。
エルゼは笑みを浮かべた。それから不安げな表情をわざと作る。
「あ、あの、もしかして、ジルベルタ様ですか?」
エルゼは淀んだ気持ちを抱えたまま、尋ねた。
「え?」
「あ、あの、社交界で一度、遠くからですが、お姿を見たことがありまして」
「あら、そうなの? 最近は社交界に出てないし、結構前のかしら」
「はい。ご結婚される前に……あ、ごめんなさい」
浮気されて離婚したんでしたね。そんな意味合いを込めて謝罪する。
途端にジルベルタの表情が曇った。
その顔に留飲が下がるようで、内心ほくそ笑む。じわじわとした気持ち悪さは今もあるのに、それに勝る快感だった。
さて、なんと答えるだろうか。彼の悪口でも言うだろうか。それともエルゼの悪口か。きっと性悪なことを言うだろう。そう思って様子をうかがうエルゼに向かって、ジルベルタは苦笑して見せた。
「もう、やっぱり噂になってるのね。本当のことだけど。気にしないで。もう私も気にしてないの」
――気にしてない?
エルゼは眉をひそめる。
それをどう受け止めたのか、ジルベルタはエルゼを道の端に来るように促してから、そっと壁に背中を預けた。
青いドレスが汚れてしまう。そんなことを一瞬エルゼは考える。
「もう怒ってないんだけど、周りの人は怒ってくれるのよね」
それは愛されているということだろう。そんなことがまたうらやましい。
「侯爵のこと、怒ってないんですか?」
「ええ。全然ってわけじゃないけど。怒っても仕様がないしね」
「それじゃあ、浮気相手のことは?」
そこまで言って、さすがに口を閉じる。失礼なことを聞いているし、それに。自分のことをどう思っているのか、こっそり確認しようとするのは恥ずかしいことのような気がした。
――懺悔してるみたいじゃない。これじゃあ。
みっともなくて、吐き気がする。
予想外の質問だったのか、ジルベルタは驚いて、うつむくエルゼを凝視していたが、やがて再び苦笑した。
「それは初めて聞かれたけど……そうね。怒ってないわ。むしろ――」
「むしろ?」
「うん。むしろ、彼とその人がうまくいけばなって思ってるかも」
「――え?」
エルゼは驚いて顔を上げる。ジルベルタと目があった。
「彼と一緒になるつもりなのだとしたら、むしろ心配だわ。彼、ちょっと変わってるし……。でもね、彼に情がないわけではないし、不幸になってほしいわけでもないの。だからもし二人が愛し合ってるなら、お互い支えていければいいんじゃないかなって」
私にはできなかったし。と続けて、ジルベルタははにかんだ。
エルゼは茫然としながら、ジルベルタの言葉を頭の中で何度も反芻した。
喉がかわく。
予想とは真逆の答えだった。
――私、同じこと言えるかしら。いいえ、無理よ。きっと怒って、泣いて、罵って……。
「支えるって難しいわ。でもその人はできると思うの、彼、一緒にいると安心するんですって」
ジルベルタは言った。




