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番外編「あなたの奥さんと私1」

※浮気を肯定、浮気した人を擁護するための話ではありません。



「だから、君と暮らしたい。結婚してほしい」


 その言葉に一瞬胸が暖かくなって、しかしすぐにヒュウと冷たくなる。

 じわじわと音がしそうな、表現し難い嫌な感覚が襲い掛かって、エルゼは短く息を吸いた。

 これは罪悪感だ。

 それから少しの不安。

 エルゼは乾いた唇を舌先で濡らして、愛する人を見つめる。

 彼、リベルト・ロンターニは、いつもならパリッとノリの効いたブラウスを着ているのに、今日は全体的によれよれとしていて、髪も手入れがされていない。それでもここ最近は話をすることすらできなかったのだから、随分回復したといえるだろう。

 目を向けられないほどに憔悴していた彼が、ようやく心を決めてくれたことはうれしい。

 しかし、今はそれを手放しで喜べる心境ではなかった。



 エルゼ・マイツェンは現在まさに没落している最中の、マイツェン伯爵の一人娘だ。

 素朴な髪色、目立った特徴のない顔、女性的ともいえない体つき。誰からも愛されたことのない自分にエルゼは失望していた。

 その上、家も貧しい。貰い手もおらず、結婚の時期も逃した、行き遅れの女だ。名ばかりの爵位はなんの役にもたたない。

 そう思えば思うほどみじめだ。けれど、それでも曲がらずに生きてこれたのは、亡き母の言葉のおかげだろう。

 「やさしく、思いやりをもって人と接し、誠実な人になりなさい」。

 これが思ったよりも難しくて、なんということを要求するのかと、大人になった今では思うのだが、エルゼは確かにその言葉に従って生きてきた。

 だから、エルゼが既婚男性と密会するようになったことは、エルゼの人生の中では最高に悪いことだった。


「ごめんなさい。すこし時間をください」


 エルゼはうつむいて言った。

 目の前の彼は明らかに傷ついた顔をしたが、エルゼは首を振って彼を突き放す。

 不倫をした。

 妻のいる人と逢瀬を重ねた。

 罪悪感が彼女に頷くことを許さなかった。

 

 そのまま屋敷を出たエルゼは、周囲の目を気にするようにスカーフで顔を覆って街へ出る。

 

 リベルトのことをエルゼは愛していた。愛していたが、愛してはいけない人だった。

 彼には地位があった。没落貴族のエルゼとは違う。

 彼には役割があった。政略結婚でさえもらってくれる人がいないエルゼとは違う。

 彼には妻がいた。エルゼよりずっと、ずっと、ずっと美しい妻がいた。何もかもがエルゼと違う人が、彼の隣にはいた。

 だから彼を愛してはいけなかったのだ。なのに、エルゼは彼を愛することを止められたなかった。

 

 初めに、彼と出会ったのは偶然だった。街で前を見ずに歩いていたエルゼは彼にぶつかって、怪我をした。全面的にエルゼが悪いのにもかかわらず、彼は罪悪感を感じたのだろう。エルゼの怪我を見てくれて、医者を呼んでくれて、家まで送ってくれて、そしてエルゼの家が没落していく最中であることを知った彼は、資金援助を申し出た。彼の正体を知ったのはその時だ。

 決して悪意をもってリベルトに近づいたわけではない。金銭を期待してのことでは断じてない。ただその申し出はエルゼを惑わすには十分すぎた。

 それからエルゼは彼とたびたび会うようになった。

 柔和な彼。

 真剣な彼。

 不思議な雰囲気の彼。

 おおらかな彼。

 適当なところもある彼。

 金銭感覚がおかしい彼。

 優しい彼。

 好きになるには十分すぎるほど彼は魅力的で、そしてどういうわけか彼もエルゼを特別扱いした。

 いつの間にか特別な関係になっていた。

 その時のエルゼは、天にも昇るような気持だったのだ。たとえ彼に妻がいても、彼が妻を本心から愛していたとしても。愛しているの言葉がただの言葉でしかないとしても、彼が必要としてくれることが何よりもうれしかった。


 けれど所詮は不倫。

 針の上に立っているような不安定なもの。幸せはすぐに脆く崩れてしまった。

 彼に残ったのは、不貞行為をしていたという醜聞。

 エルゼに残ったのは、捨てられ心を病んだ彼と、やはり不貞をしたという真実と、随分遅くに芽生えた罪悪感だった。

 ふと思う。

 

 ――彼には罪悪感はないのかしら。


 エルゼはため息を飲み込んで、足早に進む。

 最近は会う人すべてから責められているような気がしていた。

 

 浮気をしたのは彼とエルゼだ。彼の妻がその事実を知って、慰謝料を請求することもなく別れてくれたのは、穏便にしたいという気持ちがあったからだろう。しかし金銭という償う方法を失ったエルゼは安心する反面、大きな罪悪感にさいなまれた。








 手入れのされていない自宅へと帰る途中。ふと、進行方向に見知った顔を見つけてエルゼは肩を震わせた。


 ――ジルベルタ様。


 そこにいたのはジルベルタだった。

 青い外出用と思われるドレスを着ていて、道にでている屋台の店員と何かを話している。

 彼の元妻。美しく気高く、子爵家の令嬢ではなくもっと上の地位にいるのではと疑いたくなるほど、凛々しい女性。

 女も男もあこがれる、高嶺の花。社交界の花。

 

 ――彼が愛している人。


 どうしよう。とエルゼは思った。

 ジルベルタに見つかりたくなかった。

 しかし通りは狭い。彼女が立っているからさらに狭い。人通りも多くて、避けて歩けるかも怪しい。かといって、道行く人の流れに逆らって、引き返したり立ち止まったりすればもっと注目される可能性が高まりそうだ。

 しかたなく、エルゼはなるべく視線をそらして、ジルベルタの後ろを通ることにした――ドン! と男にぶつかった。

 ふらりと体制を崩して、体が傾むく。まずいと思って目を閉じた瞬間、今度は別の人にぶつかった。

 目を開けて、驚く。背中から衝突したのは、最悪なことにジルベルタだった。

 

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