■04■ クロウ編 第1話『巨人の身体』
クロウは北を目指していた。彼の目的地である龍の領域は、海を挟んだ氷の大陸に出入口があるという。そこは北の極地。生きて到達した者の記録はそう多くないという魔境。その地を調べた者など歴史上にも数えるほどしかいない。
大樹海からの脱出である以上、その道のりは険しいものだったが、幸いにも距離そのものは短かった。三日目には樹海を抜け出し、大海原の広がる崖の上に到着していた。
吹き荒ぶ風。切り立った崖の上から臨む周囲は轟々と渦巻く海が広がっている。
その海原へ何の躊躇もなくクロウは跳び下りた。
次の瞬間。
クロウの全身が鈍い銀色に輝き、手足がまるで水を含んだ土のように、風を吹き込まれた風船のように急激に膨れた。
衣服が霞のように消えると、鎧のような銀色の肌に覆われた巨人が佇んでいた。
鋼の種族、その真の姿。
瞳も、口も、鼻も、銀色の表皮に包まれた今は、マネキンのような無機質な顔立ちに変じている。その全長は単位に換算して40mほど、巨人体としてはごく普通のサイズである。これ以上にも、これ以下にもなれる。
銀糸のような銀髪がなびき、腰に携えていた剣もまた、服と同じく消えている。
そして彼の周りでは風が凪ぎ、周囲の渦も消えた。
そのまま巨体が歩き出す。それも『海面』を。
まるで影のように音もなく、風のようにうっすらとした空気の鳴動しかない。
そのうち、身体は周囲の風景に溶けるように消え、誰にも見えなくなってしまった。
一挙手一投足にて世界を歩く。鋼の種族が持ち得たる真能。
その姿が再び現れたのは、北の極地だった。
まるで空中にインクが滲み、徐々に色を鮮明にしていくように姿が像を結ぶ。
空気から溶け出した何かが集まっていき、僅かに空気を震わす虫の羽音のような、荒れた風が吹いたような音と共に巨人体のクロウが現れていた。
そのまま、北の極地へ着地する。
一面が白く染まった景色。氷と、雪と、空しか存在しない光景。
無手、何一つ持たぬ巨人が北の極地を踏みしめると、極寒の風が彼の表皮を撫でていく。
ずしり、ずしりと、重さを取り戻した身体が北の極地を歩く。
吹き荒ぶ風も、極寒の吹雪も、銀色の体躯は何一つ揺るぎもしない。
どれだけ歩いたのか。
北の極地の、大地の裂け目、クレパスの奥。どこまでも続くような深い深い谷。
そこから何かを感じ取ったクロウは、巨大な身体で谷底へ飛び降りた。
落下の勢いのまま下っていくと、肌に感じる空気が変化し、瞳を焼くような閃光が広がる。
色鮮やかな花の咲き誇る花畑に、ゆっくりと彼の巨体が着地する。
遠く聳えるは峻厳な岩山。時に黒煙を吐き出す巨山。
おそらくここが、龍の領域だろう。
全身を人間体に戻したクロウは、灰色の皮膚の上にふわりと纏わりつく衣服の感触、腰に革帯で固定した自在剣の感触を確認し、左右をきょろきょろと見回す。
すると。
上空から巨影が現れる。
風を押し潰し、大気を引き裂き、巨体が空から舞い降りてくる。
龍。
古き言葉で『大きく恐ろしいもの』、『はっきりと見えるもの』、または『巨大な者』。
彼等の血から蛇が生まれ、骨から蜥蜴が生まれ、鱗からは魚が生まれたという。
だから数多の蛇も蜥蜴も魚も、長き時を生きれば龍に至るという。
俗に『水に棲む生は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応龍(黄龍、または應龍)』となると謳われた存在こそが龍という存在である。
今の言葉でいうなら、蛇や蜥蜴などから、五百年分の知か霊を培うことで亜竜となり、更に千年分の知か霊を養うことで竜となる。更に五百年で龍、更に千年で古龍(祖龍)に至るということだ。更に位階が高まると、龍王、龍神などとも呼ばれることとなる。
そういったことを鑑みて、目の前の龍。
人間体としては見上げるほどの巨体であるが、全長は20mほど。岩石を思わす厚く重たい
黒い鱗も、然程の年月は感じ取れず、まだ年若い龍だろうなと、クロウは予想する。
「龍よ、我は鋼の種族の裔、今の世ではクロウと名乗らせていただいている。長き眠りより故あって目覚めることとなったのだが、長き時の果てにかつての友や同胞の縁を探してこの地にまかりこした。どなたか、古き時代のことを知る方へお取次ぎ願えないか?」
『断る』
にべもない即答に対し、クロウは革帯で縛り付けた自在剣の柄へ手を置く。
「そうか、お取次ぎ願えないのであれば、自ら探そう。お手数おかけした」
『そのような事を誰が許すか。お前のような不審な相手を野放しになどできん。領域の外へ連れていく。早々に引き上げよ』
「それは困る。我が種族のことは、どなたか古き世代の方に聞いてもらえればご存知のはず」
『くどい。抵抗するようであれば命の保障はできんぞ』
「そうか、では『約束』に従って我も剣を抜くぞ」
クロウの口にした『約束』という言葉。
その言葉を聞いた瞬間、黒麟の龍は思わず身を引いた。
彼女、そう年若い龍の彼女は知らなかったのやもしれぬ。
ただ、血に刻まれた記憶が、遙か遠き過去より龍の友であった者達との約束を覚えていた。
それは『対話なき時、我々は牙を交えぬ』という不戦の誓い。
そして彼女はその約束を「命の保障はできぬ」という言葉で反故にしてしまったのだ。
鋼の種族が自在剣を振るう口実を与えてしまった今。
革帯からするりと抜き放たれた自在剣は、またたきの時間より速く重量を増す。
クロウの自在剣における常の姿は、分厚い片刃の山刀。のちに極東における刀の原型となるその片刃の鋭い刃は、剃刀の鋭さと斧の重さを備える。農具であり、遠く遠く山岳部族に継がれては命に次ぐものとされる武具だ。
切れ味が消え、その重量が斧を越え、岩を越え、岩盤ほどに重たくなった瞬間。
まるで棒っきれのような速度で振り回され、龍は吹き飛んでいた。