闇夜に手をのばす
宵に彩られた硝子戸に手をかけた。夜空に手を触れた私を、悠久の彼方より輝ける矢が突如射抜く。
青白い光。静謐なる光。冷たい光。折々そのような詞で語られてきた、月光。だが、久方ぶりに外に出て、改めてその輝きを目にしたとき、果たしてそんな形容詞は真に月を言い表しうるものかと首を傾げてしまった。月のもつ光は、黒に縁取られながらあたりを圧倒する。存外にも暖かな色をした光は、張り詰めた空気の中を駆け、私の視界にいびつな残像を刻みつける。
とはいえ、私は月を見るべくして外に出たのではない。ひんやりとした空気が私の肌にまとわりつく。宵闇は、私のそばに静かに忍び寄り、視界を奪う。そうして見上げれば、視界の右端に月があったのだ。だが、さらにそのめぐりを見渡せば、ちっぽけな光が散らばっている――見たかったのは、そちらだ。
『今夜、こと座流星群が極大』
夕方、そんな記事を見かけた。流れ星など、動画ですら見たことがなかった。既に日が落ちている。ピークは真夜中と書かれていた。その時間に空を見れば、神秘的な光の尾と出会うことができるのであろうか。心が躍る。それで、私は夜の星を見上げようと心に決めた。
さらに、この日は、私にとって特別な日だった。
ひとり暮らしが始まる日だったのだ。
去年の春より進学した大学と私の故郷とは、山にも街にも遠く隔てられている。数こそ少ないが、同郷同学の人たちは皆、入学と同時にひとり暮らしをし、新生活を始めていた。しかし、ひとり娘としてかしずかれて育った私は、それだけの力を持ちあわせていなかった。そうでなくとも、ちょうど疫病が頭をもたげていたころ。両親が私をひどく心配するのは、むしろ自然といえた。それゆえ、父親は仕事のためにひとり故郷に残り、母と私はともに新たな地で、めいめいが新たな生活を始めたのだ。
勉強をしてくれたら家事などしなくていい。私は中高生の間ずっと、両親からそう聞かされて育った。はたして、世間的にトップレベルとされる大学への進学を決めたはいいものの、料理が全く出来ないばかりか、洗い物や片付けの習慣もない。そうしたことを身につけるまで、母がそばにいて教えてくれると言った。そんな生活の始まりからちょうど1年。ついに、次の段階へと進むこととなったのである。それが、この星降る夜だった。
「何かあったら、いつでもすぐ連絡するんやで? すぐに駆けつけるから」
「うん。何もなくても、毎日メールするわ」
これから故郷に帰る母は、最後まで私を気にかけてくれた。夕陽の紅く柔らかな光が包む道の上。彼女は駅へと歩いていく。私は、ただ静かに見送った。暖かな風に包まれた道の真ん中で。
☆
子の身を案ずる親というものは往々にして、その愛ゆえに我が子を縛ってしまうものだ。少なくとも私の母はそうだった。門限があったことは言うまでもない。大学受験に向けて塾に通うようになるまでは、斜陽すら沈んでしまったあとのモノクロの時間を家の外で過ごすことなど滅多になかった。私が歩く道にはいつも、いくばくかの彩りがあったのだ。当然、日付が変わったのちの外出などは論外。いや、そのような時間ならば、寝室にいないというだけで、昨夜に何をしていたのかと翌朝問いただされるのは避けられなかった。
両親はいつも、私を守ってくれた。外界のありとあらゆる危険に対して、その慈愛の堅牢たる盾を確かに携えて。いつも、私を導いてくれた。私の倍以上の年月を生きた者として、その理知の絢爛たる光を高く掲げて。
だがその盾は、壁でもあった。その外には何があろうか。壁の外に足を踏み出すことを禁じられ、外の世界を知ることがない。護られているという恩恵を享受し、外への恐れを心に蓄える。ほんのわずかばかり、不自由への苛立ちを込めながら。砦の内で、私は臆病な幼子であり続けたのだ。
大学生になれば、いくぶん掟は軽くなった。それでも、母がそこに居る限り、母の知らぬときに母の知らぬ場所へ行くことは出来なかった。固く禁じられたわけではない。ただ、何か恐ろしいことのように思われたのである。
新たな地での生活が始まったところで、世代を同じくする学友と同じ自由をさながら享受するわけにはいかなかった。日が落ちるまでには自室にいなければならぬ。母が寝静まったのちに音を立ててはならぬゆえ、夜をいたずらに更してはならぬ。――それが、昨日までの話。
母を見送り、部屋に戻れば、そこには音もなく人の気配もない空間が広がっていた。全く別の場所のようであった。あって当然だった枷がない……私は、自分の設定したパスワードで自分のスマホのロックを解除しながら、そうふと思う。世の大学生が持つ自由。それは、私に到底飼い慣らせるものではないように見えた。
ニュースアプリを開く。今夜は星が夜空を流れるらしい。真夜中にピークを迎える。
あぁ、是非とも見たい。夜に空を見上げるのは一体いつぶりであろうか。天体観測……もしかしたら、人生で初めてのことかもしれない。
ピークの予想は夜11時から明け方5時まで。その時間に外に出て、天を仰ごう。これまでの私になかった意思が、心の中でちらりと燃える。
同級生が河のほとりに集まっているらしいという情報を見ても、そこへ交ざろうとは思われなかった。このような遅い時間に、色を失った道を歩いてその場所へ向かうなど、想像するだけで心許なかったから。ならば代わりに、このマンションの屋上に行こう。それすら、今の私になら出来るかもしれぬと奮起してこそ浮かんだ考えであった。
――いまは夜の10時半。これからお風呂に入ったら、上がる頃には日付が変わっているのかな。
果たして、入浴を済ませて時計を見れば、もうすぐ1時にもなろうかという頃。温かい湯に蕩かされ、睡魔が私の頭に取り憑いていた。思考に靄がかかる。視界はわずかにかすみ、このまま床につけと誘われているようだ。今までの私が、ずっとそうであったように。「やっぱりやめとき? 明日、1限の授業があるんやろ?」という声がどこかから聞こえる。「それに、こんな時間から外出たら、どんなひとが居るかわからんから」と続く声も。
――いや、でも。決めたの。次にいつ見られるのかわからないのだから。
どうせなら、天体観測より前に歯磨きまで済ませてしまおうかと考えた。歯列矯正を始めてからというもの、歯磨きに長い時間がかかる。今からやれば、磨き終わるのは夜中の2時。ちょうど、光の宴は盛りではないか。
そう、思ったものの。どうしても、待ちきれなかった。
屋上に行くのは楽しみにとっておこう。そう決めて、寝室の硝子戸に手をかける。藍色の夜に染まった磨りガラスが、ひんやりと心地よかった。この戸から出れば、そこはこの部屋の住人にあてがわれたベランダである。
部屋の、生暖かい空気とは全く異なる、ピンと張り詰めた空気。夜空は、遥か頭上に広がるばかりではなかった。鼻先の空間もまた、夜空であった。ひんやりとした風が、不器用に私の頬を撫でる。視界は陰に支配され、街中の隅々から色が失せている。無機質な白い電灯に照らされた屋内とは別物の空間が広がっていた。夜に手を触れる。そんな感覚を、確かに抱いていた。
奪われた視界は、私を怯えさせるに足る。だがそれ以上に、澄んだ空気は心地よかった。冷たく引き締められた大気に当てられると、睡魔は恐れをなしてどこかへ逃げ出したらしい。私は、刷新されたように澄んだ目を見開いた。
視界の右端が、月明かりを捉える。暖かくも鋭く力強い光が、私の目を焦がす。
しかし、月のない空に目を向け、じっくり眺めて初めて気付く光があった。かすかな光を放つ星々である。風のせいだろうか、か弱い光は静かに揺らめく。危なっかしい、儚いともしび……月光を見た後は、なおさらそう思われた。
嗚呼、月の光はあまりに強い。書物を照らし、灯りに恵まれぬ若人を助けてきた。道を照らし、いにしえの旅人を導いてきた。暗い夜道に、月明かりはこれほどまで信頼できるものなのか。私を導いてきた母を思い出す。彼女のいうことはいつも正しかった。私という旅人の指針であり続けた。
しかし、月に見入る目のなか、星々の白い火は映らない。歪な残像は、さらに星空の視界をくらませた。ひ弱ながらも健気に揺らめくそれを、躊躇いなく圧倒する月光は、やはり冷たい光なのかもしれない。――そのちっぽけな光に、私は自らの心を重ねた。じっくりと目を凝らして初めて見えてくるもの。儚くて、気を緩ませればすぐに見失いそうな、そんな光。
隣人のベランダとの間を隔てる壁に遮られて小さく切り分けられた夜空を見ていたが、何も起こる様子はない。今はまだ、その時ではないのかもしれない。一旦、硝子戸を引き返し、生暖かく緩んだ空気のたゆたう自室に戻った。
☆
時は午前2時。普段ならとうに寝静まっている時間である。私はパジャマにパーカーを羽織り、右ポケットに部屋の鍵とスマホとを突っ込んで、ドアノブに手をかけた。隣人を起こさぬよう、音を立てずに。それから、ゆっくりと鍵をかける。
――大丈夫。このマンションのエントランスを越えて公道に出るのではない。ただこの建物の中を歩くだけだ。
足音を立てぬよう、しかし逸る心に従って足早に、階段を段飛ばしで駆け上がっていった。
そうして、屋上に着いた。
古びた蛍光灯がいくつか備えられている。月はやはり思いがけぬほどの強い光で辺りを照らす。水平線は建物の群に切り取られている。しかしそれらをまるで知る由もないというふうに、頭上には広大なブルーブラックの海が広がっていた。目を凝らせば、やはり無数の星々。冷たく鋭い風が巻き起こり、私を包み込んだ。頭上の星たちがゆらゆらと揺れた。あたかも命をもっているように。あるいは、それは大海の水面をちらちらと揺れる松明であった。
さらに空を仰いでいた。なるべく地上の光を視界に入れぬようにして、暗闇に目が慣れるように。
時折階下で聴こえてくる音に肩を震わせてはそちらを見やる。……大丈夫、何もない。心配はない。そう思い直しては、再び星空をじっと見つめる。
……と、そのとき。一刹那、視界に動きを認めた。頭がおのずとそちらの方を向く。
何もない……しかし、目をしばらくそのままそちらに向けていた。
すると。
宵闇の海の中、ぼんやりとした白い糸筋が、すぅっと生まれるのが見えた。
瞬きをするうちに、それはふわりと空に溶ける。
――え。いまの。
息を呑む暇もなく、再びそこに白い光がひと筋。やがてまた、その空間に霧散する。
ひとつ。またひとつ。かすかな筋は、現れては消え、また現れる。
泡沫のような、頼りない光だった。流星はもっと煌びやかなものだと思っていた。これが本当に流星であったと、自信を持って頷けるわけではない。何しろ、実物を一度も見たことがないまま、たったひとりで見ていたのだから。しかし、浮かんでは消えるかそけき光の静かな舞は、私の眼を、心を、この澄んだ星空に惹きつけた。幼き頃より恐れてきた、闇夜の景色の真ん中に。
ときは真夜中。
藍色に包まれた空間。
誰にも邪魔されぬこの場所で、たったひとり、立ち尽くしていた。
はっと時計を見る。あまり長居は出来ない。私は踵を返して、青白い電灯の下、階段を降りて自室へと戻った。この夜が明けてより始まる日々を思いながら、あの儚げな煌めきをそっと心に仕舞いながら――
説明を単純化するための微かな虚構はあれど(例えばiPadのことをスマホと言っていたり)、ここにあることは全て実話です。私小説というよりエッセイ。ですが同時に、芸術的な表現技法を色々意識しつつ試してみたので、純文学とさせていただいています。大学2回生の春。年齢より心幼い私が、ひとつ大人になった夜。……決して、決して真夜中の外出が大人というわけではないです(よくないことだしもうあまりやりたくない)が、初めて自分の意思で外出して星を見たことは、忘れないでおきたいと思います。