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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

一人芝居

ミステリの看板を掲げたよくわからないお話です。

『ほとばしる鮮血が周囲を染め、潮が満ちるように広がっていく』

 眼前の光景が、原作小説の一節を脳裏に呼び起こした。

 劇場の空気は凍り付いたように静まり返っている。衣擦れの音や息遣いすらも聞こえない。観客は勿論、役者である僕たちでさえ、己の芝居を忘れ、ただ目の前の出来事を口を開けて眺めていた。

 深く切り付けられた人間の喉笛。そこからとめどなく吹き出す液体が空気を震わせ、僕らの鼓膜を刺激する。血が流れ出る音、人が死ぬときの音。それは殊更に特別なものではなくて、日常にありふれていそうな響きの一つにも思えた。だから僕は、劇場に悲鳴が鳴り響くその時まで、嫌悪感の欠片も感じなかった。だってそうだろう。まさか目の前で人が死ぬなんて思うはずがないのだから。

 やがて、スポットライトに照らされた飛沫の一つが、最前列に座る女性の顔に降りかかる。それを拭った彼女は、自分の手の平を見て金切り声を上げた。その叫びを聞いてようやく僕らは気付いたのだ。目の前で起きているこれは恐ろしい惨劇さんげきなのだと。人が首を裂かれ、苦しみながら死にゆく姿を見ているのだと。

「……なんで、なん……違う、ちがう俺じゃない」

 田辺の手から血塗れのナイフが滑り落ち、重い金属音を響かせる。プラスチック製のダミーナイフ。本来殺傷能力が皆無であるはずのそれは、確かに人を殺せるだけの質量を感じさせていた。

 力なく下ろした田辺の右腕を、安藤の左腕が掴んでいる。血を吹き出し続けながら、ずっと、ずっと、安藤の手が離れることはない。

「ちがう、ちがう、俺じゃない、俺じゃ……」

 安藤の血を全身に浴びながら、田辺は延々と呟いている。

 舞台の外は、観客たちの混乱がひしめいていた。


 その日、僕らの舞台で一人の役者が死亡した。死因は刃物による頸部裂傷。容疑者は同じく、僕らの舞台に立っていた役者の一人だった。




「本日の取り調べは以上とします。ご協力いただき、ありがとうございました」

 警察署を後にすると、既に日は落ちていた。初夏の夜風はぬるく、吹かれる度にじっとりとした汗がにじみ出す。

 家へ帰る道すがら、見かけたコンビニに立ち寄り夕食を買った。後は家に帰り、風呂を済ませ、布団の上に横になるだけ。

 日常の光景だ。何ヵ月、何年と繰り返してきた何気ない毎日の景色。それが今では、特別で愛しいものに思えて仕方ない。

 安藤が死んで三日が経った。

 田辺は身柄を拘束され、残りの関係者は重要参考人として警察の監視下に置かれている。あれから毎日取り調べが行われ、僕らの関係性や行動について事細かに記録された。しかし、未だ犯人は見つかっていない。警察側の捜査は一向に進展していないのだ。

 警察としては田辺を犯人とし、さっさと捜査を終わらせたいことだろう。だが、あれ以降田辺は精神をおかしくしてしまったのだと、刑事がほのめかしていた。情報が足りていないこともあるだろうが、気の違えた人間を犯人と断定することは難しい、ということなのだろうか。

 一人の友人は死に、一人の友人は病み、僕らの生活は一変した。にも関わらず、思考が冷たい湖の底を漂うように、どこまでも冷静な自分がここにいた。自分の身に起きたことが現実離れしすぎていて、実感できていないのかもしれない。脳内では今でも、もしかするとこれは悪い夢でも見ているのではという考えが、思考の隙間を彷徨さまよっている。

 自宅のアパートに着き、玄関の扉を押し開く。暗い室内に明かりを点け、早速ちゃぶ台の上にコンビニ飯を広げる。普段ならぼんやり眺めるテレビも、今は電源を付けていない。のっそりとした動作で米を噛み、あやふやな思考にふけっていた。

 田辺は確かに、安藤を殺す動機を持っている。あの二人が不仲であることは劇団の誰しもが知っている。いや、田辺が一方的に嫌っていると言ったほうが正しいか。安藤は演劇の才に恵まれ、田辺が欲しがっていた主要な役をこれまで幾度となく務めてきた。田辺は妬みと羨望の眼差しを安藤に向け、口論になることもままあった。

 しかし、それが本当に犯行の動機になるだろうか。

 配役は何も才能だけに依存しない。それぞれが持つ演技の性質と役の性質の調和が配役において最も大きな意味を成す。田辺もそれは理解していて、最近は二人が言い合いになることも無かった。今回の配役も、十分に話し合った上での決定だ。にも関わらず、今になって衝動的になり、安藤を刺したというのか? よりにもよって、周囲に目が無数にある舞台の上で? それに、刺した後のあいつの反応、本当に殺意があったのか疑問が残る。まさか、刺した直後に我に返り、自分のしでかした事の重大さを受け止めきれなかったのだろうか。

 とてもそうは思えないし、思いたくない。田辺はきっと、犯人ではないのだ。では、真犯人は一体誰か。

 あの演劇で使うはずだったナイフは勿論ダミーのもの。それが、田辺の気付かぬうちに本物にすり替えられ、そして安藤は死んだ。即ちこの事件の犯人はダミーナイフを本物にすり替え、安藤を殺し、田辺を事件の犯人に仕立て上げようとした奴だ。

 警察側もその可能性を考慮していることだろう。だからこそ、未だに団員たちの自由は保障されていない。僕らの中に犯人が潜んでいる可能性を捨てきれないからだ。だが、もし仮に団員の誰かが犯人だとして、それは本当にあり得るのだろうか。田辺が犯人でないとするならば、どうしてあいつは自身が握ったそれが本物の刃物だと気付かなかったのか。犯人はそれを偽物だと勘違いさせる情報を田辺に伝えていたのだろうか。

 いくら思考を巡らせても結論は出せない。如何せん情報が足りなさすぎるのだ。

「犯人は、誰か……」

 空になったコンビニ飯の容器を脇に寄せ、独り言をこぼす。この三日間、自分の中で反芻し続けた問いだが、未だ答えは出ない。警察ですら真実に辿り着けていないのだから当然だろう。ナイフの指紋は田辺のものしか残っていないだろうし、小道具置き場は常時誰でも立ち入ることができるから、犯人を団員の中から絞ることは難しい。

 結局、今日も結論を得ることはできなかった。肩を落とすように大きく息を吐き、天井を仰ぎながら背後に手をつく。すると、手の先によれた紙の感触があった。それを手繰り寄せてみれば、一本のくたびれた脚本だった。タイトルを目でなぞった瞬間、例の光景が脳裏を掠め、心臓が縮み上がった。

 僕自身が書き起こした脚本。重い指を伸ばし、例のシーンまでページを送る。対峙する二人の男。主人公は学友であり恋敵の男に脇腹を刺され、絶命する。シナリオ通り、安藤は死んだ。むごたらしい最期だった。思わず胃の中の物を吐き出しそうになる。それを何とか堪え呼吸を整えたとき、ふとした疑問が湧き起こった。

 刺された場所が違う。

 脚本通りなら、安藤は脇腹を刺されるはずだった。原作小説では首を切られていたが、過激すぎると判断して書き換えたのだ。練習の時もリハーサルの時も、二人は脚本通りに演じていた。だが、実際に本番で切られたのは首だ。偶然位置を間違えた、などという言葉で納得できるものではない。

 何気なく浮かんだ疑問が膨れ上がり、ぞわぞわとした怖気が背筋を這い上がってくるようだった。

 僕は劇中、刃物を突き立てる田辺の背後に立っていた。だから、田辺が腹の前でナイフを構え、安藤に向かって走っていく様をこの目でしっかり確認している。だが、瞬き一つ挟んだ後に見た光景では、田辺の腕は安藤の首に伸びていた。その時ナイフを持った田辺の右腕を、安藤の左腕が力強く握っていた。脚本では、安藤が田辺の腕を掴む動作は描かれていない。

 もしかすると、自殺だろうか。

 浮かんだ言葉はあまりにバカバカしく、しかしその考えを完全に振り切ることはできなかった。

 安藤が田辺の腕を握っていたのは、刺されたことに抵抗しようとしたからだと考えるのが普通だ。極々当たり前な、命の危機に際しての反射的行動だろう。しかし、もし仮に順序が逆だとしたら。つまり、田辺が首を刺したことに対して抵抗したのではなく、安藤が田辺の腕を掴み、ナイフの切っ先を自分の首へ誘導したのなら。

 不可能な話ではない、ように思える。

 しかし動機は? 自ら命を絶ち、尚且つそれを田辺に実行させる理由が果たしてあるのだろうか。脳内で問いながら脚本をめくり、文字をぼんやりと目で追う。

 想い人を田辺に取られた。それなら己の命を絶つ理由も、田辺の尊厳をけがす理由も……。

 いや、邪推するのは止そう。僕と安藤はそこまで踏み込んだ仲ではない。僕が知り得る彼の周辺なんてたかが知れているのだから。つまり結局、幾ら考察したところで真相は不明のままなのだ。死人に口なし。安藤は既にこの世にはおらず、田辺も碌に口を利けない状態。当事者の言葉を訊けず、劇の映像すら残っていない現状では、真実を究明することは不可能だ。即ち、僕が幾ら考察を重ねようが、警察の取り調べを繰り返そうが、それは真相に結び付くことはない。

 恐らくこの事件は田辺が犯人として処理されるだろう。真相がどうであれ、安藤の首を裂いたナイフを握っていたのが田辺であることは揺るぎない事実なのだから。しかし僕は、その未来に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。じっとりとこびりつくような不快感が喉の奥から迫り上がってくるようだった。


 明日も、明後日も、取り調べは続くだろう。結論へ続かない無駄な問答を繰り返して、その先に何かあるのだろうか。

 僕は脚本を閉じ、ため息を零す。

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