第2章 その5 恋歌
その5 恋歌
人気のない路地まで走っていたわたしは、突然不自然なほど眠くなり・・・油断しきっていたので、それが「眠りの雲」という初級の魔法呪文であることにも気づかず・・・そのまま連れ去られたようです。
今は制服のまま手足を縛られて、小さな部屋に押し込められています。
叔父様のお部屋を飛び出して、どれだけ時間がたったのでしょうか。
窓もない暗い部屋では、わかりません。
さらにしばらくすると、部屋の扉があき、わずかに明かりが差し込みました・・・誘拐犯?
でも、なぜわたしなんかを?
実家の生業は製紙・製本業ですが、たいして豊かではなく、しかもひきこもりにその侍女までいて、経済的には苦しいはずです。
身代金狙いなら、もっとふさわしい家があるでしょう。
では、目的は、わたし自身なのでしょうか?悪寒が走ります。
若い女性を誘拐し非合法奴隷として取引する・・・そんなことがあるのは、知っています。
だから、もしもの時は、懐剣で、それも無理なら舌を噛み切ってでも。
それが女の矜持。そう母から教わっています。それは叔父様にはわからない。
でも・・・叔父様。急に胸が苦しくなります。
部屋を飛び出したわたしがそのまま行方不明になったと知れば、叔父様はきっとご自分を責めます。
あの人は泣いて、苦しんで、傷ついて、わたしの両親にどんなにか謝って・・・そのまま死んでしまうかも・・・いけない。
絶対にわたしは生きて帰って、叔父様を安心させなければ・・・。
あの人の泣いたお顔は想像したくないのです。
そう思って、わたしは気持ちを強く持つことにしました。だから、開いた扉をにらみつけるのです。
「し~っ。」
ですが、そこから現れて、口元に人指し指をつけ、静かにするようわたしを見つめる、いつもの黒づくめの怪しい人は。
「叔父様!」
「だから、し~っだって!」
慌てて扉を閉め、外の様子をうかがう叔父様・・・どうやらまだ気づかれていないようです。
叔父様はわたしの側に来て、縄をほどきます。
わたしは自由になった両手で、叔父様に抱きつきました。
「待って。クラリス・・・まだ足の縄が残ってる。」
「待てません・・・叔父様・・・叔父様・・・。」
「やれやれ・・・ようし、いい子だ。クラリス。」
そんな子ども扱いも、今は不思議とうれしく感じます。
実際この時は、あの幸せな子供時代のわたしに戻っていたのです。
頭を撫でられ、抱きしめられ、もう安心、そんな気持ちです。
叔父様がいるだけでなぜ、こんなにも安心なのか、本当に不思議です。
これも洗脳とか刷り込みの成果なのでしょうか?
それでも、ようやく落ち着いて、わたしは叔父様への拘束を解きます。
叔父様はわたしの足を縛る縄もほどき、
「・・・ひどいことをされなかったかい。もしもされていても自害なんかしないでおくれ。」
と、不安げに聞いてきます。なんだか少し恥ずかしくなります。
「何もされてません。眠らされて、目が覚めたらここに居ました。」
「そうか。よかった。」
叔父様はそう言って、今度は自分からわたしを抱き締めてくれました。
またしばらく幸せな時間が続きます。
叔父様からわたしに触れてくるのは随分久しぶりです。
叔父様は年頃になったわたしにはかなり気を遣っていますから・・・おそらく母を気にして。
「じゃあ、誘拐した連中の目的もわからないか。」
「はい・・・ですが、お家の様子を知っていれば、お金目当てではないと思います。」
「・・・それはどうだろう・・・でも、まぁ、そうか。」
うちの財政を圧迫している張本人なのに、自覚が足りないようです。今は言いませんけど。
「じゃあ、キミ目当て?クラリスは確かに若くてきれいで、賢いけど。」
・・・ドキドキします。こんなにほめられていいのでしょうか?
「でも、まだ小さいし、きれいと言うよりはかわいいの方かなぁ。」
グサッです。傷つきます。持ち上げてから落とすのは、ひどすぎです。
でも、かわいいなら、まぁ、許しますけど。どこが小さいのかは不問です。
「しかし・・・逃げてもいいけど、理由も不明じゃあ、また誘拐されるかもしれないし・・・何かなくなったものとかないよね、念のため。」
「なくなったものですか?」
わたしは、暗い中ですが、自分の制服のポケットなどを探り・・・あ?
「叔父様。先ほど叔父様にも見ていただいた答案がありません。」
「うへっ?僕の落第した記念品かい。それは悪趣味な・・・。」
「ですけど、冷静に考えれば、あれは他の者にとって未知の術式です。叔父様にとっては20年前の不愉快な品物かもしれませんが、学園からは複製禁止で、持ち出し禁止の指示が出ています。実際は複製した上で、わたしに密命の上、制約を課して預けられたものなのですが。」
「密命・・・キミに制約をかけてまで預けるようなもの?許せないな、その教授。僕のクラリスをこんな術式と引き換えにできるもんか。」
・・・僕のクラリス。そう言っていただいたのは久しぶりです。心臓が躍ってます。
「だいたい、なんでキミにそんな仕事をさせるんだい。そんなにこれが気になるんなら、教授でも助教授でも直接僕の所に来ればいいじゃないか?しかもわざわざ夏休みに入るまで待って・・・そんなに表ざたにしたくないのか?」
・・・そう言われると、不自然にも思えます。
ただ、わたしは一学生なので、世の中の常識的なことにはまだ疎いというところはあります・・・この人ほどじゃないと思ってましたけど。
「では、叔父様は・・・学園内の誰かが、最初から仕組んでいた、と。」
「・・・そうだね。賢いクラリス。こんなもののためにキミを巻き込む愚か者なら、少々痛い目にあわせてもいいかな。」
「痛い目、ですか?非暴力主義の叔父様が?」
魔法も使えず、ケンカ一つしたことがないのが自慢の、この叔父様が?
「かわいいクラリスを巻きこんだ。その報いくらいは受けてもらう・・・僕は非暴力主義だが、無抵抗主義ではないよ。」
かわいいクラリス・・・すてきな響きです。賢い、かわいい、僕のクラリス。
叔父様のあの「回想」の術式は今こそ使うべきです。「むげんるーぷ」で。
そう考えていたわたしは、叔父様がどうやってここに来たのか、わたしが誘拐されたことに何故気づいたのか、そういうことに気が回りませんでした。
そして、叔父様がいろいろな、いえ、あらゆる意味でヒジョウシキ、そう言っていた自分の言葉すら、忘れていたのです。
「I order No26 to deproy the misson.」
聞いたことのない言葉が叔父様の口からもれます。
すると、叔父様の頭髪の一部が銀色に輝き、そこから髪の毛の一本が舞い降りて、叔父様の右の人差し指に巻き付いたのです。
「それ、魔法ですか?叔父様、魔法を使えたんですか!」
驚き、という言葉では言い表せません。
叔父様が魔法を使えるのなら、今までのあの悲しみは、あの憂鬱は、あの絶望は何だったのでしょう?
ですが叔父様がわたしにウソを言うはずはありません。
「これは魔法じゃない。言葉だって、魔法言語じゃないだろ・・・ただの暗号だ。この世界にない言語を使っただけの。」
「暗号?」
「うん。で、これは頭髪に偽装したスクロールだ。」
「なんでスクロールの偽装なんて面倒なことを?」
どう見てもただの偽装の域を超越しています。
「それは・・・こんなこともあろうかと!」
「叔父様は、いつも「こんなこと」が起こることを想像しているのでしょうか?それではただの被害妄想です!」
ですが、その後で叔父様が行ったことは、私から見れば魔法そのもの。
「・・・偽装解除・・・術式展開。」
叔父様がいくつかの古代魔法語をつぶやくと、指に巻き付いた髪が輝きを増します。
その輝きが、叔父様の眼前に、あの特徴的な飾り文字で描かれた古代文字を表出させます。
「これは、「眠りの雲」の術式?」
基本的な魔法です。
さっきはみすみす抵抗もできずに眠ってしまいましたが、呪文そのものは難しくはありません。
術式も初級のものです。
スクロールならこれでもう効果発揮するのでしょうけど・・・でも対象が目の前にいないのに?
叔父様は立ち上がり目を閉じています・・・こんな表情の叔父様・・・。
黒い夜のような瞳が今開かれました。
「天に星があり
空に雲がある」
その古代魔法語が紡ぐものは聞いたことがない、展開された術式とも無縁なもの。
「地に生があり
野に花がある」
ですが、なんてきれいで、滑らかな古代魔法語の詠唱。叔父様が唱えた景色がはっきりと目に浮かびます。
「そして世には人間があり、その術理がある。」
さっきのメルの詠唱を美しいと思っていましたが・・・響きも抑揚も・・・段違い。
「我は人の子ひとり、アンティノウス。術理に基づいて、術式の詠唱を行う」
アンティノウス。
叔父様の名前・・・聞いたことはほとんどなく、叔父様自身が名乗ったことも滅多にない。
その名が、古代魔法語によってとなえられる不思議な感じ・・・。
これは宣誓の儀式。後で、そう叔父様は言いました。
術式そのものを唱える前に、自分のいる空間そのものに術理を定着、顕現させやすくするための儀式だとも。
この時のわたしにはわかりませんでしたが、空間が静謐になり聖別されていくのです。
そして、ようやくスクロールの術式を詠唱していきます・・・長いです。スクロールですから、術式を開いた段階で術名を唱えれば・・・簡易詠唱といいます・・・発動します。
ですが、叔父様は一音一音、一節一節、丁寧に、とても正確で流麗に唱えていきます。
正直に言えば、わたしは長いとは感じませんでした。
その詠唱のすばらしさに聞きほれ・・・それを行っている、いつになく真剣な叔父様の姿に見とれてしまいました。
古式詠唱。そう叔父様が言う詠唱の方式は、もう何百年も前にすたれてしまった、古くて忘れ去られていたものだそうです。
「それは 安らぎに誘うもの
それは 静けさに導くもの
それは 休息を欲するもの
そして 眠りに落とすもの
雲よ 雲よ 慈悲深き雲よ
人を眠りに落とす優しき雲
そのものの名は 眠りの雲
眠りの雲よ ここにあれ!
*その働きは、最も広く、最も強く ならん
我、人の子の一人アンティノウスが願う。「眠りの雲」!」
叔父様が唱えると、大きな魔法円が形成していきます。
スクロールの威力は軒並み下級のはず。なのに、この魔法円の巨大さとまぶしさは異常です。
まるで上級呪文クラス・・・。
時々聞きとれない音節が入ります。
そして終わります。終わってしまう・・・でも、わたしの中には、叔父様の凛々しくすらあった表情が、切なくすら聞こえる真摯な声の響きが残っていて・・・。
叔父様の術式詠唱は、まるで恋歌のようです。
いくら思ってもかなわない、魔法への恋歌。
だからスクロールの詠唱はただの、報われない代償行為なのでしょう。
どんなに威力があっても、わたしには、せつなく、かなしくすら聴こえます。
「あ?叔父様!?」
叔父様は唱え終わると同時にわたしを抱き寄せたのです!
意表を突かれて・・・まだわたしの心は宙に浮いている気分です・・・。
ですが、大きな灰色の雲が出現し、叔父様のすぐ近くまで、押し寄せます・・・まぁ、そうですよね。
あのままでいたらわたしも巻き込まれていましたから、単にそれだけです。
変な勘違いなんかしていません。
「ゴメン、キミを効果から外す因子を入れ忘れて、少し我慢してて。」
しかもうっかりミス・・・まぁ、いいですけど。
さっきはわたしから抱きついたくらいですし、今さらこれくらい。
そう思いながらわたしは叔父様に抱きついたまま、雲が消えるまでしばらくはそうしていました。
ふっとため息がもれます。叔父様の詠唱を聴いた余韻がまだ体の中に残っています。
しばし、目を閉じて・・・。
ふと目を開けた時には、叔父様の人指し指に巻いた髪が消えていきます。
「ああ・・・これには術式の発動を制御する魔力が込められていて。発動が終わると消えるのは使い捨てのスクロールだからね。もともとはロック鳥の若鳥の羽で作った羽毛ペンで、闇鉱インクを使い、最上級の絹毛紙に描いたスクロールだ。それを、魔結晶と魔宝玉を溶かした溶液に浸して・・・」
自慢げな叔父様の話が続きます。
途中からわたしには分からなくなりましたが、叔父様の自作スクロール・・・自作ですか!?
でも、あの威力は?スクロールには下級呪文、せいぜい中級呪文しか書けませんし、実際「眠りの雲」は下級・・・初級と言ってもいいくらいの呪文。
それが、あんな立派な魔法円を表出させて!
スクロールですから、魔法を使えない叔父様でも使用できるのはわかります。
それでも、とにかく非常識極まりない現象です。
魔法学園の生徒が言うのも変ですが、魔法を使えないという叔父様の方がよほど魔法使い・・・常識からかけ離れた現象を生み出している・・・そんな実感でした。
ですが、これ1枚にお金がかかりすぎです!穀つぶしの癖に・・・。