外伝 その4「見せてやるさ、僕が苦心して開発した、肉体呪符術式の成果とやらを!」
その4「見せてやるさ、僕が苦心して開発した、肉体呪符術式の成果とやらを!」
「きゃあああ、おねえさん、こわいのぉ~。」
わざとらしくつまずくふりをしては少年につかまり、ほとんど聞こえないホント~に微かな音に驚いてはしがみつくのだ。
もはや「白衣の」聖女姿からポンコツ冒険者に急転落のナーデさんである。
女性本来の母性本能と、彼女が持つ特殊な趣味の両方を刺激されている。
これはこれで難儀な状態なのだ。
しかし少年はそんな誘惑に負けず、順調に夜の森を進む。
もともと大した距離でもないし。
すると、それまで曇っていた夜空がわずかに晴れ、幾つかの星を瞬かせる。
それを映す少年の瞳。
「アントくんの瞳、本当にきれいね。初めて見た時からお姉さん、大好き。」
少年は思いっ切り困惑してる。
普段はまわりを混乱させまくってるくせに、ナーデさんたちには初めから完全にペースを握られていた。
前世の年齢は、こういう経験には欠片も役にたたず、結局16歳の年齢よりも人なれしていない実生活が露骨に出てしまう。
「……夜の、光る星も暗い闇も全部、映してる。あなたの瞳には、きっといろいろなモノが見えているのね……私に見えないモノも。そして、私が見てしまったモノをまだ見てない。」
14歳で村を飛び出し、戦場の合間を縫っての冒険者稼業も8年である。
思わず、いろんなことが……あまりきれいでない記憶がよみがえったのか、フッともれた重い一言。
「え?そんなこと言われても……ナーデさんと同じですよ。」
しかし、少年はそんな女性の心理に気づくなんて余裕はなく、あっさりスルーなのだ。
これは、運よくこのまま生きのびて大人になってもきっと変わらない、残念なくらいに人の気持ちはわからない男である。
それに、少年の黒い髪と瞳は、金髪碧眼が多い王国では圧倒的な少数派。
加えて言えば歓迎されない。
それでも同じ色の兄は体が大きくてバカにされることはなかったが、自分は……奇行以前に存在が侮蔑の対象だった。
髪も瞳も、小さな体も全てが。
「そんな風に褒められたのは初めてです……瞳の色を褒められるって、変な気がする。」
戸惑う少年に、更にナーデさんの声。
「そう?私は褒められたいけどな……私の瞳なんか、こんな色でしょう?青でも碧でもない、薄い色で、目立たないから、ちょっと残念なんだ。」
その瞳はヒスイ色。
くっきりした碧眼が多い王国では、珍しいかもしれない。
しかし、少年からすれば、黒なんかより余程キレイだと思う……面と向かって年上相手に言えないけれど。
そのまましばらく進む二人に、わずかな時間の沈黙が降りる。
しかし。
ナーデの腰にさしたものが少年に触れる。
少年は、その魔術宝杖に気づくと、態度を豹変させた。
それはもう、見事なくらいで、君子でなくても豹変くらいはできるという悪い例であろう。
「そう言えばナーデさん!」
「な、なにかな?」
「ナーデさんって、その歳で肉体治癒術式の使い手なんでしょ!」
まずは、女性相手にいきなり「歳」から入る暴挙である。
ナーデさんはまだ若いからいいとしても
「え、ええ。そうよ。」
少年の腕こそ離さないが、その豹変ぶりに思わず後ずさりになるナーデだ。
或いはこれこそがこの少年の本性と言えるのだが、今まで幸いにも少年はナーデと会う時は気絶中か治療中なのでようやくまともに会話している、とも言える。
気絶中を会ったと言えれば、だが。
そんなナーデさんに向かって、少年の暴走は続く。
「なんで回復魔術って難易度高いのかな術式の情報量に比べて魔力消費量や詠唱技術難度が高すぎだと思うんだよね他の系列と比べても異常だよこれが精霊系なら『回復』なんて下級レベルだよなのに中級、回復系の初級『手当』なんかほとんど血止め程度なのに一般術式じゃあ下級の上位クラスだよ冒険者さんなら魔術なしで応急手当くらいできるんでしょあんなの誰も使わないって」
息もつかせぬ、というよりも、自分自身がほとんど呼吸していないのではないかという、怒涛のラッシュである。
「えっと、えと、えと……」
「ねえねえナーデさんなんで回復系は難度高いのナーデさんくらいならわかるんでしょなにしろ『白衣のナーデ』さんって言われるくらいほとんど聖女様なんだからねえナーデさんったら」
「待って待って!マテったら!」
もう両腕で少年の迫る顔を押しのけ始めるナーデさんである。
いくら少年に母性本能と特殊な趣味の両方を刺激されていた難儀な状態だったとは言え、これで一気に醒めた。
「あなた、なんでそんなに魔術に詳しいの!?系列ごとの術式の難度なんて、魔術師でもある程度の知識がないと気づかないのよ!」
回復系魔術の難度については、実は明快な回答はない……この時代は。
かろうじてその理由らしきものが推測されるのは、異世界人たちが自分の世界の魔術と比較することで始まる比較魔術学の発達を待たなくてはならない。
その創始者こそが……なんですが、ね?
「ええっと……イヤだなぁ。僕が魔術師ならこんなところにいないよ。」
珍しく正論である。
もしも彼に魔術師の才能があれば、めでたくエス魔院ご入学、最悪でも速成魔術師へご入隊である。
少なくてもこんな最前線の消耗品にはなっていない。
しかし、ナーデはそれくらいで追及をやめなかった。
実は彼女も少年に対して密かにある種の疑念を抱いていたのであった。
「アントくん!わたしも前から聞きたかったの。あなたの右腕には魔術の呪符があるわね。左腕はそれを行使した結果の火傷跡。あなたに呪符を施した非道な魔術師は誰?」
「ええ!?」
気がつけば、いつしか完全に真顔になったナーデさんだ。
小声で、しかしこちらをにらんでいる。
先ほどまでのポンコツぶりは演技……ではないのだが、本性でもない。
「生物の肉体に呪符儀式を行うのは、魔術師としては重大な禁忌よ。あなたがなんでそんなひどいことをされたの?そんなひどいことをしたのは誰なの!?」
呪符とは、魔術に関わる、例えば術式を魔宝玉に込めてマジックアイテムを作成する行為である。
疑似魔術回路を宝玉または特殊な金属に書き込むことで、記入した術式を繰り返し使用できるアイテムができる。
己の体内で魔術回路を生成できる魔術師ならさほど必要がないが、人族の圧倒的多数はそうではない。
誰でも魔術が使える呪符物は、王族貴族ならずとも、上位の騎士や冒険者なら不可欠である。
もちろん作るのには高額な費用がかかり、制作に必要な技術を考えれば、数は少ない。
古代の遺跡から出る発掘品の方が、一般的には多いくらいだ。
ただし、そんな呪符物を制作する者にも、禁忌、やってはいけないことがある。
その一つが生物への呪符である。
「生きてる人間に呪符するなんて……なんて残酷な行為、許されないわ!」
まず、呪符には苦痛が伴う。激痛である。
入れ墨よりも強く彫り込まれ、かつ生命力をガリガリ削られる感覚だそうである。
魔術や薬で眠らされても痛すぎて目が覚めるとか。
「それに……あなた、使わされたのね、左腕の呪符を……なんてひどい!」
生物への呪符を禁止する理由は、何よりも、その呪符を行使した後の惨状である。
例えば、魔結晶などを混入した魔性インクで、特殊処理した紙に術式そのものを記入する呪符巻物がある。
しかし、一度使用したスクロールは消滅する。
魔宝玉や特殊な金属を使用していない限り、疑似魔術回路を使った結果、その素材は魔力の発現に耐えきれないのだ。
つまり、人体はじめ、生物に呪符した場合、その呪符を発動する度に、その部位は良くて大きく損傷、通常は消滅するのである。
それゆえに、生物、特に人への直接の呪符は、魔術師とって重大な禁忌なのだ。
ナーデは、少年の右腕に未だ未使用の呪符があり、左腕の火傷は呪符を発動した跡と気付いていた。
しかし、これは魔術師の禁忌に触れることであり、今まで人目を気にして聞くのをためらっていたのだ。
しかも、いつも会うのは気絶中。
回復すればすぐに部隊に復帰する少年だった。
「……それで、ナーデさん、僕に優しかったんだ……やっとわかりましたよ。」
自分なんかが女性に親切にされる理由がわからず落ち着かなかった少年である。
哀れな犠牲者と思い同情された、と彼なりに納得した。
実際は、それだけでもないのであるが。
「だけど……それ、誤解。僕のこれは……誰かにされたモノじゃないから。」
その後の短い道中だが、ナーデに厳しく追及されながらも、なんとか耐えた。
何しろ戦闘前なのだ。
それでも短い道中、その左腕を柔らかいモノで拘束される幸せな時間のはずなのに、目標が見えると思いっきりほっとする少年である。
「ふう……ええと、マグド分隊アント二等兵です……中隊長殿にお取次ぎください。現地徴用兵のナーデさんが敵情の報告にこられました。」
テントすらない野外であるが、さすがにナーデも様子を改めている。
「……ナーデ曹長です。直に偵察内容をお伝えします。急ぎ、お願いします。」
一応パーティメンバーは、フィネは軍曹、他は曹長待遇の軍属となっている。
ナーデさんも、さすがはTPOをわきまえた熟練冒険者である。
毅然とした態度に変貌し、中隊長に案内されるのである。もっとも
「アントくん、帰りもお願い。大人しく待っててね。」
この一言は、アヤシイのだが。
公平に見て、ナーデの行動は趣味的な要素がうかがえるが、軍務に支障をきたすことはなかった。
少年に先導役を頼んだのも、誤りとは言えないし、魔術師として禁忌を問うことも職業倫理上、当然である。
今までなかなか二人きりになれなかったのも確かだし。
だから、これから起きる出来事は、彼女の責任でもなんでもない。
「遅いな……だから段取りを決めておけと言いたいのだが。」
森の中に潜み、ゴブリンの集落を監視するナーシアは、少し苛立っている。
「ナーデは今行ったばかりネ。それに軍が段取り良くなったら、あたいらの出番が減るネ。」
そんな仲間に、フィネは明るく返す。
実際、現地徴用兵の仕事は、一部歩合給もある。
こういう仕事はわりのいいボーナスになる……偵察で終れば、だが。
「おい、ナーシア。そう言えば、あんた、気になること言ったね。」
ジューネの顔が険しい。
ナーシアも最も実戦経験が多い彼女には、一目置いている。
「ん?何をだ?」
「だから、さっき。あんた、隊長に、自分ならどうたらって。」
「……自分としては、せっかく発見した好機、故意に自軍の位置を知らせ、自陣に誘引、一気に埋伏の計で決着をつけるが有利、と説得したのだが。」
先ほどと一言一句、抑揚まで全くたがえずに繰り返すナーシアだ。
几帳面にもほどがある、とフィネは思う。
思いながら……なぜか背筋に寒気が走った。
危険信号である。
「ねえ……なんかやばくない?」
こんな時は、思わず「ネ語」も忘れて、素で話してしまうのだ。
「ちっ、お前もそう感じるか。なあ……これさ、立場を入れ替えるとどうなるんだ?」
「……入れ替える?亜人どもが我らを誘引し、待ち伏せしたというのか、ありえん!……と思いたいが……もしもそうなら、友軍の敗北は必至、いや、生還が危ぶまれるな。」
直感のフィネ。
経験のジューネ。
そして、理論のナーシア。
この三者が一致した時のこのパーティは、驚くほどの力を発揮する。
若い娘4人が冒険者として活躍できる所以だ。
「しかし、我が雇用主ですらためらった、そんな高度な戦術や部隊行動を亜人ごときが……多少の組織力があるオークですらムリであろう。ましてゴブリン、オーガが、か?」
「オーガと言えば、前線のうわさネ!他所の大隊では、ウワサを広めた兵が処分されたネ。」
「あれか?オーガの亜種とかっていう?でもなあ……流言の類って厳命で……確かに臭いな。」
ナーデという、カリスマ性と決断力のあるリーダーを欠いた現状だ。
彼女はすぐにもどってくるとは言え、その間無策ではいられない。
「最悪に備える。自分はこのまま待機する。夜目の利く二人は」
「あたい、後ろネ!」
「ちぇ……んじゃ退路の確保、頼んだよ。俺は周りを探ってくる。」
「頼む。」
自分たちは敵を監視しているはずだった。
が、その自分たちが実は既に補足されている可能性がある。
正直言えば、手練れの冒険者である自分たちにも悟らせない、そんな罠を亜人たちが、と思わなくはない。
しかし、もしもこの不安が当たった場合、不慣れな夜戦で、しかも仕掛けたつもりが仕掛けられたとすれば、友軍の全滅間違いなし、であろう。
そして、この場合の全滅は、軍の編成上の「全滅」……部隊の3割死傷……ではすまないのだ。
そして、それが始まった。
先ほど、一時晴れた夜空が、風によって再び曇った。
その時。
まさに中隊長が決断し部隊に攻撃の指示を出す直前であった。
ひゅうううううう……どぉおおん、ぐしゃ……ひゅううううう……ひゅうううう……
暗闇の中、風を切って、どこからともなく、多数の大岩が飛来した。
その数は数十……ひょっとすれば百を数えたかも知れぬ。
そして地面に落ちては、辺りの土砂を飛び散らせた。
中には岩自身がもろいのか、数発は着弾の度に岩片をまき散らし大きな被害を与える。
岩の直撃を受けて即死するものもいたが、この破片でのケガを負った者は多かった。
これは、前もって軽くハンマーでたたきヒビをいれた岩が交じっていたからだ。
榴弾と同じ効果を狙ってのことだが、人族がそのことに気づくのは後のことだ。
そして、この初撃はやや後方の大隊本部に集中し、その後各部隊に波及する。
前衛の各中隊にも次第に地響きと悲鳴が近づいて来るのである。
「なんだ!」
「わかりません!」
誰一人、まったく状況についていけない。
いや、一人。
「中隊長!今すぐ撤退を!」
ナーデは、自分たちの偵察結果に自信を持っている。
それでも実際におこった出来事は、偵察されたゴブリンやオーガの軍勢を越えている。
正体不能な敵に、不利な夜戦を挑めば必ず負ける。
しかもおそらくは大敗。
ならば、未だ多くの部隊が健在なうちに、少しでも早く撤退するべきである。
ジューネほどではないが、山賊や魔獣相手の戦いに亜人相手の戦闘も経験している。
その判断は現実的で早かった。
少なくても安否不明の大隊長の指示なんか待っていられないのである。
「しかし……退路が……」
暗闇で突然の撤退。
夜目が利く亜人相手に、逃げ道を探す。
だから前もって退路は確保するべきなのに……軍って形式や権威に取らわれて、現実的ではない行動をとりたがるのね、と憤然とした内心を覆い隠して説得する、大人のナーデさんである。
「わかりました!退路はわたしたちがつくります!」
彼女がとっさに考えたのは、仲間を二手に分けて、灯りをつけて囮になる自分と、夜目で味方を先導する3人に分けようということだ。
もちろん敵も夜目が利くが、「光」を照らして、たまに「火球」でも派手に撃ち込めば一人の自分でも充分目立てるだろう……。
この時、彼女は仲間が既に動いていることを期待している。
だから離れている自分が別行動、と即断できた。
後は、念のために自分の行動を仲間に伝えれば、成功率は更に上がる。
「アントくん、わたしの仲間に、ナーシアたちにそう伝えて!わたしは……」
「イヤだ。」
「わたしは先にいって……え?」
驚く彼女に、少年は決然と告げる。
彼にしては珍しい態度である。
思わず目を見張るナーデ。
「イヤだ!僕はチビで未熟で、弱いけど、ナーデさんを、女の子を一人で囮にする、なんてまっぴらだ。そんな伝令は、そこの伍長さんにでも頼んでよ!」
もちろん二十歳過ぎのナーデさんに「女の子」と言うのは、少々不躾な前世の常識である。
それでもナーデは、「女の子」と言われてうれしくなかったわけではないらしい。
いくつになっても乙女なのである。
思わぬ少年の健気さと相まって、思わず顔がほころぶ。
特殊な趣味の方もうずいたらしい。
「だけど……」
「僕は……ナーデさんについていくから。だって、ナーデさんが言ったんだろ、怖いから守ってって!!」
最初に助けて以来、ナーデは傷ついた彼をひたすら介護し、年下のか弱い少年としてかわいがった。
聖女的な意味でもその特殊な趣味の上でも、なかなか手のかけ甲斐のある少年であった。
ただ、ナーシアやジューネが言うような「使い手」という印象はもっていなかった。
あまりに小さくて、細いのだ。
だから16歳と言う年齢も全く信じていなかった。
精々14歳くらいであろう、とも思っていた。
「あなた……」
「時間、ないんだろ。あまりあてにはできないと思うけど……でも、ナーデさんを襲う敵の一人くらいは倒して見せるから。」
元は白かったろうに、今は日焼けして、少々生意気そうな顔。
「だいたい正規兵でもないナーデさんたちが、そこまで危険を冒す義理はないんでしょ。なのにそこまでやるんだから、一応兵士の僕がその護衛をするのは当然だ。」
兵士として。正直に言えば、これは照れ隠しである。
今の少年は、特段生きのびる執念がない。
生きて何かを為したいとも思っていない。
理想もなければ目標もないのだ。
自殺した挙句の転生で、罪の意識が消えないまま魔術も使えず受験も失敗。
部隊にもなじめず……そんな人生はコリゴリで、今生で自殺しないのは、もう一度で懲りたから。
だから
「ここが、僕の命の捨て場所さ。」
ましてナーデはキレイな女性で、自分に優しくしてくれた相手。
意外に少年はあっさりと決意できた。
世話になった女性の為に戦って死ぬのは、悪い死に場所じゃない、と。
そして、そんな青い決意に、ナーデは困った。
迷った。
術式の詠唱や複数に対峙することを考えれば、護衛は必要なのだ。
それに、少年の決意も好ましい。
そして、ついに妥協した。
「ダメ。死ぬ気なら連れていけないわ……必ず生きてね。だったら許します。」
そんなナーデの答えに軽く応じる少年。
「……んじゃ、なるべくそうします。」
まぁ、この程度の決意なのだが。
ひゅうううう……どしゃああん!
「ぐわあ」
鋭い岩の破片で足を失った兵士が倒れる。
「ぶぅぉ」
喉を潰された兵士が崩れる。
「…………。」
巨石が顔面を襲い、もう首から上を失った兵士の死体がある。
「げええ……いてえよぉ」
内臓をまき散らして這っている兵士がいる。
「死にたくねえ」
もう傷だらけで、力を失い、つぶやくだけの兵士が頭を抱えている。
「かあちゃん……ンッ」
伸ばした腕が、パタリと落ちた。
その兵士の目にはもう何も映らない。
1000人近い大隊は、とっくに指揮系統を失っている。
人族には見えない暗闇から飛んでくる、無数の岩。
ただ、その岩だけが彼らの部隊を砕いた。
まだ、亜人はその影も見せない。
「こっちネ!」
フィネの案内に従って、ようやく動き出した前衛部隊は既に半数を失っていた。
彼らだけは唯一、姿ある敵と戦った。
いや、正確には一方的に襲撃されたのであるが。
ゴブリンの集落を見張っていた前衛の各中隊だったが、攻撃命令が下りる直前、その後方から地響きと友軍の悲鳴が聞こえると、監視し襲撃する対象のゴブリンたちが一斉に襲ってきたのだ。
敵に気づかれないためにわざわざ見えない暗闇で待機していた人族が、暗闇でも見える敵から襲撃されたという物心両面の不利が大きく、大損害であった。
「オーガが隠れていやがった……ゴブリンの集落に隠れるなんてありか!」
そしてその一因はオーガ種の意外な形での参戦。
ゴブリンの集落近辺で確認していたはずなのだが、開戦直前になると戦闘経験が豊富なジューネが、念入りに偵察して見つけられなかったのである。
別種の、しかも巨大で狂暴なオーガがゴブリンと共同作戦を行うという未曾有の事態に、最悪を予想していた冒険者ですら完全に意表を突かれた。
「亜人たちが、かくも見事な作戦を立案し、かつ緊密に連携し、そして、完璧に実行しえた……もうお手上げだな。」
それでも、冒険者3人が主導して、かろうじて撤退を始めている。
森の細い道……は絶対伏兵がいるであろう。
フィネが短い時間で見つけた退路は、半ば以上ただのケモノ道だ。
そんな道なき道を傷ついた兵らが無言でヨロヨロと進む。
本来ならば死体ですら回収する人族……亜人の食料になる故……が、歩けない者を見捨てて逃げ帰っている。
苦痛にも嗚咽にも耐えて、重い沈黙に包まれるのは当然だろう。
「……ナーシア。そう言うけどさ。どっかうさん臭くないか?亜人がいきなりこうも変わるなんさ?」
「そうネ。絶対裏があるネ。」
「ジューネにフィネもか……ならば……」
先導する三人は、周囲の警戒をしながらもそんな話をしている。
もちろん小声ではある。
「そうそう。撤退が一段落したら、裏を探しに行こうぜ!どうせ俺たちを雇ってるこの隊ももう戦線離脱は決定さ。」
「お代はしっかりもらうネ。で、パ~ッと街でひと騒ぎネ。でもその後は自主的に……ネ?」
フィネは、普段通りの明るい口調である。
パーティのムードメイカーを自称するにふさわしい。
ひと騒ぎとやらを期待して、背後にルンルンという擬音が見えそうだ。
「久々の自由な冒険再開か、確かに胸が躍ります。」
見るからに謹厳なナーシアですら、味方の惨状の中でこんな発言をしている。
「ああ……ワクワクすんな。」
蛮族出身とは言え、優しいジューネも。
彼女たちは、決して薄情なのではない。
ただ、戦場で悲しみ意気消沈しては、死を招く。
そのことを骨身にしみて知っているだけなのだ。
おそらくは生還した後に大いに嘆くことになるだろう。
特に、この場にいないリーダーは……。
「そうネ。ナーデも、きっと賛成するネ。最近の部隊の男どもの視線、やばかったネ。」
「ああ……だが、無茶しなきゃいいが。」
先刻、彼女の使いが来て、伝言したのだ。
使いの伍長はウソのように無傷だったが。
「あの少年も一緒なのか……無事だといいが。」
あの少年。
体格に似合わない戦果を出しながら、戦うたびに常に重傷を負っている。
いろいろと気になる存在だ。
「ナーデのヤツ、ご執心だったからな。あっちの方も心配だ。」
「……そういう心配ではないのだが。」
「ん~……いや、あたいはそっちが心配ネ。」
「なんだ、フィネも狙ってたのか?」
「おい、貴公ら不謹慎すぎるだろう。」
「ちぇ、堅物。」
「年増処女ネ。」
「……わたしはまだ22だ。どうせ貴公らもすぐこの歳になるぞ。」
「あたいは永遠の17歳ネ。」
「俺は13で済ませてるからな。」
「初耳ネ!」
「……乱れてるな。」
「ほっとけ。そういうしきたりだ。」
さすがに撤退中の友軍兵士には聞かせられない話になってきた。
そのタイミングで……少し遅かった気もするが……遠くで腹に響くほどの轟音が起こり、次いで高い炎が巻き上がった。
その炎は、辺りの木々よりも高く夜空に伸びて、アカアカと一面を照らす。
「あれ、ナーデの『火柱』ネ!」
「あんなの使いやがって。『火球』よりも目立つぜ。」
「さすがは我らがリーダー殿だ。囮という上では目立つのは正解なのだが。」
あれでは目立ち過ぎて、自分が危ういのでは、と誰もが思う。
それでも使ってしまうほど、彼女は必死なのだろう……味方を一人でも多く逃がそうと。
心優しい友の心境を思いやって、無言になる仲間たちだった。
「すごいすごい!ナーデさん、僕、こんな術式始めて見ましたよ!」
そもそも実際の魔術師に会ったのは、エスターセル魔法学園受験のために魔法文字を学んだ時以来である。
もちろん特務部隊にでもいない限り、実際の攻撃魔術の発動を見ることは滅多にない。
しかも「火柱」は中級でもレアな術式と言っていい。
効果範囲こそ有名な「火球」に劣るものの、その中心に収束するダメージは高く、何より、高々と舞い上がる火炎の柱が、見る者に与える精神的な影響は大きいのだ。
そんなモノを身近で見せられて、もう時と場所をわきまえず自分に食らいつく少年に、そういう趣味があるナーデも少々困惑している。
いや、これこそがこの少年に関わる者全てが抱く正当な反応なのだが。
「ああ、もう、アントくん、そういう場合じゃないんだから。ちゃんと走って!」
そうじゃない場合なら或いは歓迎したとしても、後ろからゴブリンの群れが迫っている中、さすがの熟練冒険者も余裕はない。
森の細い道から外れ、友軍主力部隊……のなれの果て……の退路から思いっきり敵を引き付けるナーデさんである。
隣にいる少年は、小柄なせいか、森の中の同伴者としては悪くない。
彼女に遅れずついて来る。
これも従軍以来体力がついてきたせいであろうか。
いや、盾も小剣もヘルメットすらとっくに捨てて身軽なせいか。
しかし、彼女らの退路は、前衛部隊とも主力部隊からも離れ、敵の意表を突きながらも逃げるという、本来ありうるべき逃走経路から程遠い。
そのせいであろう。
遭遇してしまうのである。
「えい!」
ナーデの護身用の小剣は、ゴブリンの目を切り裂く。
「……!」
少年の槍は、ホブゴブリンの喉を貫く。
ほとんどはナーデの「眠りの雲」で無力化したが、抵抗し追いすがった者には実力行使の白兵戦である。
魔術師ながら戦闘経験豊富なナーデは一般種のゴブリンなど、ものともしないし、少年も一対一ならば、動いた瞬間の一突きで大物相手に瞬殺である。
「……すごいね、アントくん。そんなに強いなんて。」
走って、戦って、ちょっと少年を見直したナーデさんだ。
「ナーデさんこそ魔術師なのに、何体も倒して、すごいです……って、うわっ!」
「きゃあ!」
森の中を駆ける二人の前に、それは現れた。
「闇の中に光る赤い目……でも、あんなに高い場所にある?」
「オーガかな?それにしても大きいヤツだな。」
人と敵対する亜人の目は赤く輝く。
暗闇で戦うとすれば、それだけが敵を識別するモノと言える。
しかし……
「オーガでも、3メートルくらいだったし。僕の身長の2倍前後のはず。でもあいつは3倍近い!」
「まさか……うわさのオーガの亜種かしら?」
「そんなウワサあったの?」
「あなたも前線に出てるんだから、少しくらいは自分で調べないと……って普通の兵士じゃしかたないか、な?」
ずん。
前方の木々を揺らし、近づく巨影。
しかしナーデの「暗視」はその闇の中で鮮明にその姿を見出す。
「オーガ?……ちがうわ!身長もだけど、こんな肩幅が広くて、顔もオーガよりずっと武骨で、頭のあれはコブ?ツノ?……背中のカゴにあるのは……あの大岩!本隊を襲ったのはこいつらなの!?」
この場にいるのは、見たこともない亜人が10体ほど。
おそらくは敵主力のほんの一部。各方面に分散し、人族に投擲攻撃をしかけていた……兵科で言えば、擲弾兵というべきであろうか。
しかし、この体格とあの剛腕から投擲される大岩は、未だ火砲のないこの世界では最大級の物理的破壊力をもつと言える。
これに勝るのは、高レベル戦士の一撃や中級以上の攻撃魔術のみかもしれない。
しかし、前線で数十、あるいは百を超える数を、しかも連続で、となれば……やはり部隊としては最強であろう。
もちろんその白兵戦の能力も含めて。
ナーデは、戦ってあの敵を突破することは不可能と断じる。
ならば迂回するしかない。
敵の追撃も振り切って、味方を逃がし、そしてこの情報を必ず持ち帰るために。
「アントくん……いい、今から『俊足』という術式を使うわ。そしたら一気に逃げるから。私が詠唱を終えるまで、なんとか逃げてね。」
ナーデは、残念ながら簡易衛詠唱できるほどこの術式には慣れていない。
かろうじて略式詠唱はできるが、数秒かかる。
「待ってよ。急ぐんなら……僕に任せてよ!」
しかし、少年が意外なことを言う。
魔術師でもないくせに……まさか!?
「そうさ。僕は、体のあちこちに術式を呪符してるんだ……自分自身でね!」
魔術師でもない、しかもこんな少年が自分で疑似魔術回路や術式を呪符した?
「そんなことって……」
ナーデには信じがたい。
しかし、少年は言い放つのである。
「見せてやるさ、僕が苦心して開発した、肉体呪符術式の成果とやらを!」
そして、自分の右奥歯に刻んだ、ある術式を起動させるのだ!
「加速装置!カチッ……言ってみたかったんだよ……『俊足!』」
少年の口元から、微かな白銀の光が漏れる。
この光は魔術の発現象に伴うモノ……そして、小さな魔法円が少年の眼前に現れた!
そして少年のみならず、ナーデをも白銀の光、魔力が包み込む。
ちなみに「加速」という術式は実在するが、中級の時間系なので今の少年には手が余るし、例のサイボーグ戦士並みの「加速」の実現には、超級魔術師以上のレベルが必須となろう。
だから、移動速度上昇の「俊足」は、彼の妥協の産物である。
それでも
「ホントに!しかも口の中に呪符なんて……どうやったらそんなことできるの?」
そう驚くナーデさんであったが、それは少し早かった。
なぜなら、次の瞬間!
「うぐわああ!」
そんな絶叫と共に、少年の口からは噴水のような赤い血と、白くて小さな破片が飛び散ったのだから!
地面に突っ伏しのたうち回る少年。
もう意外過ぎて、ナーデさんはリアクションすら忘れ、無表情で立ち尽くすことになる。
「んげええ……ますぁくあ、くちゅんなきゃでふぁぐやくづあけりゅぬあんちゅえ……」
まさか、口の中で歯が砕けるなんて、である。
これは、口内クラスター、とでもいうべきであろうか。
説明は不要とは思うが、生物の肉体に呪符した場合、それが発動した際に魔力に耐えきれずその部位はよくて損傷、悪くて消滅である。
少年の場合、奥歯つまり痛覚のない場所なので、呪符の際の痛みはほとんどなく……腕のいい歯医者さんの治療くらいは痛いらしい……ある意味画期的な手法なのだ。
が、今回は発動した際の被害が運よく……この場合は運悪くだが……消滅ではなく損傷、破裂という形で現れたのであろう。
これが歯の一本の消滅ならばむしろ大成功と言えたかもしれないのに。
「ああ、もう……賢いのか、失敗のダメージを考えるとバカなのか、よくわかんないけど……でも魔術は発現してるわね……さぁ、逃げるわよ、アントくん、立って、ほら、男の子でしょ!」
おそらく、ナーデが唱えるよりは早かったかもしれないが、不要なダメージを被ったおかげでプラマイ……ゼロ?
あるいはそれ以下か?
「……ふぁい。いしょぎぃむぁしゅう。」
口から血を流しながら、はい、急ぎますと言っている少年である。
それでもナーデに「手当」を簡易詠唱でかけてもらい、そのまま走りだす。
「ペペペ……ありがとう、ナーデさん。『手当て』って意外に使えるね。」
こんな時でも術式の使い勝手を気にする変人であるが。
ナーデがその手を引く。
「もう……そんな場合じゃないから。急いで!」
二人の影にめがけて、見慣れぬ亜人は残った大岩を次々と投じるのである。
あるモノは木に遮られ、あるモノは速度にかわされ、あるモノは地面に飛び散り、その破片で少年の背中を傷つけた。
もっとも、この投擲を恐れて、ゴブリンが追跡をためらったのは、逃亡する少年とナーデにとっては僥倖と言えるのだった。
後日、この新種の亜人はトロウルと命名されることになる。
だが、その存在は、未だほとんどの者には知られていないままである。




