第17章 特別の日 その1 失踪の日
第17章 特別の日
その1 失踪の日
講義室に入ってきたメルを見るまでは、わたしは今日が「その日」だったということをうかつにも失念していたのです。
明日はいよいよ2学期最後の日。そしてまもなく「冬至」なんです。
そして、その日の2校時目の「魔術原理」の講義にやってきたのは、いつになくしょんぼりとしたメル一人。
みんなは「フェルノウル教官、また休講?」とか言ってますけど、叔父様は「術式の書方」を休講にする時はあっても、「魔術原理」を休むことは、あのガクエンサイ前の行方不明時以外はほとんどなかったのです。
そのことに気づいているリトやアルユンといった熱意あるフェルノウル派は、怒ったような顔をわたしに向けるのですが、わたしをにらんでも困るんです。
「本日ご主人様はいらっしゃいません。代わりにメルが、ご主人様のおおせに従って、魔術教典の解説をするのです・・・。」
そこでようやく気づいた不敏なわたしです。
叔父様が休まれるときは、メルはいつも「ご主人様はお休みなのです」と明言します。
あの人は自分が怠惰なひきこもりで講義を休むことを隠そうとはしないのです。
だから、今は、叔父様は休んでいるのではなく、いなくなったのです!
それは、彼女のペッタンコになった犬の耳が、だら~んと垂れ下がっている犬の尻尾が証拠なんです。
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もう4年も前のことです。
叔父様がメルを助け、引き取って数か月が過ぎました。
わたしたちフェルノウルの家族は新参の半獣人に嫌悪交じりではあるものの、多少は慣れ始めていたのです。
それなのにその日の夜、メルが泣きながら暴れだし、「開かずの部屋」つまり叔父様の部屋をめちゃくちゃにしていたのです。
その不審な音に慌てて部屋に入ったわたしでした。
「ご主人様がいないのです!メルには部屋にいなさいって言いつけて朝にお出かけになったままお帰りにならないのです!ご主人様がいないと、メルは生きていけないのです!」
泣きながら叔父様を探し求めるメルを見て、もうすっかり元気だと思っていたこの子が、まだ心の傷を抱えていたことを、わたしはこの時初めて知ったのです。
叔父様がいなければ、暗闇を恐れ、夜も眠れないメル。
もちろん叔父様はそれを知っているはずなのに、そんなメルを置いたまま、その日は帰ってこなかったのです。
「ちっ、そう言えばもうそんな日だったか。」
「まったく・・・いい年して。しかも子どもを引き取っておいてまだなのかよ。あのバカ。」
お行儀悪く舌打ちするおじいちゃんに追従して、自分の弟を罵倒するおとうさん。
二人が言うには、叔父様は子どもの頃・・・多分30年以上前から毎年この日は行方不明になるんだそうです。
「ええ?わたし、全然気づかなかった!?」
「そりゃそうか。子どもの頃はまだしも、いつもひきこもって部屋から出てこない奴が一日姿を見ないからってだれも気にしないし。」
「今日はあの犬娘が暴れたんで気づいたが・・・毎年この日はたしかにいなくなる日だったな。一年に一回だから毎年忘れちまうんだけどよ。」
そして翌朝。
その年の一番弱々しい朝日が昇り、辺りがようやく明るくなった頃、叔父様がもどってきたのです。
その朝はその年の冬でも冷え込みが厳しくて、見るからに寒そうです。
そんな冷え切った叔父様を見つけるや、勢い込んで駆け寄り、泣きじゃくって抱きつくメル。
その姿を見ながら、わたしは不思議に思ったのです。
これほど自分を頼りにする存在を放置していなくなるなんて、叔父様にどんな事情があるんだろうって。
ですが、そのことは誰も知らず、叔父様もこの件に関してだけは一言も話さず・・・。
そして、この一日だけの謎の失踪はおそらく毎年繰り返されたのです。
わたしはその後思春期に入り、叔父様と疎遠になったおかげで、以後忘れていたのです。
メルの様子以外は。
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いつになく淡々としたメルの講義に、さすがのクラスメイトも疑問を抱き始めます。
「メル助手・・・今日はご主人様講座はないんですの~♡」
ファラファラがそう水を向けて、アルユンやリトが期待のまなざしを向けても反応なし・・・いえ?
あった?
まるで虚ろな様子のメルが、微かな感情を浮かべます。
でもそれは、叔父様について語る時の、陶然としたいつものメルには程遠いのです。
「・・・メルにとって、ご主人様のいない世界には意味がないのです。ご主人様のいない世界は『クリームをいれない黒湯』どころか、『黒湯豆をいれない黒湯』なのです。」
それは黒湯ですらないでしょうに。
ただの白湯。
さすがに突っ込む雰囲気ではありませんけど。
「ご主人様のいない世界は、メルにとって『木のない森林』なのです。『海水のない海』なのです。『星のない星空』で『空気のない空』なのです・・・。」
これはかなりの重症。
みんな互いの顔を見合わせ、教室中がザワザワとするんです。
「それでもご主人様の言いつけには従わなければならないのです・・・メルはご主人様のいない場所でもご主人様の為にその言いつけを守らなくてはならないのです・・・ご主人様は誰よりもお優しいのに時々ひどく残酷なのです・・・はぁ、なのです・・・・。」
こんな意味不明の述懐に続いて、その最後のため息を聞くと、みんなは例の如く一斉に首をかしげるのです。
首をかしげなかったのはエリザさんと、ジェフィ。
そして・・・わたしだけ。
「メル助手・・・わたしは体調がすぐれません。欠課させていただきます。」
「クラリス?」
「さっきまでめっちゃ元気だったのに?」
隣に座るリトとエミルは不思議がるのですが、メルはわたしをじっと見て、そしてわずかに頭をさげました。
何か言いたげなリトにエミルを置き去りにして、わたしは荷物をまとめ、そのまま講義室から退席するのです。
おそらくはレンも、或いはデニーもわたしから目を離さなかったでしょう。
「停学がすんだばかりで、今度は学園から脱走・・・ばれたらどうしましょう?」
もちろん救護室にはいかず、寮にも戻らないわたしです。
思わずそんな独り言がでちゃいます。
それでも、なぜか今日は叔父様の行方が気になって仕方がありません。
ここ数年はいなくなったことすら気づかずにいたのに。
でも・・・先日の襲撃事件がわたしの胸にひっかかったままなんです。
メルのしょんぼりした様子が、今だけは笑えないのです。
そして何よりも、この数か月で以前よりあの人の存在が大きくなっていたわたし自身の心を、もうごまかすことができなくなっているんです。
いつものぼんやりしたお顔が、ほんの時々見せるあの憂鬱そうなお顔が、数か月前に見た無防備すぎる幸せな寝顔が、目まぐるしく次々と入れ替わようにわたしの脳裏をよぎります。
そのたびに、わたしの心はせつなくうずき、甘く痛み、踊りだすように弾むのです。
今、叔父様はどこにいて、そしてどんなお顔でいるのでしょうか?
そう思うと、胸がしめつけられるようで、いてもたってもいられなくなるんです。
でも・・・どうやって探せばいいんでしょう?
左手の薬指を見つめます。
そこにあるのは先日いただいたばかりの「魔伝信」を呪符した指輪。
でも、きっとあの人はメールなんて見てもくれない。
「『酉』さん!・・・起きてないんですか?『酉』さん!」
わたしは、叔父様がつけてくれた使い魔の酉さんに呼びかけます。
十二神将の一つという大仰な名前のわりには「ニワトリなのに空が飛べる」「声を操って遠くに届けたり遠くの声を引き寄せたりできる」「一回使い捨ての障壁になる」これくらいの能力で、叔父様自ら名前負けを認めているんです。
「どうせ今だってあんまり使えないから叔父様に見放されて封印でも・・・」
「それはあまりなお言葉ではございませんか!ヤツガレはもっとも役に立つがゆえに、主にとっても大切な御身をお守りするという最重要の任務を与えられて・・・」
やっぱり起きてた!
わたしの足元には赤茶色のニワトリが出現し、文字通りトサカを立て抗議してます。
どうせ休眠状態でもわたしになにかあったら起きるくらいですから、わたしの呼びかけが全然聞こえない訳はないんです。
「起きてたんなら、最初からちゃんと答えてください!」
起きてるからには、このオシャベリはスルーして、すぐに用件を伝えます。
さもなければ「酉」さんは自画自賛の無駄話を続けるでしょう。
「叔父様は今どこにいるのですか?あなたの主ですからわかるんでしょう?」
わたしは勢い込んで用件を伝えるのです。
しかし返事は期待外れ。
「この酉めは、今はクラリス様にお仕えする身。しかしながら創造主たる主の命にも従わなければならないのです・・・二君に仕える宮仕えの苦しさ・・・ご察しくだされ。」
「酉」さんは苦悩するかのような仕草をみせるのですが、その演技が過剰で胡散臭いのです。
「士は二君に仕えずです!わたしの指示を優先してください、叔父様があなたをわたしにつけてくれたからにはわたしのお願いを聞いてもいいでしょう?」
「士は七度主を変えて一人前という言葉もございますぞ!しかも二君に仕えるのは兼帯と申しまして戦国の世では現実的な士の生き方でもございます。太平の世のサラリーマン士道とは違うのです。」
「そうなんですか?・・・いえ、そうじゃなくて!」
危うくケムに巻かれそうになった、素直でもの知らずなわたしです。
「要するに、今の直接の主人はわたしなんでしょう?なら叔父様の居場所を教えてくれるくらいいいじゃないですか!」
「・・・こっこっこっこ・・・」
また?
都合が悪くなると、普通のニワトリの真似をするこのパフォーマンスは、絶対ムダ、いえ、むしろ逆効果なんです!
ですが、その後、「酉」さんは姿を消して、パッタリとわたしとの念信を絶ってしまいました。
よほど強く叔父様から口止めされているのでしょう。
どうりで同じく使い魔を貸与されているメルが叔父様を追えない訳です。
その時・・・ふっと思いだしたのです。
とうさんやおじいちゃんが言っていたことを。
叔父様がいなくなるのは子どもの頃から、おそらくは30年以上前からって。
35歳の叔父様でも、30年前はまだ5歳。
魔法も使えず特別な力もないそんな子どもが、遠くまで出かけられるはずがない。
なら探すべき場所は・・・。
わたしは学園に戻り「転送館」を利用することを考えましたが、すぐに断念します。
さすがに授業中に「転送門」の利用はムリなばかりか、そのまま学園にもどされることになりかねません。
そこで、魔術協会に向かいます。
各都市に置かれる公用の「転送門」を利用するためです。
幸い同じ魔法街区にあるので、それほど遠くはないんです。
魔術協会に向かう途中、もう冬に入ったヘクストスの街は、なんだか活気がないのです。
もっともわたしがこの街で冬を過ごすのは初めてのこと。
それに平日の魔法街区は、ようやくとはいえ復興した商店街区などと比べれば、人通りが少ないのは当たり前。
なのに・・・すれ違う人の表情に暗いものを感じてしまうのです。
それを、気のせいと思いたいわたしと、先日学園長がおっしゃってたことを思い出すわたし。
どうしても戦いの影響では、と不安に感じるのです。
その不安のせいでしょうか、遠くに見えた魔術協会へ歩みを早めた時、一瞬なにか違和感を感じたのです。
しかし、気がせいていたわたしは、そのまま歩き続けます。
その後もなにもなかったし、やはり錯覚だったのでしょうし。
気がつくと、ここはヘクストス魔術協会の前です。
もともとは王国直轄機関でこそないものの、現在ではかなり影響を受けているとの聞いています。
そのせいか、白い大理石でつくられた四角推の巨大建造物は、王城と同じ輝きを放っているように見えるのです。
一応は認定魔術師でもある身です。
学園で教官に行使していただくほどでなくても、市庁舎の「転送門」よりは安価で使いやすいであろうと思ったのは正解だったようで、利用者は空いていて、幸い料金も市庁舎の金貨2枚よりは安い、往復で金貨1枚に銀貨6枚・・・それでも学生には痛すぎる出費ですけど。
「エクサスまでお願いします。」
料金は距離に関わらず一律です。
とても近距離の利用なので、お金持ちと思われたようで係の方が慌てて笑顔を作りますが、身分証を見せ、料金を払うと無用な詮索もされず、魔法装置である「転送門」に案内されます。
担当の魔術師が「転送」を唱え、魔法円が白銀の輝きを放ち、その光が収まると、そこはもうエクサスの町庁舎なのです。
そして最初に手がかりを求めてまず実家に向うのです。
見上げた空は暗い灰色に曇っていて、憂鬱な冬の気配をわたしに濃厚に感じさせるのです。
「クラリス!?どうしたの?もう年末休暇?」
家の玄関で、かあさんが驚きながら出迎えてくれます。
驚くと目が大きく見開かれて、うんと若く見えるんです。
お腹は・・・まだ大きくなってないです。
「かあさん、わたし、今急用で来ただけなの。・・・とうさんとおじいちゃんは工房なの?」
いろいろ話しかけてくれるかあさんには申し訳ないんですけど、「叔父様を探してる」なんて言ったら、この叔父様嫌いのかあさんがどう反応するか怖くて。
それこそお腹の子にも悪そうです。
だからさっさと工房に向かい、とうさんかおじいちゃんを探すんです。
「おい、いくらお前でも勝手に仕事中の工房に入って来るんじゃねえ。」
いち早くわたしに気づいたおじいちゃんは、わたしを早速叱りつけます。
これでも、まだわたしには甘いのです。
これが別の人なら問答無用であの大きな拳骨がとんだはず。
「おじいちゃん・・・ごめんなさい。でもお願い。どうしても教えて欲しいことが・・・」
「バカ、職人たちの気が散るじゃねえか!・・・いいから出ろ。儂も出るから。」
なにしろ一つのミスで何日分もの作業が無駄になりかねない製本工房です。
追い出されるのはしかたないこと。
おじいちゃんが一緒に出てくれただけでも上出来です・・・仕事を中断させちゃいましたけど。
「ねえ、だからおじいちゃん。」
一旦、居間兼食堂で、おじいちゃんをせかすわたしです。
「ああん?あいつが今日どこに行ってるか?・・・そういや、今年ももうそんな時期だったか?」
まだ子どもの頃から叔父様が毎年決まった日にいなくなってたわけで、それならおじいちゃんだって探したりしたはずで、なにか手掛かりはないかなって思ったんです。
それなのに、なんだか毎年の風物詩みたいな扱い。
そりゃ、あの人ももう35ですし、一日いないくらいって思うのはわかりますけど。
「確か・・・あいつが4つの時だったな。最初にいなくなったのは。それまでは普通のガキっぽかったのに、ある日、急に夜中泣き出して・・・儂もイーフェもすったもんださ。それから随分とやらかしやがるようになりやがって・・・で、しばらくして、急にいなくなっちまったんだ。次の日まで帰ってこなかった。」
4歳。
そんな幼い時から・・・。
ならきっとこの近くにいるはずなんです。
でも
「・・・なんで見つからなかったの?」
「わかんねえ。」
「わからないって・・・おじいちゃん、薄情。」
ついまだ幼かった叔父様が一人でいる場面を思い浮かべて、おじいちゃんを責めちゃうわたしです。
「そりゃ、儂だって探したさ。たかが4歳のガキの行方、その辺りにいるだろうって・・・でも見つかんなくてな。人さらいにでもあったんじゃねえかって、もうイーフェなんか大変で・・・」
「そんなこともあったわね。おっこいしょっと。」
そこに現れたのはおばあちゃんです。
最近腰の調子が悪いんです。
椅子に腰かけるのにもつい掛け声・・・大丈夫かしら。
「ああ。この声はクセよ。この前あなたと来た時、あの子が変わった『腹巻』をくれてね。着けてると暖かいだけじゃなくて、身動きがずいぶん楽になったのよ。」
おばあちゃんの為にそんなことを・・・しかも一緒に来たわたしにも気づかれないうちに?
抜け目ない、というより恥ずかしいのでしょう。
「アーク・・・クラリスにはわたしから話しておくわ。あなたは・・・いいでしょ?ここからは女同士の話なの。」
おばあちゃんは、そう言っておじいちゃんを追い払ったのです。
「クラリス。どうしてあの子を探してるの。もうあの子もとっくに大人だし、わざわざあなたが探すことはないんだけど。」
そう口に出して言われてしまうと、わたしもうまく答えられないのです。
毎年のことだし、もう子どもじゃない立派な(?)大人だし、しかもあのひきこもりが一日いないからって、気にする人なんて、だれもいない。
わたしとメル以外は。
でも、あの叔父様が、メルのことすら考えないで、行方も告げずにいなくなるのです。
よほどのことに決まってるんです。
それに。
「心配なんです。わたしは叔父様が心配なんです。」
そうです。
このなにかに急き立てられる気持ちには抗えないのです。
「あんなに変わった子なのに?ま、子どもの頃から一緒のあなただってわかってると思うけども。」
わたしが知ってるのは、わたしが生まれてから「まだマシ」になった叔父様ですけど。
「どんなに変わった人だからって、心配しちゃいけない理由にはならないって思うの。大人だからって、毎年のことだからって、心配しちゃいけない理由にはならないって思うの。わたしは、叔父様が今、どうしてるのか、気になるの。なんでいなくなるのか、気になって仕方ないの!おばあちゃん!」
わたしは椅子から立ち上がり、詰め寄ります。
今まで胸に中に抑えていたものが、あふれ出してしまいそうで。
そんなわたしを困ったように見つめるまなざし。
「・・・クラリス。なんでそんなにあの子が心配なのか・・・自分でわかってるかしら?」
「・・・わかってる。うん・・・わたしは・・・自分の気持ちは、もうわかってるの。」
「少し、昔話をするわね。」
少し間を開けて、おばあちゃんは話しだします。
それは・・・おぼろげながら事情を知っていたつもりのわたしにも意外な話で始まりました。
「わたしとアークのアンティノウスはね、とっくの昔に死んだの。」
わたしは驚きで、全部とまっちゃいました。
思考も、呼吸も、心臓も。
それくらいの驚き。
だって、わたしの叔父様は・・・わたしのアンティノウスは!?
そんなわたしを、優しく見つめるおばあちゃん。
「わたしとアークには、二人息子がいたの。上の子はアルカーディオ。あなたのお父さん。・・・でも・・・下の子は産まれてすぐに死んでしまってね。産婆さんじゃどうにもならなくて、なにしろ、その日はヘクストスに邪黒竜が襲ってきてね・・・みんなそっちで大変で。お医者さんや治癒魔術師を呼ぶ暇もなかったわ・・・その子の名がアンティノウス。」
「でも!・・・それって・・・。」
「そのすぐあと、アークが親戚の子を引き取ることになったの。私は、最初、そんな気になれなかったけど、なにしろ胸がはっちゃうのよ。母乳がね・・・だから、捨てるよりは他の子にって・・・でも、いざ赤ちゃんを抱いちゃうと、かわいくて。わたしにすがり付いて、夢中でおっぱいを吸う、もうこの子がアンティノウスだって、思うことにしたの。」
おばあちゃんは、いつもの穏やかな声で、でもその表情は少し悲しそうにも見えます。
「それから、しばらくは普通の子でね。むしろ賢くて素直過ぎるくらいな子だったの。わたしもアークも、あの子を引き取って本当に幸せだった。でも4つの頃、突然夜中に起き出して・・・それ以来、ちょっと変わっちゃった。少しよそよそしくなったし。」
その後は・・・わたしもよく話には聞かされる叔父様の話です。
聞いたこともないようなことを口走り、考えつかないようなことをやってしまう、今の叔父様。
「・・・それでもね、やっぱりあの子はあの子なの。変わっちゃったように見えるけど、根っこのところはあの子のまま。でも・・・名前を呼ばれるのを嫌がるようになってね・・・。」
そう。
今でも実家では叔父様の名を呼ぶ人はだれもいない。
おじいちゃんもおばあちゃんも、とうさんも・・・。
「気づいちゃたのかしらね、わたしがホントの母さんじゃないって。そう思ってね・・・でも、あの子はそういうところは変わらないの。失敗したら謝るし、ちゃんと話せばわかってくれるし、わたしをかあさんって呼んでくれる声もまなざしもちっとも変わらないの。外から見れば変わってる子だけど・・・でもわたしの子なの。」
おばあちゃん・・・うん。
「知ってます。わたし。おばあちゃんもおじいちゃんもとうさんも、みんなあんな困ったひきこもりをちゃんと家族として愛してること、ちゃんとわかってます。」
・・・かあさんは別だけど。
あんなにいろいろ問題ばかり起こして、ひきこもって、それでも叔父様はこの家の一員でした。
本人はみんなに迷惑かけてることを気にしていたけど、それでも問題を起こしてたけど、それを叱りながらもみんなは許してた。
「叔父様だって、ちゃんとわかってます。」
16歳のアントになっていた時、叔父様はちゃんと「感謝してる」って言ってたんです。
「あなたも?クラリス・・・あなたもあの子を愛してる?」
この時、おばあちゃんのまなざしは穏やかなまま、でも少し真剣なものになります。
「はい・・・でも、わたし・・・」
どういえばいいんでしょう、もう気持ちも覚悟も決まっているつもりでも、いざとなるとなかなかうまく言えません。
でも・・・
「それは・・・ホントの叔父じゃなくても?というより、もうとっくにそんなの関係ない?」
「はい!」
おばちゃんには、わたしの気持ちなんかお見通しだったと思うんです。
だから、わかってもらえてるって思うと、つい元気になる現金なわたしです。
「やれやれ・・・よ。なんだかとっても複雑。もしもあの子とあなたがそういうことになったら、息子の彼女はこの上なくいい子なのに、孫娘の彼氏はチョ~最悪って、こんな二律背反あるのかしら?ホントにそんなことになったらどうしましょ?アークもアルも、混乱して暴れだしそう。そんな時がきたら、あの子が殴られないよう、あなたがちゃんと守ってあげてね。」
その時は間違いなく、かあさんは叔父様の撲殺をはかるのでしょう。
血まみれになった棍棒を握りしめたかあさんと、その足元に倒れてる叔父様・・・そんな光景が脳裏に浮かび、額を押さえたわたしです。
それにしても、おばあちゃんにとっては叔父様は相変わらず小さい子どもで、わたしのほうが年上にでも見えているのかもしれません。
それってなんだかとっても不本意なんですけど。
「一つだけアドバイスよ・・・いい?クラリス。あの子は、あの通り臆病で傷つきやすくて、女の子に複雑すぎる子だから、もしもの時は、あなたはゼッタイひいちゃいけないのよ。それが知らないことへの不安でも、乙女の恥じらいであっても、あの子は一度跳ねのけられたら二度と戻って来ないんだから。」
もしもの時・・・想像するだけで、顔が赤くなります。
ですが、その助言は・・・それこそ乙女にとっては過大な覚悟を求めすぎではないでしょうか?




