カツラギ・マサヤ「我が青春の日々」抜粋
カツラギ・マサヤ(2290-2345)……フクイの歴史家、哲学者。モノシリ(知識の保有と継承をこととする少数の血族)の家系に生まれ、キューシューに渡って書籍を買い集め、自身もフクイの歴史書を編纂して文化興隆に尽力した。「我が青春の日々」は晩年、フクイ王につかえた日々を記した回想録。
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我らのソーリが即位されてから確かまだ数年も経っていない頃の出来事だったが、都市同盟からの使節を宮殿において接見したことがあり、私もその席に招かれたのだった。
彼らは都市同盟の中でも主にシモノセキ市から送られてきた一団であった。カンサイ地方よりも進んだ技術を持っている都市同盟の人々と語らえることは、それまでモノシリの共同体の中でしか暮らしたことのない私にとっては非常に知的好奇心を刺激される出来事であった。
彼らが訪問したのは、キューシュー地方において勢力を拡大しつつあるオーイタに対処する方策を打診するためである。オーイタはシコク西沿岸にまで領域を広げ、ヒロシマ一帯の植民市をおびやかしているそうだ。しかも我々の仇敵であるオーサカ国とも通じ合っているとのこと。
都市同盟を盟友とする我々フクイ人にとってはげにゆゆしい事態であり、かの二大勢力が同盟するという恐怖から国を守るにはどうすればいいか、シモノセキの政治家たちも、フクイの大臣も激論を戦わせた。私は両者の意見の相克に、聴き入ること真剣だった。
会談が終わって自由時間ができた際、私は使節の一人であるコニシ・ノリアキという人物にたまたま話しかけ、たがいに自己紹介をしたのであったが、彼が歴史学を学んでいると聞いて私はすぐ彼と深くその気分になった。というのは、私はモノシリの中でも歴史に関する書籍を集めているのだし、その研究を専門とする種族として生まれついたのだから、その点通じるところがある人間とはぜひ知己同士となっておくべきであると、そう感じたのである。
まず、国際情勢について語り合った。
オーイタ市はかつてキューシュー南部の異民族であるルタオ人から奪った土地に建設され、始めは民主制を擁する都市同盟の一都市として振る舞っていたのだが、後に独立志向を強め、「王のような」専制国家となっていったという。この件に関してはほとんど覚えていない。私は、オーイタと都市同盟の政治体制の比較にあまり興味を惹かれるものがなかった。むしろ、オーイタがルタオ人との抗争に勝利し、キューシューの一地域に鎮座するようになった過程、これに傾聴したのだが。
私もフクイがいかにオーサカとの侵略から独立を守り抜いたか熱弁した。そしてその成功をどう後世に遺すべきか論じ合い、非常に長く意見のやりとりを行い、コニシ殿も大変興味深い様子だった。
その後で、私はウミムコーについて彼に訊いた。コニシ殿はすでにあるウミムコーに渡航した経験があるらしい。
このカンサイよりはるかに進んだ地域である大陸、その端に位置するウミムコーは進取の気勢にあふれた人が多くいる地であると家族や同僚からのうわさで知っていた。
しかし、そこでウミムコーもまたキューシュー、カンサイと同じく戦乱の絶えない厳しい場所であると痛感することになった。
当時――ウミムコーの国々ではもっとも都市同盟とつながりが深い――プサン市がチョラド地方を征服してすでに四十年経っていたが、なんでもウミムコー全体で人口が増え続けており、ウミムコーで食い扶持がとれない人間が多いのだとか。そこで、貧富の差をなくすという名目により王はチョラド地方の人間に目をつけた。
すなわち、チョラドの人間はたとえ市場のものを盗んだ罪などであっても重く問われ、都市同盟の東、ヒロシマへ流刑に処せられるという。望まず異郷の地に送られ、苦難の日々を送らねばならぬ人々に対して、私は不覚にも同情の念を禁じ得なかった。
ウミムコーに関してコニシ殿は非常に語りたいことがあったらしく、ずっと彼はその話題を続けた。ウミムコー人は古代からキューシューに大きな恩恵をもたらした。2248年にプサンの主チェ・ヨンギルが来航する以前の古代末期においても、ウミムコーはキューシューに文物を与えて文化を洗練させたし、それはキューシュー以外の国にも大きな利益となった。
これに関しては私が触れていた資料とは若干の違いがある。私がその時所蔵していた書籍においては、むしろ先進の知識がこの島々に流れこんだ元はむしろヨーロッパや、あるいは島において独自に発展したものである、という意見の方が多数派なのである。どちらが正しいかは当分神の裁定にゆだねる。
コニシ殿はその後の歴史も語り続ける。――しかしこの島々を主に支配していたニホン人はウミムコーの恩恵に仇で報いた。ウミムコーを逆に武力で制圧し併合してしまったのだと。
都市同盟は現在ウミゾイに次々と植民市を建設しており、原住民と激しい抗争を繰り広げている。しかしそれは正当なことだ。なぜなら彼らは我々キューシュー人を抑圧したニホン人の末裔であるから。――
コニシ殿はまさにニホン人というのがキューシュー人とは別物であるかのように語り、しかもその語り口が実に悪意に満ちていたものだから、さすがにきまりが悪くなり、しばらく押し黙っていた。
ようやく彼が語り終えてから、私は一抹の不安を抱きつつこうたずねたのだ。
「ところで、この東の島々がニホンであり、我々が先祖代々この地に住み続けて来たのなら、我々はみなニホン人ということにならないか?」
するとコニシ殿は気色ばんで私の胸倉につかみかかり、あわや一大事になりかけたのである。後で知ったことだが、キューシュー人にとってあのように呼ばれることはひどい侮辱であり、決闘を申しこまれてもおかしくないような挑戦であるという。
私はキューシュー人の間で流通している、歴史に対する観方の浅ましさに嘆かざるを得なかった。
なおこの後味が悪い会話があった翌日、イシカワ人がクズリュー川を越えフクイの集落を襲撃する事件が起こった。現在も彼らは我らフクイ人に逆らい、ソーリの権威にまつろわない蛮族である。イシカワ人に天罰が下ることを切に望む。