Thank you but no thank you.
そして入院費をどれくらい値引きしてもらえたのかは定かでないが、レイは受付で助けを求めることなく現金一括でそれを支払った。
今やボロボロにくたびれているけどレースが折り重なった黒いスカートのポケットから取り出された小さな財布を見て俺は、ちゃんとお金を持っていたことに胸をなでおろした。
「そのタオル。借りたままで良いって。
ピクシーが退院するとき、わたしが持ってくね。」
会計を終えて、レイと二人並んで出入り口のドアを潜りながら歩いていると、俺の肩にかけた白いバスタオルを指さして言われる。
「あ?ああ、そうだよな。」
結局、自分が着てきた服は猫の血まみれで、不衛生だからと病院に処分してもらったのだ。
でも、だったらどうやって帰ろうかとずっと考えている。
まさか上半身裸ってワケにもいかない。
電車に乗るのも気が引ける。
真昼間からワンカップ片手に完全泥酔しながら、何事か喚いているオッサンが一車両に一人居る大阪ならともかく、ここは大都会東京なのだ。
少なくとも俺が東京で生きていた十云年間、上半身だけとはいえ生まれたままの姿で素面で山手線に堂々と乗車していた若者はいなかった。
丁度この街は繊維街だし、衣料品店も多く、だったらその辺に売っているのを適当に買うしかないよな、と思い目に入った軒先に目玉商品!!のポップと共に飾られている黒いTシャツ。
そこに白い筆文字でデカデカと“寿司一番(sushi no1)”と書いてあるのが目に飛び込んできて、
俺は気が遠のくのを感じた。
―――嫌だ。このTシャツを身にまとい東京から京都に戻るのは嫌だ。
「あー、アレ買う?」
レイはそこで俺の視線の先に気付いて、何を勘違いしたのか華やいだ笑顔で頷いている。
「一番、って書いてある…。うん、漢字もかっこいいし、良いと思う。」
恐らく「寿司」の漢字が読めないレイは、ナチュラルに外国人のセンスと同等で、
意味も解らずクール!というノリでTシャツを眺めている。
「すみませーん、表のってぇ、おいくら……」
値札のついていない商品だったので、レイは大きな声で店の中へ呼びかける。
他の服は、と慌ててラックを見渡しても、この店に置いてある大半が絶妙なメッセージをその身に託したトンデモTシャツばかりだった。
「ま、待って待って待って。」
「どうしたの?」
「や、あれは…ちょっと着るの躊躇う。スシ一番ってのは。」
レイはきょとんとした顔で俺を見詰め、何が書かれているのかやっと理解したようで、
ポカンと口を開けた後、
「すごいお寿司が好きって書いてあるってこと……!?!」
と言って顔を覆いながら大爆笑した。
「あぁ、もしかしてお寿司屋さんの制服なんじゃないの?」
「違うと思うけど、でも裸よりはマシかな…」
ぐう。俺は背に腹は代えられないし、と歯を食いしばりながらTシャツを睨む。
「そうだ、服じゃなくてビーチサンダルとか浮き輪とか買って、
海水浴帰りなんですよねー、っていう風に誤魔化してみたら?」
レイがヒイヒイ笑ったままで、およそ全く役に立たない提案を持ち出してくる。
「未だ六月だし。海開きしてないし。ただのハリキリ野郎じゃん。」
俺が言えば、レイはしばらく笑った後に、
「そうだ、セオくんに何か服、持ってきてもらお。」と
珍しくマトモなことを言ってくれた。
「夜には帰ってくると思うんだ。
わたしが住んでるの、この近くだから、待ってようよ。」
正直、炎天下の中久々に走ったせいで身体が汗で汚れているし、一休みしたいし、急ピッチで新幹線に乗り込んだせいで財布にお金もロクに残ってないしで、有り難くお邪魔したいところだったがやっぱり気が引ける。
さっき、レイはピクシーと2人暮らし(ということはニンゲンは一人)だと言っていたような。
「そのことなんだけど、」と俺が言いかけた時、背後から
「夕月さん。」
とレイを呼ぶ声がした。
二人同時に振り返れば、先ほどの獣医師が俺たちのすぐ背後に立っている。
わざわざ追いかけてきてくれたのは、書類に不備があったか、伝達ミスだろうと思い、
部外者の俺は半歩下がった。
レイは何か最悪の事態を想像したのだろう、つい数秒前まで笑っていた表情を瞬時に引っ込め
隣で身体を緊張させる。
「ピクシーが、どうかなったの…!?」
ただでさえ白い肌が、凍ったように青ざめていくのが分かるくらい色を失っていた。
医者はその反応にギョッとした様子で目を見開き、取り繕うように
「いや、はは……すみません、そうじゃなくって」と言いながら、
柔和な笑顔で白衣のポケットから小さな白い紙を差し出すと、レイへそれを受け取るように促した。
黙って手に取ったレイに医者は優しく続ける。
「ピクシーちゃんは元気になるように努力しますので、安心してください。
それで……何か心配事や、困ったことがあったら、勤務時間外でも、いつでもそこへ連絡してくださって結構ですので。」
医者が裏をめくるジェスチャーをし、レイもそれに倣う。
動物病院の可愛いロゴマークが描かれたそれは医者の名前や肩書、病院の住所がしっかりと印刷された名刺だったが、
本来白紙であろう裏側に、明らかな手書きの文字で数字の羅列が綴られていた。
ゼロから始まるそれは、携帯の番号だ。
「…はい。」
レイは名刺を摘んだまま、何を考えているのかよく読み取れない、つるりとした人形めいた眼で
相手を見詰め、小さく口を開けて一言そう呟く。
それを受けた医者はにこやかに頷くと、さっさと踵を返して病院へ戻って行った。
途中俺と目が合ったはずだが、ペコリともしない態度に腹が立つ。
俺の事、何だと思ってるんだ!って、まあレイとはただの友人なわけだから別にいいんだけど。
でも他人から見れば彼氏、という可能性だってあり得るわけなんじゃないの?
だとすれば大胆な行動に出る奴だ、と感心しながら
「医者もナンパすんだね。」
俺が心の渦をもみ消すように言えば、レイは
「入院費?とか、だいぶ安くなってたもん、おかしいと思ったよねー。」とクスクス笑いながら名刺をスカートのポケットへ雑に畳んでしまった。
「ピクシーが無事なら、どうでもいいよ。
じゃあいこっか。」
レイはニコリと微笑んで俺が肩にかけたタオルを引っ張る。
「何処へよ。」
「海水浴、なわけないでしょ、うちに決まってるよね。」
お礼もしたいし、とレイは俯いて言った。
お礼、等と言う概念がちゃんとレイの頭の中にあったんだ……という謎の感動を覚えつつ、
普通の友達だったら、ここで断るのもおかしいか、と思い直す。
「じゃあ、何か飲みもの頼むわ。」
と俺は素直に頷いた。




