第97話 旅立ち
柱時計の針が真上を指す。
少し懐かしい軽装に身を包み、革の袋を担いだミラアは、もう馴染んだ部屋に置かれている姿見に映る己の姿を見た。
派手なドレスや特注のメイド服を着まわしていた最近の感覚からすれば、色気の無い軽装。
革命の日に折れてしまったカタナは、今やアーティファクトに替わり腰元を飾っている。
女ハンターとしてはむしろセンスの輝く服装ではあると思うのだが、貴族生活から戻るとなると、こんな気分になるのだろうか。
スポーティーなボーイッシュ女子という感覚で見れば、この姿も捨てたもんじゃないと自分に軽く言い聞かせ、風を操ってシャンデリアに輝く蝋燭をすべて吹き消すと、月明かりを頼りにバルコニーに出る。
満月は天の頂きに輝き、やはり孤独だと思った。
そして、広がる夜の庭園はただ美しかった。
心に到来した感慨にしばし浸ってから、バルコニーの手摺りの上に両手を乗せ、床を蹴る要領で跳び上がる。
音も無く庭園に着地すると、ミラアは背後に佇む屋敷を振り返ることもなく、正面玄関から敷地の門へと続く敷石の道へと歩み出した。
こうしてまた一つの物語が幕を降ろす。
これからも自分は変わらず、こうして生きていくのだと思う。
もうこの場所に用はなく、またいつか見聞きすることを淡い喜びとして自由を謳歌していくのだ。
月明かりに光る庭園を映す紫色の瞳。
長い銀髪は優しい風に細かく揺れ、雪のように白い四肢はミラアを淡々と門へと向かわせた。
夜だというのに水を撒き続ける噴水が、月光を反射して煌めいている。
水の音の横を通り過ぎる。
(楽しかったなー)
胸に蘇る、今回の物語。
潮風の香る港湾都市で出会った、新米ハンター・フィーネ。
筋骨隆隆な大男フェイは、試験官として出会った。
太陽のような笑顔でユニコーンの手綱を握っていた、金髪碧眼の美女クラーラ。
フェイの相棒チェスターは、人を見下すことが大好きな、希代の天才魔術師だった。
高貴な空気を纏ったカタリーナ・ディア・グレイスは、年齢を感じさせない美貌を誇っていて、社交界での立ち振る舞いも磨き抜かれたものだった。
不敵で爽やかな笑顔を見せていたヴァル・シュバインは、気に入らないヤツだったけど――――結局、好きになった。
まるで友達のようになれたルイーザと過ごした時間は、ただ居心地が良かった。
この心に甘い炎をくれた、キュヴィリエ・ディア・ローザリア。
忘れないあの瞳、声、そしてこの手を取ってくれた感触。
どこか気取っていて、やや見下すような瞳が愛らしかったジェルヴェール。
視認できそうな程に殺気を纏った、硬派な青年ジャック。
今蘇る記憶と、確かに胸に宿る充足感。
彼ら、そして彼女たちはミラアの人生を飾ってくれている。
記憶という空想は、より甘い光景をミラアの意識に魅せていく。
明日の戴冠式――王となったヴァインの横にはジェルヴェールがいて、二人を守るのがその理解者であるフィーネとジャック。
戦争がなくなったことで、〝剣聖〟ディルク・ディア・グレイス公爵は王都に帰還するという。
カタリーナと共に、新しく蘇った王家を祝福するのだ。
そして、そんな彼ら彼女たちを見守るミラアの隣には、キュヴィリエ・ディア・ローザリア――護国卿の、優しい微笑みが――――
――――あるわけがない。
思い出す、フィーネと初めて出会った日、少女が旧キアラヴァ王国女王カーミラの話をした、熱意の籠った表情。
王都に着いて、目覚めた修道院に祀られた、薬学の堕天使カーミラの彫像。
いつかよりも歳を重ねた、シスターマチルダの優しい微笑み。
フィーネに連れられて行ったグレイス邸で、自分を見たカタリーナ眼差し。
革命の夜、グレザリア王城の屋根の上。
月夜の下で、キュヴィリエと交わした会話が脳裏に浮かぶ。
ミラアは言った。
〝貴方だって幸せになっていいはず〟
彼は答えた。
〝それは――――――君自身のことだろう?〟
〝無理だ。私も、そして君も〟
「知ってるよ……」
時を今に戻し、ただ門へと歩き続けるも、再び脳裏を支配するのは蘇る記憶。
夜の異世界にて、リリスがした話、
〝昔、ハーフエルフを集めて人体実験しまくってたイカレ女がいたでしょ?〟
続いて、昨日食事を共にしたルイーザが、疑念を浮かぶ表情で口にした台詞、
〝ねぇ、私たち――――どっかで会ったことない?〟
笑って誤魔化した自分。
そして、フィーネの笑顔。
リリスが口にした約束――――〝グレイス家の安全を保障する〟
もうここに用はない。
気付けば、敷地の門は目の前だった。
見張りの姿は見えない。
立ち止まり、門に手を伸ばしたその時、
「やっぱり正面から出るのね」
不意に聞こえた声に、心臓がギクリとした。
少し離れた木の陰から姿を現したのは、フィーネによく似た女性だった。
「カタリーナ……!」
思わず名を呼ぶミラアに、年齢を感じさせない公爵夫人は、年季の入った溜め息をついて、
「今度は黙って行かせないわよ」




