第85話 新たなる王国
「痛ってぇ、痛ってぇってばあさん! もうちっと、そっとそっと!」
妖艶なはずの黒髪の青年――ヴァル・シュバインは、両肩を焼くような痛みに整った顔を大きく歪め、思わず大きな声を上げた。
「何を仰います。まったく情けない。貴女様はこれからこの国を背負うのですからね、この程度の傷と治療で泣き言を仰いますな」
そう言って青年の両肩の傷口に刻んだ薬草を塗り込むのは、修道院の長シスターマチルダだ。
その横では、腕を組んだまま壁によりかかっている青年、ジャック・シャムシェイルが見守っている。
「いや、それ薬草まんまじゃねぇか! 普通、煮だして煮汁塗るだろ!」
シスターマチルダによって新たに用意された、傷に染みることで有名な薬草を眼前にして必死に訴えるものの、使命を全うする神の使者には届かない。
「王の傷は深いので、それでは間に合いませぬ。貴方様に何かがあれば、グレザリア王国が滅びの道を辿ります。お命を粗末になさるのでしたら、御子息を即位されてからにして頂きますよう」
「おい、王引退したら死んでいいのかよ!?」
怒鳴るヴァルに、マチルダは怯まない。
「そのお元気があるのでしたら結構。このまま包帯を巻きましょう」
「おい、そんな新種の拷問、~~~~~~!」
声にならない叫びを上げて、凄まじい形相で痛みに耐える若き次期王。
それを見かねたように視線を逸らすジャック。
と、
「ジャック」
次期王を治療する義母に突然呼ばれて、無頼な空気を纏った青年はドキリとする。
「……なに?」
やや擦れた声で答える養子を尻目に、老婆は真剣な表情で言う。
「これからお前も、王側近の官職〝護国卿〟なんだ」
「……」
「しゃんとおしんよ」
「……ああ」
「カタリーナの娘にも、ね」
「……」
返事をしない義息子を一瞥し、シスターマチルダは再び若き次期王を見て、
「王子は式が間もなくですな。心の準備はできましたかな?」
痛みに耐え抜く修羅に似た形相で、ヴァル・シュバイン――ヴァインシュヴァルツ・ロ・ドゥ・グレザリアは答える。
「当たり前だ」
「――御身の戴冠式と結婚式、人類王都連盟の重鎮たちも参加されるそうですな」
シスターの言葉に思い出したくない女が脳裏に浮かび、舌打ちをする王子。
「ああ――嫌な奴思い出しちまったよ。俺は都合の良い女が好きなんだ」
「だってー? ジェルヴェールー」
「?」
不意に響いた元気な声に振り返ると、よく見知った少女が二人立っていた。
赤い髪を長く伸ばした、お高い雰囲気のジェルヴェール。
栗色の緩い巻き髪と、精悍な瞳が印象のフィーネ。
「来たのかよ」
ヴァインシュヴァルツは、あからさまに眉間に皺を寄せてそう言った。
半分以上が痛みを堪えているためで、もう半分はかっこ悪い表情を見せるのが嫌なためだということは内緒だ。
それを見抜いているジャックとジェルヴェールは何も言わないが、フィーネがそれに食いついた。
「アンタねぇー、わざわざお見舞いに来てあげたのにその言い方は何よ?」
「頼んだ覚えはない」
予想通りの台詞。
「だいたい、アンタいっつも身勝手で我儘すぎよ。ミラアさんにだって迷惑かけたし」
ミラア・カディルッカ。
その名前に、ヴァインシュヴァルツは銀髪の美女を思い出す。
「それにしても。いくらミラアさんとはいえ、まさかローザリア卿を倒しちゃうなんてね」
フィーネが出したその名に、ジェルヴェールを含む全員が複雑な表情を見せた。
フィーネの言い分は最もだ。人外の魔王、キュヴィリエ・ディア・ローザリア。
竜殺しの伝説を持つ彼を倒せる者がいるとは、誰も思わなかったからだ。
「それと、フィーネ」
「?」
呼ばれて、シスターの手で肩に包帯を巻かれるヴァインシュヴァルツを見る。
「キアラヴァから伝令が来てな。キアラヴァ王国は、グレザリア王国の内政に干渉しないそうだ。そして、政府はミラア・カディルッカという女は知らないと」
「……そう」
フィーネは青い瞳を伏せる。
ヴァインシュヴァルツは、自らの国を護り王位を奪還するために革命を起こした。
では、ミラアは何を目的にこの国に来て、何を想って革命に参加したのだろうか。
「それにしても――」
口を開いたのはジェルヴェールだ。
「ヴァイン、貴方よくミラアさんが義父に勝てるって思ったわね?」
その言葉に、全員が共感した。当事者であるヴァインシュヴァルツを含めて。
皆の視線の中心で、若き次期王は複雑な顔をした。
「なんか、な……分かったんだよ」
引っかかる何かを気にしながら、復権を果たした革命の王は窓から空を見上げた。
向かいにも修道院の白い建物が見え、その上に青く澄み渡る空。
雲一つない青空。
何かが足りないような気がした。
少し考えても結局分からず、何となく首を掻く。
そこに不可視の傷痕――肉眼では視認できない二つの点が微かに残っていることなど、誰も気付かなかった。
「はい、治療は終わりです」
ヴァインシュヴァルツに包帯を巻き終わったシスターマチルダはそう言って、彼の肩をパシンと叩いた。
もちろんそこは傷の上。
思わぬ激痛に悶絶する次期王を他所に、老婆は立ち上がると治療道具を片付けながら言う。
「では私は院長室に戻らせていただきます」
「はい」
「お疲れ様です」
笑顔で見送る女二人。
「ばあさん、なぜ傷口を叩いたぁ!?」
壮絶な痛みを乗り越えたタイミングで叫ぶ次期王の問いは虚しく空を切り、院長は既に部屋から出て行ってしまった。
「ったく……」
ヴァインシュヴァルツは視線を部屋の中へと戻した。
そこには、昔馴染みのメンバーがいた。
無言で目を伏せているジャック。
精悍な笑顔でこちらを見るフィーネ。
なぜか顔が綻ぶのを覚えながら、ヴァインシュヴァルツはジェルヴェールが表情を落としていることに気が付く。
ローザリア卿のことだろうか。
ジェルヴェールの表情に気付いたのはフィーネもらしい。
表情に少し影を落とし、誰となく訊く。
「ローザリア卿は、ヴァルの計画に気が付いていたみたいね」
室内に疑念に似た沈黙が落ちた。
ヴァインシュヴァルツが答えるように、
「……だろうな」
その場に再び疑念が満ちる。
「なぜ――ヤツは俺を殺さなかった?」
ヴァインシュヴァルツの赤い瞳が、今は亡きローザリア卿を映す。
その場にいた四人に共通する疑問に、彼ら自身が答えられる筈はなかった。




