第84話 僕のすべて
生きとし生けるものは肉体によって生き、精神によって活きるものだ。
そうした意味で、今のキュヴィリエは自ら決めた覚悟を超えた状態だった。
精神の錯乱と共に強く覚える強烈な喪失感。
自分の価値、生きて来た道すべてを否定する感情がとめどなく湧き上がる。
暴れ、泣き叫びたい想いが暴走しつつも、それを微かに残る理性一つで押し殺し続ける。
リバウンド――――身の丈を超えた魔術を以って世界を歪めた者に訪れる、世界からの反動。
その凄惨さは、己が分を超えた度合いに比例する。
ミラア・カディルッカを閉じ込めるために、この世界の中に一つの異世界を創った。
歪な術によるその余波は広範囲に及び、先程より下から見上げ立ち尽くしていた黒騎士たちの意識を刈り取る程のものだったが、それらを把握する余裕など今のキュヴィリエにはなかった。
破裂前の膨張感に酷似した激痛が走り続ける瞳から、血の涙が止まらない。
だが、脅威はミラア・カディルッカのみではない。
断腸の想いで展開する遮断の結界、その大剣が真横にて口を開く氷の巨竜の首を刎ねる。
続いてもう一度繰り出す、渾身の一振り。
二頭の悪魔は吹雪となって姿を消した。
尽き果てた力をなお振り絞り立ち上がるが、もうその意義さえ分からない。
ジェルヴェールとヴァインシュヴァルツは、共に自分の元から立ち去った。
濡れた瞳で自分を真っ直ぐに見つめてくれたミラア・カディルッカは、自らその手を振り払った。
そうした事実に強烈な孤独を感じ、血の涙と共に悲しみが頰を流れる。
親友・太陽王ハバート。
その息子。
かつて真に国を想ってくれた若い大臣と、財政顧問の女性。
そして、王妃シャーロット。
もういない彼ら、そして彼女たちとの再会を切望する。
幾ら時を生き抜こうとも、もう二度と叶わぬ願い。
これで良かったのだろうか?
胸を走る後悔には、先王を殺したことさえ含まれていた。
ドラゴン討伐の際にも、自分は選択を誤っていたのかもしれない。
否、あの檻で――少女の代わりに死ぬべきだった自分が、生き永らえてしまったことが過ちだったのだ。
月明りの下、再び全身全霊で魔力を高める。
曖昧な感覚。
自らを引き留める全身の激痛。
恐怖と不安による心理的抵抗の最中、重力の枷を外し、風を纏い、夜空に向かって高く飛び上がり――月読の塔の上に、倒れるようにでも着地できたのは奇跡だと言えた。
冷たい石の床に膝をついたま顔を上げる。
そこまでして今、自分が求めたもの――目の前に広がる景色は、真っ白な雪景色によく似た、グレザリア王城の広大な庭園。
赤い髪の少女と見ていたあの檻の外の景色を求め、工夫を凝らした、この国で最も美しい絶景だ。
満月の夜にしか完成しない、限りなく近く、果てしなく遠い夢のかたち。
今宵が満月で良かったと、血の涙に多くの感涙が混じる。
百年を超える孤独を駆け抜けた。
過去に置き忘れた何かを求めるように、ただ未来へと走り続けた。
答えなど初めから分かっていた――――
満月と星々が優しく輝く大空に、幼い頃の自分と赤い髪の少女を、その笑顔を思い浮かべる。
(――――君にはもう会えない)
無意味だったのだろうか――――――百年を超える日々は。
脳裏にジェルヴェールの笑顔が思い浮かんだ。
赤い髪の少女によく似た幼い娘。
それだけの理由で、初めて人を殺せなかった。
その時、自分はもう役目を果たせないのだと悟った。
自分は義娘に恨まれたまま、この世を去るのだ。
残された者の悲しみを与えなくて済むのだという事実に安心する。
ヴァインシュヴァルツの顔が脳裏によぎる。
シャーロットの息子。
この国を統べるのに相応しい器、そして血筋を持った男。
彼が商人として初めて謁見した時、生きていてくれた事実がどれだけ嬉しかったか。
彼がジェルヴェールを愛してくれるのだから、後顧の憂いは無いのだと思う。
だが不意に、錯乱する思考の中で――――――血筋というものに対する嫌悪感が突如脳裏を支配した。
ヴァインシュヴァルツは王家の血筋。
自分は穢れた血筋。
先程、ミラア・カディルッカと交わした会話を思い出す。
(「貴方だって……幸せになっていいはず……!」
「それは――君自身のことだろう?」
「……!」)
結局、人外の身に流れる血潮は、人類にとっては禁忌の象徴なのだ。
ニンゲンと共に生きることができないのなら、ニンゲンの国で生きることなどできはしない。
〝村の忌み子〟から〝人外の魔王〟まで。
変わらぬ身のまま、極端に異なる立場に身を置いた結果、分かったことだ。
自分を狙う銀髪の狩人は、異世界という牢獄を破り、もうすぐここへやってくるだろう。
彼女にはきっと、その力がある。
そう確信している。
なぜなら――――。
幼い頃に見た光景。
この手を握ってくれた金髪の美女リリスの姿、続けて再びミラアの姿を思い出す。
ここにやってきた彼女は、王位を離さぬ自分を殺すだろう。
彼女の動機は分からないが、これまでの行動からそう確信できる。
魔術の酷使により錯乱した精神は、やがて迫り来る死を悟りながらも、決められぬ覚悟に身体を震わせる。
だが、もうすぐあの赤い髪の少女の元に行けると思うと、少しだけ気分が落ち着いた。
自分はもっと早く死ぬべきだったのかもしれない。
戻せぬ時間が重たかった。
もし彼女があの後生きていたとしても、あれから百年を超える歳月が流れた。
この百余年間、共に国を想い、力を合わせてきた同胞たちに先立たれ続け、独り残されてきたように――――――むしろもっと早く、彼女との物語は終わっていた。
自分はすでに、自分しか知らない孤独な歴史の住人なのだ。
檻の中で、風に靡いた少女の赤い髪。
星空と満月の照らす景色に胸を躍らせ、時間を忘れて語り明かした夜。
白く輝く景色よりも、美しく輝いていたのは――――――
「キュヴィリエ・ディア・ローザリア」
背後で自分の名を呼ぶ女の声。
あの銀髪の女ハンターではない。
凛々しく力強い声が、なぜかこの胸を鷲掴みにする。
振り返ると、赤く長い髪が風に靡いていた。
「グレザリア王国の意志により、貴様を処分する」
ジェルヴェールによく似た、美しい女だった。
シュバイン一家に、化粧を活用した変装術を生業とする女工作員がいたのは聞いていた。
それがこの女性なのだと直感する。
もしかすると、既に何度か会っていたのかもしれない。
だが、その素顔を見たのは初めてだった。
ジェルヴェールはジェルヴェールだ。
その母親も母親だ。
そして、あの少女はあの少女である。
そんな当たり前のことを、深層意識が今ハッキリと理解した。
記憶の彼方――――――冷たい場所だった。
小さな村の、檻の中。
白く輝く景色よりも、美しく輝いていた少女の笑顔があった。
眼前にて立つ、剣を手にした若い女。
見た目の年齢は、自分やミラア・カディルッカと同じで二十歳前後か。
そして、かつて身近にいた女王リリスもそうだった。
永き時を生きる者たちは皆、このぐらいの歳に見えるのだ。
「キミ……は……?」
キュヴィリエの口から思わず零れた問いに、赤い髪の女が答える。
「多くの名を持ち、ヴァル・シュバイン様の配下として生きている、名も無きハーフエルフ……お前と同じ、穢れた血だ」
幼い頃、村で隔離されていた忌み子の自分。
その檻に閉じ込められたもう一人の子供がニンゲンなのだと、誰が言ったのだろうか。
あの時に死んだように見えた少女の死を、誰が確認したのだろうか。
国を護ってきた。
人類の夜明け以降、数多の混乱の芽を狩ることで王を立て、混沌を拡大させず、調和を保ってきた。
百七年間。
女の剣が月光を反射させる。
一寸の狂いも無いその一突きが、動かぬキュヴィリエの心臓に向かってくる。
静止する世界の中で、忘れられていた記憶が鮮明に蘇る。
冷たい檻の中で出会った、大切な温もり。
狭い檻の中から見た、広い白銀世界。
何もなかった自分。
あの頃、すべてがあった。
〝私が護ってきたこの国で、君が生きていてくれて本当に良かった――――――〟
心臓を貫かれ、夜よりも深い瞳から血の涙を流したまま、吐血し倒れる黒髪の青年。
その首に指を当てて脈を取り、その胸に耳を当てて心音を確認する。
意外にも安らかな死に顔を見下ろし、計画の遂行を確信したその時、ルイーザ・アイフィルの脳裏に見知らぬ光景が思い浮かんだ。
檻の中で自分と語り合う黒髪の少年。
月光に照らされた一面の白銀世界。
幸せな時間。
恋、そして愛という感情。
誰かの暴行によって重症を負い、どこかへ連れていかれて、おぞましい人体実験を施された自分。
廃人となった自分に、金髪の美女が何かをして、今の自我が生じたという自覚。
「あれ……?」
ルイーザは、己の頬に何かが流れていることに驚いた。
「なに、これ……」
水滴が夜風に散る。その名は知っている。
涙。
自身の疑問に答えは出ぬまま、それはいつまでも流れ続けた。
月読の塔から見渡す広大な庭園の景色は、月光に照らされた一面の白銀世界だった。
何より悲しく美しいその景色は、かつて失われた記憶に滲み、一層輝いていた。




