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幾千夜の誓いを君へ  作者: 月詠命
八章 統べる者
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第79話 すべての始まり




 かつて、グレザリア王国領の辺境にある小さな村に、一人の少年がいた。


 〝禁忌〟という概念によって人権を得ることさえできず、物心ついた頃から檻の中で育った少年。


 罵倒されることで言葉を学び、暴行されることで感覚を学んだ少年は、ただ一人の少女を守ることで愛を学んだ。


 自分の幸福、生きる意味を見出すことができた時期。

 忘れもしない、人生と世界が輝いた、自己のすべてを肯定できるという喜び。


 そして、残酷に沈む夕日に見降ろされた、少女の最後の姿。


 あの日、村に響かせた叫び声よりも強く大きかった心の叫びが、時を超えて、沈黙と涙になって少年の頬を静かに流れた運命の夜。


 ありとあらゆる苦痛を得て、愛するものを奪われるだけの力無き獣は、滲んだ景色の中で、冷たく輝く無慈悲な夜の女王を見つめて答えた。


「僕を連れてってよ……奪われない世界に」


「キミがつくるんだ」


 満月に照らされる豪華な馬車を背景にして、この夜の中心に立つ金髪の美女は不敵に笑い、女性として極めて美しい右手を優しく差し伸べてきた。


 悪魔のように妖艶なその掌を、少年は強く握り返した。




 柔らかく揺れる馬車の中。

 村の片隅に設置された檻の中で育った少年にとって、外気と遮断された空間というのは極めて不思議な感覚を呼ぶものだった。


 風が無い。


 座っている座席は柔らかく、石や砂の地面とは全く異なる感触だった。


 生まれて初めて見た〝窓ガラス〟

 そこから見える世界は、あまりにも広大だった。


 揺れる空間は、少年に壮絶な違和感を与えた。


 そして――真横に座る美女は、あまりに神々しく、妖艶だった。


 その美女に、少年は訊いた。自分に何の用があるのかと。


 女は答えた。


「近々、冠を渡そうと思う者がいる」


 どういう意味かを問うと、


「次の王を選んだんだ。キミには、彼の横でその支えになってもらいたい」


 話の内容に付いて行けなかったが、何か大きなことを託されるのだということは分かった。


「今、この国には四つの種族がいる。私が退けば、彼らは散り散りになるだろう。崇拝という秩序を失くした者たちは狩られ、森の民は森へ、山の民は山へと帰る。街や村に残るのは、人間たちだけだろう」


 少年には良く分からない話だった。


「この国は、彼らのものになる」


 女は言った。


「だが、彼らは寿命が短い。多くの知識と経験を貯め込み、有意義に使うには時間がかかる。世代を跨いでしまえば受け継ぐ意志は変わり、それは歪みを生む」


 女は少年を見て続ける。


「キミは、森の民の血を引く者だ。人間より永い時間を生きることができる」


 女の赤い瞳は、少年の心を惹き付けた。

 逆らえぬ程に、強く、深く。


 そして、彼女の優しく冷たい口調は、耳から胸と頭に甘く染み込んでいく。


「そういう意味で、キミは私に近い〝統べる者〟だ。その人より永い時間を使って、人間の王を支えて欲しい」


 自らを〝統べる者〟だという美女は、天を仰いで続けた。


「キミは、神を知っているか? 旧世界で語られていたという、この世界を創った者たちのことだ――私は彼らを知っている」


 そう言った美女の瞳は、これまでよりも遥かに生き生きとしていた。

 それは空を仰ぐ崇高な天使にも、血肉に飢えた獣にも見えた。


「多くはいずれ話そう。それと――私はキミに興味がある」


 そう言って、彼女は妖艶な瞳を少年に近付けた。


 女性美――キュヴィリエの、少年ながらに持つ男としての本能を昂らせる身体が近付いて来る。


 二人の距離が縮んでいく。


 彼女の白くしなやかな両腕は少年の首や肩を優しく抱き、彼女の形の良い唇は少年の顔とすれ違い、まだ幼いその肌――首筋へと触れて。


 突如、少年の首に走った甘く鋭い痛み。

 脳裏に赤い髪の少女の姿が思い浮かんだ。


 突き立てられた牙と、貫かれた血管。

 そこに流れる血潮が熱く脈打つ。


 首筋に生じた二点の痛みから全身に広がっていく強烈な快感と、この女神に必要とされているという不思議な多幸感。

 しかし、禁断の果実を齧ったような背徳感と共に、赤い髪の少女に対する苦い想いが胸を強く締め付けた。


 時を忘れた時が流れた。

 朦朧とする少年の意識の中で、美女は唇を離した。


「やはり、いい味だ。それにしても――私の精神干渉が効かないか」


 クラクラする頭、胸に満ちる甘い感情。

 充分に支配されたような状態の少年を、女は白い肌、細い腕と豊満な胸で抱き締める。


「こんなものではないのだがな……まぁいい」


 少年を襲う睡魔は優しく、その誘惑に勝てはしない。


 甘い眠りにつく少年は、金髪の美女に愛しそうに抱かれたまま、その意識を闇の中へと奪われていった。




 次に少年が目を覚ますと、目の前にはやはり女がいた。


 彼女の膝の上に頭を乗せていたことに気付き、なぜか嬉しくも気恥ずかし気分になって身を起こす。


「起きたか」


「……」


 少女と日課だった目覚めの挨拶を口にしようとしたが、なぜか言葉にならなかった。


 ふと周囲の様子が異なることに気付き、窓から外を見ると、闇夜に幾つもの灯りが浮かんでいる。


 少年の乗る馬車は、巨大な集落に着いたようだった。


「王都グレザリア。私の城の城下町だ」


 月明かりと街灯に照らされる夜の王都は、小さな村しか知らない少年にはあまりに衝撃的な光景だった。


 馬車の外に広がるそれは、一言で言えば〝人工物〟の集まりだ。


 無知な少年は感覚で理解した。

 設計され尽くした空間なのだ。


 石畳は、そのすべての表面が平に削られていて、それが高さを均等に保つように道に敷き詰められている。


 家々は、垂直と平行を基準に歪みなく建てられている。


 自然の木や、少年の育った村にあった家屋のような歪みが無い。

 よく見れば、柱や屋根など、建物を構成する材料一つ一つまでもが美しい造形に仕上げられている。


 巨大な人工物は小さな人工物の集合体であり、小さな均整と調和が、大きな均整と調和を実現させているのだ。


 そんな芸術たちが大量に立ち並ぶ。

 それが〝王都グレザリア〟だった。


 そして、少年の目に映るそこには、一人の〝ニンゲン〟もいなかった。


 月光が射す夜の街。

 漆黒の空と、瞬く星々の下に立ち並ぶ木造二階建ての家々。

 そのさらに下、道行くのは二本足で歩く多くの者たち。


 しかし、その頭は狼であったり豚であったり、牛であったり馬や蜥蜴であったりと、皆〝ニンゲン〟とは大きく異なる異形の者たちだ。


 ゆっくりと走る馬車の中、道退く彼らを見下ろしながら美女は言った。


「彼らが〝崇拝という秩序を失くす者たち〟だ。この時間は他の種族が出歩くことがないから、彼らの楽園だな」


 〝ニンゲン〟でない者たち――その姿にギョッとしている少年に、


「どうだ? 醜いだろう」


 と美しい女は笑いかける。


「私は、姿かたちの似るお前たちの方が愛しい。それに――――血も旨い」


 〝お前たち〟と言われても全く実感できない少年を他所に、美女は獣人たちを一瞥し、


「それに、彼らは臭くて敵わん。私が王座より高い場所に行けば、この国に価値も居場所も無くなる者たちだ」


 そう言われると少年には、道の隅や店の中で、和気あいあいと話をしている異形の者たちが少し不憫に思えた。


 やがて見えた建物は、この王都においても破格なものだった。


 この大空に、大空以上に大きいものがない――そんな事実を否定するかのように、空を覆い隠す巨大な建物。


 直線、曲線、円。

 人の手で造ったことを想像させない巨大さと、複雑に組み合った造形美が、その在り様を神格化する。


 近くにある大きな家は、少年よりもずっと大きい。

 遠くにある巨大な〝それ〟は、そんな家々よりも遥かに大きい。


 完全に遠近感を狂わせながらも、走る馬車の窓から覗く少年の視点は、徐々に巨大な〝それ〟へと近付いていく。


 巨大な門を潜る。


 女は大きな布を広げると、少年の身体をそれで包んだ。

 その感触は柔らかく、いつも身体に巻いている布とは比較にならない程に心地の良い肌触りだった。


 ゆっくりと馬車が停まる。


 女に連れられて外に降りると、異形の者たちが揃って出迎えてきた。


 よく見ると、馬車の手綱を握っていた者も、被っている兜とマスクの形状から〝ニンゲン〟でないことが分かった。


 見上げるのは、空を覆いつくす巨大な建築美の結晶。

 無数の窓から漏れる光が、その神々しさに拍車を掛けている。


 それを見上げながら、美女は言った。


「グレザリア王城。今日からここがキミの家だ」


 少年には、もう何が現実なのか分からなくなっていた。




 

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