第64話 主に慕う者たち
人の記憶というのは、そんなにも儚いものなのだろうか。
例えそれが、どれだけ大切なものだったとしても。
その日は、一見して何も特別な日ではなかった。
緑豊かな地方の領主である父は、数ヶ月間の予定で王都の社交界に行っていた。
そう有力な貴族ではなかったため、その夫人である母と娘の自分は呼ばれず、いつも通り領地にある屋敷で過ごしていた。
「お母様、クロエのお散歩に行って来てもいい?」
「川より向こうへ行ってはダメよ」
「はーい」
「あ、そうそうジェルヴェール」
新しく仕立てた服を着て、メイドと共に姿見の前に立っていた母は、自分と同じ赤い髪を伸ばした娘を見て言った。
「西の森へは近付いてはダメよ。魔獣が出たから」
「魔獣?」
現実味の無い、だが恐ろしいその名を口にしたジェルヴェールに、母は少しだけ不安そうな顔をして、
「ええ。ハンターの人たちに狩りをお願いしたけど、なかなか見つからないのよ」
「ふーん。分かったわ」
娘ももう七歳になることから、屋敷の近くで遊ぶことは外出中の父も推奨していた。
健康な身体と、健康な精神を育むことを目的として建てた方針だった。
グレザリア王国スチュアート領。
この地方は緑が多く、領民たちは農業によって潤沢な生活を得ていたため、治安が良いとの評判だった。
領主の娘が多少出歩いたところで、危険な目に遭うことはまず在り得ないような土地柄。
最近、少し離れた山岳地帯にドラゴンが現れたという話を聞いたが、護国卿と呼ばれる勇者様が退治してくれると母は言っていたし、西の森に現れたという魔物たちも、きっとハンターの人たちが退治してくれるだろう。
それが、幼いジェルヴェールが経験から知っている、この世界の〝常識〟だった。
クロエというのは飼い犬の名前だ。
彼女を連れて散歩に出て、屋敷から僅かに東を流れる小川を歩いていた時だった。
小川のほとりにある木の下で、ジェルヴェールは美しい青年に出会った。
お伽噺に出てくる王子様を連想するその青年は、深い傷を負っているようで、固まった血が服を汚しており、深い眠りについていた。
まるで、英雄譚に出て来るワンシーン。
大怪我をして動けない勇敢な王子様を、見つけたお姫様が助けてあげるシーンだ。
子供ながらに憧れていたその光景を現実として目の当たりにし、もう死んでいるかもしれないという壮絶な想いを胸に、ジェルヴェールは急いで母を呼びに行った。
呼んできた母は意外にもその青年を知っていて、共に駆け付けた使用人にすぐに屋敷へと運ばせた。
その時の母の顔は、決してジェルヴェールの知る母親の表情ではなかったが、嬉しそうな気持ちが浮かんでいたため、少女はあまり気にしないようにしていた。
次の日、青年は意識を取り戻した。
それからすぐに、青年は母と仲良くなっていた。
数日もしたら、いつも二人でいるようになっていた。
父の帰還が予定よりも早かったのは、何の因果なのだろう。
何の便りもなく突然屋敷に帰ってきた父は、青年が自分の屋敷にいることに驚いていた。
「ジェルヴェール、お前は部屋に戻っていなさい」
なぜか憤怒を顕わにした父の言葉。
訳が分からぬまま、独りきり部屋に押し込められた自分。
閉められた私室の固い扉。
それを最後に、屋敷は炎に包まれたのだ。
その後、自分はその青年の義娘となっていた。
青年――義父キュヴィリエ・ディア・ローザリアには、ならず者たちによって屋敷が焼かれたと言われ、ジェルヴェールはなぜかその話を疑いもなく信じていた。
かつてスチュアート領と呼ばれた潤沢なその領地は、今ローザリア領と呼ばれ、義父キュヴィリエ・ディア・ローザリアの管理下になっている。
そして、ずっと忘れていた光景は、ジェルヴェールが幼い頃からずっと一緒だった使用人たちを殺して回り、炎で包まれた屋敷を背景にして佇む、悪魔のように美しい青年の姿だった。
「思い出したか」
怒りと復讐の念を込めた短剣。
それを握るジェルヴェールの手首を強引に抑えながら、キュヴィリエ・ディア・ローザリアは言った。
艶のある黒髪。
真摯な美貌。
夜よりも深い瞳。
母を殺し、自分とあの領地を手中に収めた青年は、ジェルヴェールの怒りなど何のこともないと、変わらぬその態度のままで彼女を見つめる。
「よくも……!」
湧き上がる怒りは、助けた母を誑かした男への怒りか。
その母を裏切り、怒れる父を殺し、その領地を奪ったことへの怒りか。
貴婦人の女心を弄び、亭主の真摯な想いをないがしろにするそのやり方を、己の父母のみならず国王夫妻にまで及ばせたような男を、義父として慕っていた自分への怒りか。
はたまた、そうさせられたことに対する恨みか。
ジェルヴェールの瞳に顕わになったそのすべてを受け止めながらも、キュヴィリエはその短剣を手で強く払う。
短剣が音を立てて床に舞った。
「ジェルヴェール、来い!」
ヴァルの声に応じて、ジェルヴェールが彼の元へと駆け寄っていく。
その姿をただ見ながら、キュヴィリエはその胸に複雑な想いを抱いていた。
十一年前、まだ幼かった上にショックで精神的に不安定になっていたジェルヴェール。
その記憶を禁忌の魔術で封じて以降、彼女に精神干渉を行ったことは一度もなかった。
己を想い生きる人形のように育てるのではなく、自立した一つの命として――時に思わぬ何かをくれる義娘を愛しいと思い、その人格を尊重していた日々。
その結果として自分が恨まれることになるとしても、この娘の精神が健全なものになるのならそこに悔いは無い。
無いが――少しだけ、胸に痛みを覚える。
愛する義娘が寄り添うのは、自分を睨み上げるヴァインシュヴァルツ王子――先王より、その王妃シャーロット・ロ・ドゥ・グレザリアの面影を濃く残すその佇まいは、若くして既に王者の風格に満ちている。
流石は太陽王ハバート・ロ・ドゥ・グレザリアの子孫。
親友であった彼を思い起こすその姿に、不思議な充足感を覚える。
王家暗殺失踪事件――あの夜に姿を消し、暗黒街の商人として王都に舞い戻って来た子。
自分に何かがあれば次期国王にと、その地位の向上を見守ってきた青年。
マフィアという生活の中でその器はここまで磨かれ、義娘のジェルヴェールにも愛されている。
いつか護国卿の娘と婚姻するのなら、その時この政権においても彼は正当な王になるはずだった。
だからこそ、革命を企んだヴァインシュヴァルツ王子を、ジャック・シャムシェイルに止めさせたかった。
事件によって、つまらぬ革命の意志を失くせばそれも良し。
或いは事件を解決に導けば、顔を合わせるであろう二人。
親友である二人だからこそ話し合い、その矛先を今は収め、自分――キュヴィリエ・ディア・ローザリアが王座を退くまでは大人しくしようと、そう思わせるための〝カマイタチ〟だった。
己の計算の未熟さ故か。
事は上手くは運ばなかったかと受け入れる。
だが、まだ王座から引きずり降ろされるつもりはない。
所詮、人とは時を共に出来ぬ身。
人外なる者に生まれ落ちたが故に。
〝孤独〟であるならばこそ、この地位を高め、せめて〝孤高〟に至らねば、ニンゲンたちはこの手から愛するすべてを奪っていくのだ。
(だからほら――今私に護国卿という地位があるからこそ、お前たちが離れていく今でも――――)
キュヴィリエの視界の中で、ヴァインシュヴァルツ王子がジェルヴェールの手を取って叫ぶ。
「行くぞ、ジェルヴェール!」
一度だけこちらを見て、すぐに扉へ向かって走り去っていく二人の男女。
その光景を見ながら、キュヴィリエは胸中で続ける。
(――――私にはお前たちの立派な後ろ姿が見える)
報われることが苦渋の結果になった時、その生き様すべてに価値が生まれるのだ。
離れていく――立派に旅立って行くように、扉から外へ出ていく二人。
彼らを追わせはせぬと、立ち塞がる二人のSランクハンター。
その名はキュヴィリエもよく知っている。
ミルバーン兄弟。
伝説に消えたラミアキカーヴァ以降、グレザリア王国領内で最強と謳われるSランクハンター。
彼らが仕事を達成できなかったことは一度も無いという。
「さて、相棒――――」
チェスターが言った。
軽く横に広げた両掌に、小さな炎、氷、雷、風の圧縮体が順番に現れては消えていく。
常識を超えたその芸は、常識を超えた魔術師のウォーミングアップだ。
世間が語る天才魔術師――世間はその実力のすべてを知らない。
一方フェイは近くに倒れる黒騎士の亡骸から二振りの剣を手に取って、左右それぞれ両手に構える。
彼が得意とするのはバリスタや暗器だけではない。
武芸百般。剣、槍、斧、弓。
ありとあらゆる戦闘技術の極み。それがこの男の持ちうる力である。
相棒の言葉に続くように、太い声で一言。
「――――仕事だな」




