第60話 月の悪魔に捧ぐ
キュヴィリエ・ディア・ローザリア。この国で、その名を知らぬ者などいない。
〝生ける伝説の魔術師〟――〝ダンピール〟――〝ハーフエルフ〟――〝悪魔と契約をした男〟――〝竜殺し〟――〝今世紀の魔王〟
これまでに、多くの噂を聞いて来た。
それらが指すことは、つまり〝常識を逸した力を持つ者〟だということ。
軍を超えるとも言われる戦力を持ち、王妃や貴族夫人・令嬢たちを虜にする魅力を備え、遂に王を超える権力をも手にした男。
そして――
(母と父を殺した男)
奴を超えるために、すべてをやり遂げて来た日々。
そのきっかけとなったどす黒い感情を思い出し、ヴァルは顔をしかめた。
(〝悪魔と契約をした男〟? それは奴じゃない。俺のことだ)
自らに激励を送るように、胸中で呟く。
今日、この日のためにすべてを懸けて走り抜けて来た。
護国卿と謁見する時刻が近付くにつれて、その自負が迫り来る緊張感と拮抗してくれる。
さらに、護国卿を片付けなければこの国に未来は無い――その事実が、何よりも強く背中を押してくれる。
艶のある漆黒のカーテンに周囲を囲まれた、円形の部屋全体を視界に収める。
天上に広がる満月と星々の祝福の下、奇抜なデザインの大きなソファーに座ったヴァル・シュバインは、隣に座る占い師のような衣装に身を包んだ美女に視線を投げて、
「アルテミス」
「なに?」
艶のある金色の長い髪と、雪のように白くキメ細かい肌。
深いフードの奥に、確かに感じる美貌。
神々しい程に美しい声に、心を奪われそうになる。
「俺が、ローザリア卿の暗殺を止める――と言ったら、どうする?」
仮定の話は可能性の話。
弱音とも聞こえる疑問をあえて口にし、その可能性を相手に潰して欲しい。
そんな心境を見抜いてか、
「――この国が、戦争になるでしょうね。それも、分の悪い」
フードの影に美貌を隠したままの美女は、淡々と答えた。
「だよな……。〝暗黒街の王の革命〟聞こえはいいよな。俺が成功すれば、俺は次の政権の英雄だ」
ヴァルは天上から覗く遠い星空を見上げて続ける。
「実際には、保身に走る社交界の奴らに俺が担がれるだけの話だけどな」
「貴方が計画していた話でもあるでしょ?」
「……そうだけどさ、他力本願過ぎるだろ。万が一にも貧乏くじを引くのは俺だけだ。貴族たちも、高見の見物してないで少しは手を貸してくれってもんだ」
占い師はフードから覗く口許に微笑を浮かべて、
「あら、そんなことをして革命自体が護国卿に知られたら、それこそ一大事じゃなくて?」
「まぁなぁ……」
いつもより雄弁なのは、不安な想いによるものだ。
ヴァル自身、それを自覚しながらも揺れる感情を吐き続ける。
「護国卿の本当の強みは、恐怖政治だ。この国じゃ、誰もあの男に逆らおうなんて考えもしない」
「貴方以外は、ね」
「……ローザリア政権は盤石だ。俺も上手くいった時には、今の体制から学ぼうとさえ思ってるよ。これだけ国を固めるなんてさ、実際やり手だよなあいつ」
「今、グレザリア王国がこれだけ平穏なのは、太陽王ハバートとローザリア卿の功績だものね」
ヴァルは占い師を見た。
未だに素性の知れぬ彼女の知識は、どこまで広く深いものなのだろうか。
「それで今もなお国が腐敗せず、盤石なのはローザリア卿の功績、だろ?一体どんな信念持ってんだよ。あいつに王家の血筋さえ流れてたら、人類史上最高の王サマなんじゃねーか?」
本音を嫌味で飾った言葉に、占い師は何も言わない。
若き革命の王子は眼前の美女を見つめる。
フードに隠れて見えない瞳は、それでも憂いを帯びたように見えた。
ヴァルはゆっくりと息を吐くと、視線を遠くへ向けて言う。
「結局、お前の正体は分からず終いだったな」
「あら、まるでこれでお別れみたいね」
かつて、王城から逃げ延びた王子と契約し、今もこうして密会を続ける美しき悪魔。
再び彼女に視線を向けて、
「契約は〝お前が俺の復讐を手伝う代わりに、俺はお前に魂を捧げる〟だったからな。現状で、既に俺がお前に魂を捧げたとは思えない」
つまり、自分は事を成した後で、この悪魔に魂を奪われるのではないか。
「充分よ」
占い師に扮した悪魔は微笑んだ。
だが、妖艶な青年は納得がいかないといった様子で続ける。
「どうにも割に合う気がしないんだ。俺が俺のやりたいことを話せば、お前は知恵、つまり手段を俺に与えてくれた。お前に言われるがままに動いて、その知恵を学びながら俺はここまで来れた。なのに、俺はお前に大したことはしていない」
「貴方にとって大した価値も無いことが、私にとっては価値があったのよ。私と貴方では価値観が違うから。それに――」
占い師がソファーから立ち上がると、蠱惑的そのものと言える身体のラインがヴァルの視線を吸い込む。
所々露出した服を纏ったその身体付きは、それそのものが男にとって扇状的であると言えた。
座ったまま彼女を見上げる青年。
その表情は、多くの娼婦たちを虜にする妖艶な男のそれではない。
幼くして母を亡くした孤児の少年が、甘い夢をくれる美しき悪魔に見惚れるような、そんな幼い顔。
そのやや細い首の後ろに白い腕を回し、女はヴァルを抱擁した。
豊かな胸が顔を包み、青年の腕が思わず細いくびれを抱きしめる。
「愛しい相手の何かって、それだけで特別じゃない?」
「……」
ヴァルの脳裏が甘く溶ける。
心の安息に我を忘れる。
思考することで、この多幸感が損なわれてしまうことがあまりにも惜しい――本能がそう判断したのだろうか。
静寂の中、この心を奪い尽くしながら輝く美しき悪魔。
その低めの体温、肌の感触、肉の柔らかさすべてが官能的で、時間を忘れて溺れてしまう。
その柔肌から鼻腔に満ちる芳香に包まれながら、ヴァルはなぜかミラア・カディルッカを思い出した。
「アルテミス」
「なに?」
優しい女神に、王子は訊く。
「ミラア・カディルッカは、本当にローザリア卿に勝てるのか?」
「勝てるわ」
その表情は見えないが、声音から微笑んでいるということが分かる。
だが、ヴァルは疑念を払えなかった。
「ドレイク相手に後れを取るような女だぞ?」
小型の竜種を仕留めて倒れた女と、大型の竜種を仕留めて生還した男。
その実力差がどうすれば覆るというのか。
「確かにキュヴィリエは強いわ。でも――」
悪魔は、記憶に残る何かを見定めるように続ける。
「ドレイクは、ドラゴンに勝てない」
ドレイク殺しのミラアは、ドラゴン殺しのローザリア卿に勝てない。
そう思ったヴァルだったか、話の流れからするとそれは逆のようだ。
ドラゴンとドレイク――それだけの戦力差が、ミラアとローザリア卿にあるというのか。
それも、ミラア優勢で。
帝王学では、多くの成功者に自らを支えてくれた者がいたという。
それは伴侶であったり、友人であったり、側近であったり。
時には好敵手ということさえあっただろう。
自分を救い、育ててくれたルイ―ザ。
彼女がハンターとして出会い、連れてきて、いつしか自分の片腕となっていたフェイとチェスター。
暗黒街で成り上がり、豪商として社交界の末席に戻って来た自分を受け入れてくれたジェルヴェール。
昔と変わらぬ視線と言葉を向けてくれるフィーネには、王位を失った自分自身を肯定させて貰った。
全てを投げ捨てずに背負い込み、前へ上へと生きる様は、ジャックから教えて貰った。
彼の活躍を唯一の楽しみにして、乗り越えられた日々もあった。
そんな多くの仲間たち以上に、自分に多くをくれたのが、月の女神を自称するこの悪魔だった。
「お前が言うんなら、そうなんだろうな」
命を懸ける判断。
ミラアがローザリア卿よりも強いからこそ、成り立つ今日の革命。
「ハッキリ言うとね、ローザリア卿を倒すことだけならあの女だけで充分なのよ」
アルテミスの言葉に目を剝くヴァルに、月の女神は続ける。
「ただ、あの女一人で護国卿を倒しても、この国は貴方を認めない」
「……俺には由緒正しい血統があるんだぞ? あの女が俺の協力者ならば問題あるまい?」
「あの女が協力者だからよ」
薄い笑みを絶やさない女神から目を逸らして、
(無名な者の革命じゃあるまいし……)
思案するヴァルに、アルテミスは続ける。
「あの女が護国卿を倒した時、この国はあの女を認めない。あの女を目立たせてはいけない。だからこそ、貴方が城に乗り込み、そこで数人の仲間たちと一緒に護国卿を暗殺した――そういうシナリオが、新しいグレザリアの歴史に必要なのよ」
ヴァルはしばし考え、
「やはり気になる。あの女は一体何者なんだ? そして、お前は奴の何を知っている?」
アルテミスの微笑みは、その腕と胸の中に包まれているヴァルからは見えない。
「あの女は、キアラヴァから来たSランクハンターよ。私は彼女の――――――そうね、好みの料理を知ってるわ」
誰もが知っている情報と、冗談とも取れるくだらない情報。
今更分かっている。
この女は、答えたくないことには答えない。
だから、未だにヴァル自身この女の正体が分からないでいる。
「よく分かんないけど、ミラア・カディルッカは渡りに舟だったな。でもさ、アルテミス――ミラア・カディルッカがこの街に来るって、良く分かったな。前から言ってた〝奥の手〟って、あいつのことだったんだろ?」
「あの女の性格を考えたら、グレザリア王国に来ないはずがなかったからよ。あの女は目的があってこの街に来た。私はその目的を知ってるだけよ」
「ふうん」
〝奥の手〟に関する明確な返事がないが、つまりミラアがそれに当たるのだろうとヴァルは思った。
「……行くよ」
ヴァルの言葉に、優しい悪魔の腕が離れる。
青年が椅子から立ち上がると、部屋を包んでいた漆黒のカーテンが大きく広がり、天上に広がる夜空を包み込んだ。
それから周囲のすべてが霧のように曖昧になり、同時に天の川のような煌めきを放つ。
妖艶なる悪魔は、その美しい四肢を晒しながらも、その美貌を晒すことなく、口許に微笑みを浮かべたまま青年を見送る。
〝すべては夢だった〟――そう思えるような景色の激変の末、青年は暗く狭い部屋に独りで立っていた。
目の前には一つの大きな鏡があり、いつもと変わらぬ自分を映していた。




