第49話 切望の日々
寝室のバルコニーを吹く夜風は、フィーネの頬と髪、そしてこの世界に抱く強烈な哀愁を優しく撫でた。
修道院で初めてジャックに出会った日を思い出す。
弱そうな少年を一目見て、騎士としての心が、守るべきものだとフィーネに強く訴えた。
そして、あの事件から、ジャックは自分たちと遊ばなくなってしまった。
〝私が守ってあげなかったから。私がジャックに守ってもらったから〟
心惹かれていた幼馴染は、自分と過ごす日々よりも剣に生きる道を選んだのだ。
そして、王妃と先王が続けて死去し、仲良しグループのリーダーだったヴァインシュヴァルツ王子が失踪。
王家断絶の混乱をローザリア卿が恐怖で治めた王都を離れ、世界を見て回るハンターになるという夢に強く背中を押したのも、彼らとの告別だった。
そしてジャックの〝剣聖の後継者〟という二つ名が王都に響き渡る頃、ヴァインシュヴァルツ王子が妖艶なマフィアとしてフィーネの前に戻って来た。
間も無くして、ジャスニー海峡を挟んだ隣国であるキアラヴァ王国が戦争を仕掛けてくるという話が、グレザリア王都を走り抜けた。
思い返せば、すべてが早かった。
父は任された領地から王都に来ることがなくなり、母は王都にて黒の騎士団の副団長に剣術の指導を行う日々が続いた。
戦争には行かずに世界を見ろという母の指示。
他の騎士たちと共に、あわよくばジャックと肩を並べて勇敢に戦いたいという想いから来る不満。
それと同時に、ハンターという夢を叶えることができる喜びに胸が震えた。
初めて一人で訪れたジャスニーの海。
憧れのハンターによく似て、同時に大きく異なるミラア・カディルッカとの出会い。
大きな隊商と過ごした日々、魔獣たちとの戦い、クラーラの死、そして王都に帰還。
ヴァインシュヴァルツ王子――――いや、マフィア〝ヴァル・シュバイン〟の指示による、ミラアのカマイタチ捕獲。
犯人とされる、ジャックの投獄。
激しい数年間だったと思う。
そして、迫る戦争にこの国のすべてが凌辱され、焼き尽くされ、死よりも過酷な地獄絵図が実現されてしまうかもしれないという巨大な不安。
平穏な日々故に、強く感じる切望。
強烈な悲壮感に蝕まれた心は誇りと武勇を忘れ、瞳から零れ頬を伝い、一筋の光となって夜に流れ落ちる。
「ラミアキカーヴァ……」
フィーネの唇から、敬愛する遠き名が零れる。
母カタリーナは、何度も彼女に助けられたと言っていた。
他力本願など、騎士としてはあるまじき行為。
しかし気張って生きる中、時折僅かに生じる心の隙間に、儚い夢を見てしまう。
今度も、母を、自分を――助けてはくれないだろうか、と。
そんな弱音を優しく包むように光る月は大きく欠けていて、フィーネの心の穴を映しているような錯覚を覚える。
満天の星空は、いつの世にも美しく輝いている。
無情なる人の世で何が起ころうと。
翌朝、グレイス家の朝食は相変わらず豪華なものだった。
長いテーブルには純白のクロスが敷かれており、その上には三人分の食事が用意されている。
そのどれもが、材料費や調理法などが計り知れない逸品だ。
宿屋の一階で出すには費用と労力と時間がかかりすぎる高級料理。
一介のハンターでは、なかなかお目に掛かれないフルコース。
上座にはこの屋敷の現主カタリーナ・ディア・グレイス公爵夫人。
テーブルの中央を挟むように、ミラアとフィーネが座っている。
三人とも、深く染みついたマナーを崩すことなく食事を摂っていく。
カタリーナの凛とした佇まいはいつもと変わらないが、フィーネの表情はいつになく暗いものだった。
そんな少女を気遣うように見ながら、ミラアは食事を進めていく。
「レディ・カディルッカ」
公爵夫人に呼ばれて、ミラアは顔を向ける。
「はい、何でしょうか?」
硬い敬語に、柔らかい口調と表情。
「今日、お昼の十一時にディア・グレイス嬢がお見えになるというお便りを頂きました」
「はい」
唐突な話と振りに対して、とりあえず平静に返事をするミラア。
「貴女にお話があるそうです」
「……分かりました」
ミラアの返事に次いで、フィーネが訊く。
「ジェルヴェールが、ミラアさんに用事ですか?」
その表情はどこか真剣だったため、何か思い当たる節があるのかもしれないとミラアは思った。
「ええ。貴女が同席できるかどうかは、ディア・ローザリア嬢にお聞きなさい」
あくまで平静に言うカタリーナに、フィーネは強く頷いた。




