第4話 夜に想う
暖炉の炎と無数のランプの灯りに照らされた、宿屋の一階の食堂。
二人一緒夕食を摂り、木造の階段を上っていく。
部屋は二人同室にした。
安く済むだけでなく、防犯の意味もあるとミラアは言う。
誰もいない部屋は暗闇そのものだった。
窓には高価な板ガラスなど嵌められておらず、木扉だけが閉まっていて、屋外との景色を完全に遮断している。
それに違和感を覚えるのは、フィーネが貴族育ちであるが故に。
ミラアは臍下丹田に意識を集中させ、左手を前に出した。
自分とフィーネ、二人の生命によって歪んでいる周辺の空間に〝世界〟を感じ、己の精神を用いてその歪み方に干渉する。
さらに深く干渉するように意識すると、上へ向けた掌の上に立体的な光の文様が構築され、優しい光を放った。
部屋に光が満ち、視界が大きく広がる。
「キアラヴァ王国伝統の黒魔術ですね!」
フィーネは瞳を輝かせる。ミラアの口元に笑みが零れる。
「分かるんだ?」
「はい。私たちの精霊魔術と違って、精霊の声が独特なので」
黒魔術は魔術を〝世界の歪み〟だと捉え、精霊魔術では〝大気に満ちる精霊との会話〟だと捉えている。
フィーネの言った精霊の声とは、黒魔術で言う〝世界の歪みの波長〟である。
「グレザリア王国は精霊魔術が一般的だもんね。キアラヴァ王国でも最近は精霊魔術が流行ってて、黒魔術師なんてほとんど残ってないけど」
光る立体的な文様――立体魔法陣と呼ばれる神秘の現象は、ミラアの手のひらを離れてゆっくりと天井へと移動すると、異様に明るいシャンデリアのように部屋中を照らした。
ミラアに続いて部屋に入ったフィーネは、扉を閉めて鍵を掛けた。
二つのベッドの間に机が一つあり、その下に金庫がやはり一つ。
「金庫、一緒でいい?」
「はい」
フィーネから革袋を受け取ったミラアは、金庫の前にしゃがむと、その中に二人の革袋を入れた。
施錠し、鍵に括り付けられた紐を首にかける。
フィーネはその横に並ぶように立つと、金庫を跨ぐ机の上に置かれた安物のランプに手を翳した。
この部屋の空気に満ちている精霊たちを感じ、その心と自らの心を同調させ、共鳴させる。
脳裏に浮かぶのは炎。それも、ごく小さなものだ。
そのイメージを保ったまま、姿の見えぬ精霊に働きかけると、心に直接伝わる彼らの声ならぬ返事と共に、ランプに小さな火が灯った。
それを確認すると、ミラアが言う。
「私、窓辺で寝るね」
「あ、はい」
天井に輝く立体魔法陣が光を失い、一気に視界が闇に落ちる。
辛うじて視界に残るのは、先程火を点けたランプの周囲だけである。
その中で、銀髪の女は窓辺に歩み寄った。
「ちょっと換気するね」
「はい」
木扉を開けると、冷たくも新鮮な空気が部屋に流れ込んできた。
満月の光が部屋へと差し込み、窓辺に植えてある虫除けのハーブが白く照らされているのが視界に入る。
二人のベッドの間に揺らめくランプの灯と相まって、部屋の中はその姿を取り戻した。
薄明るい部屋の窓辺で、ミラアは無造作に服を脱ぎ始める。
どこか洗練されたような、淀みのない華麗な動き。
彼女の白くしなやかなくびれと四肢のラインが、揺らめくランプの灯と月明りに照らされて顕わになっていく。
不慣れな状況に、フィーネは息を呑んだ。
貴族育ちで、服の脱ぎ着はメイドにさせるのが日常であるせいだろうか。
麗しい女性が自分で衣服を脱ぐという行為が、少女にとっては妙にエキゾチックに思えてしまう。
さらに、自分が憧れているハンターのイメージと強く被る女性で、見とれるほどの美人。
素直に言えば、フィーネはこの女ハンター自身にもすでに憧れを抱いている。
無論、騎士道精神を重んじるのであれば、憧れや目標に対して不純な感情は持つべきではないと少女は考えていた。
しかし事実、下着姿のミラアは、こうして自分の視線と心を完全に奪っている。
これはあまりにも不浄ではないだろうか。
性的な目で女性を見る趣味はフィーネにはなかったが、どうも自分でも誤解を招くような気分になり、そんな自分自身に羞恥心を感じてまた顔が熱くなるという悪循環。
そうしているうちに、ミラアはすっかり下着姿になって、ベッドに入ってしまった。
「フィーネ、寝ないの?」
少女が立ち尽くしていることに気が付いた銀髪の美女が、僅かに間の抜けた声で聞いてくる。
気の抜けたものが無防備に発する何かは、時に愛おしくなるというが、声もそれに当て嵌るのだとフィーネは思った。
いや、性的な意味ではない。断じてない。
「ね、寝ます……」
急かされたように、フィーネは服を脱ぎ始める。
ミラアの前で。
自分の手で。
この薄明るく狭い部屋の中で。
――誰一人知り合いのいない、この港湾都市の――夜の宿屋で。
神々しくも悪魔的に美しい女性と二人っきりで。
四肢の肌が、夜の空気にさらされる。
ミラアを視界から外して壁を向きながら、慣れない手つきで衣服を脱いでいく。
背中が熱い。ミラアの視線を強く感じているのだ。
恥ずかしさに耐えながらそっとミラアを見ると、彼女はベッドに横になったまま、木扉の開いた窓から見える空を見上げていた。
(私、バカみたいじゃないか)
さっさと服を脱いで、下着姿になる。
「あ、脱いだ服……」
唐突にミラアがこっちを向いたので、心臓が無言で何かを叫ぶ。
「明日一緒に洗うから、そこの籠に入れといてくれる?」
「はいいぃぃ!」
髪が一気に逆立ち、目が点になって吊る。
「?」
不思議そうなミラアの視線から逃れるように、フィーネは素早く布団に入った。
安物の布団の冷たい感触を肌で感じていると、ミラアが分かったように言った。
「そっか、フィーネ、いつもナイトウェア着て一人で寝てるんだ?」
「……はい」
ミラアの言葉に、日頃と今との大きなギャップを実感して、なんだか恥ずかしくなる。
貴族習慣の身についたフィーネにとって、誰かと同じ部屋で、さらに下着姿で寝るということは、どうしても卑猥なことを連想してしまうのだ。
「そういうことねー」
ミラアは何かに気付いたように、そしてなんだか楽しそうに言っているが、背中を向けているフィーネにその表情は伺えない。
いや、想像したくもない。
今夜眠れなくなる。それも自分だけ。
「男の人とも、ないの?」
ミラアの質問に、フィーネの顔が熱くなる。
ついミラアの方に寝返って、
「あっ、ありませんよ!そんな、不浄な……!」
「不浄かぁ。フィーネはお父さんとお母さんが、不浄なコトしたから生まれたんだ?」
どこか惚けた言い方に、少しハッとする十八歳の乙女。
一方でミラアは楽しそうに続ける。
「不浄でも女の悦びだからね。もっとも、尻軽より腰を据える女の方が、腰を据えた男には愛されやすいんだけど」
「はぁ……」
どこか分かるようで分からない話。
顔を、身体ごと天井へ向ける。
そこでフィーネの頭に唐突に、いけない好奇心が生じる。
横目でミラアの姿を見た。
女豹のような身体を横にして、蠱惑的な瞳でこちらを見ている年上の女性。
銀色の髪は月光を弾き、雪のように白いその表情はランプの灯りに染まっている。
自分もきっと、同じように見えているに違いないと思う。
これなら大丈夫だ。
顔が真っ赤になってても、ミラアさんには気付かれない。
涼しい訊き方で、いけ私。
「……ミラアさんは、どうなんですか……?」
人前では絶対に訊けない、卑猥な質問。
この女神のように美しい女性は、男性と愛し合い、絡んだ経験があるのだろうか。
沸き立つ興味に、止める理由の無い好奇心。
時間の流れが遅くなった気がする。
自分の心臓がうるさい。
どうなんだろう?
返事を聞くまでの時間に耐え切れず、熱くなる指で掛け布団を握りしめる。
泳ぐ視線を目蓋で抑え、自然な伏目でいる……つもり。
はしたない質問しちゃったけど、ミラアさんから始めた話題なんだから、別に私の趣味じゃないぞ。
そう自分に言い聞かせる。
「どうって何がー?」
あっけらかんと惚けたミラアの返事に、フィーネは耳まで熱くなるのを感じた。
そんな風に訊き返されたら、内容をリアルに想像してしまうじゃないか!
有名な絵画にも、全裸の神々が戯れるものがたくさんある。
石像や絵画で、男性の身体だって知っている。
フィーネの脳裏に浮かんだ絵画の女神がミラアに入れ替わり、妄想の世界で神々の石像が肉感を以ってミラアと絡む。
わあー!
赤面しながら目が回るものの、その気分がどこか心地よく恥ずかしい。
心に刃を置いて、澄んだ水の如くそれを沈める。
武術で磨いた明鏡止水の心技をこんなことで使うのはいただけないが、この際仕方あるまいと半ば無理矢理納得する。
落ち着け私。だいじょうぶ。
これはミラアさんから始めた話題だ。
それに、誰も聞いてないし。
「……ミラアさんの、男性経験ですよ」
「私の経験かぁ。人数? 内容? 相手のこと?」
唐突な話の濃さに目を丸くするフィーネに、ミラアは何でもないように訊き続ける。
「出会い方? どんな風にベッドに入ったか? 相手の性格? 性癖? 性器? はしたない子ねー」
戸惑うフィーネの乙女心に、ニヤニヤとしたミラアの最後の言葉が突き刺さる。
はしたない子、つまり卑猥な女。
「えっ、ちょ、ちょっと……」
さすがに抗議の声を上げたいフィーネに対し、ミラアが放つ言葉の連射は止まない。
「こーゆう話が好きな子だったんだ? あーううん、気にしなくていいよ。そういう女の子たちも知ってるし」
「ち、違いますよ、ミラアさんが……!」
ミラアさんが始めた話だ、と言いかけたのだが、先回りされる。
「私から勝手に始めた話題だもんねー? フィーネはそんなはしたないことに興味が湧いちゃう、卑猥な女の子じゃないもんねー? 卑猥じゃない女の子が、なんで私の男性経験まで聞いてくるのか謎だけど? まるで私の話から、卑猥な妄想をしてイヤらしい気分に浸りたいみたいに……」
「……!」
「あ、いいよ全然? そういう卑猥な話題を楽しみながらも、相手のせいにしちゃうムッツリ淫乱女子のコト、私けっこう知ってるし。あーフィーネちゃんは違うもんね? そういう、ムッツリ淫乱女子じゃないもんね? 私の卑猥な話から、あんなことやこんなことを想像して楽しむわけじゃないもんね?」
フィーネは何も言い返せない。目が回るのに頭が回らない。
唯一頭に浮かぶ言葉は、後悔の二文字だけだった。
「安心してよ、妄想大好き変態女じゃないフィーネちゃん。貴女が私の言い出した話に便乗して、卑猥な実話が聞きたいわけじゃないって分かってるよ♪……ねー、でもじゃあなんで私のえっちな話が聞きたいのかなー?」
「……ごめんなさい」
なぜか謝ってしまった。
オトナの女性の余裕と、知ってはいけない経験値に触れた気がした。
「おやすみ♪」
逃げるように布団に潜り込んだフィーネの耳に、優しい夜の挨拶が投げ掛けられる。
もうお嫁に行けない。
愛おしい表情が布団に潜ってしまったが、その布団の膨らみさえ愛おしいと想いながら、ミラアはしばらく笑みを浮かべていた。
夜が明けるまで語り明かしたい想い。
あるいはこの手でそっと抱きしめたまま眠りたいという想いを殺しながら、一人明日の仕事について考える。
スパイスを輸送する隊商の護衛など、新米ハンターに務まるはずがない。
フィーネの実力がどの程度のものかは知らないが、魔獣を相手にして生き残るためには経験値がまったくと言っていいほど足らないだろう。
それを埋めるための自分である。
そしてその経験こそが、少女の経験不足を埋めるものに他ならないのだ。
(フィーネ・ディア・グレイス)
今日初めて知った、少女の名前。
すでに親しみ、そして愛おしさを覚えた名前。
そして、〝護国卿〟キュヴィリエ・ディア・ローザリアの台頭。
人物像の曖昧な、むしろ実在さえ疑われていた男。
彼が力づくで国の平和を実現させたとしても、世界はそれを認めないのだ。
遥か天空から射し込む月明りに照らされて、窓辺に植えられたハーブが白く光っている。
月は孤独に夜空に輝く。満天の星々は、それを祝福しているのだろうか。
不意に流れた自分の涙に気付いて、ミラアは白く光る手の甲で目元を拭った。
自分に、より好ましい国の在り方など分かるはずもないのだから、考えるのも無駄だとすぐに悟る。
もう一度だけ隣のベッドに目をやると、布団の膨らみから微かな息遣いが聞こえてくる。
静かにベッドから出て窓の木戸を閉めると、月明りが遮られて、部屋の中を照らす光がランプの揺らめく暖色の灯だけになった。
ランプに近付き息を吹きかけると、小さく輝く炎が吹き消えた。
同時に訪れた真っ暗な闇の中で、焼けた魚油の匂いが鼻をつく。
完全に光源の無い漆黒の闇は、隣で眠る愛しい寝息をより間近に感じさせた。
ミラアは自分のベッドに横になると、自らの両手の指を互いに絡ませ合いながら、運命がくれたこの夜に深く感謝した。