第47話 カタリーナ・ディア・グレイス
銀色の長い髪を風に靡かせ、赤みの強い紫の瞳に王都の街並を映しながら、ミラアは黄昏時の空の下を一人歩いていた。
これから夜を迎える新市街地の大通り。
人通りはまばらだった。
道の両端に並ぶレヴェルベール灯に油を足して、火を付けていく男。
走る辻馬車。
屋外での仕事を終え、帰宅する者たち。
今日の商いを終えた店は灯を消して、建物の上の貸し部屋、或いは宿屋や食事処のみ光が残る。
大きな交差点を超えて、商業区から住宅街へと足を踏み入れると、裕福な者たちが住む一戸建ての家屋から暖かな光が漏れていた。
静寂な視界の中、ミラアの歩みに沿って、黒木と白壁に彩られた街並が前から後ろへゆっくりと流れていく。
舞踏会で出会ったローザリア卿を思い出す。
黒髪の若き紳士。
最強の権力と暴力を兼ね揃えた、グレザリア王国の闇。
幾多の戦士たちの力を遥かに凌駕し、数多の貴族たちの上に君臨するその手は、ミラアには優しかった。
しかし、その男の存在によって、この国は確実に滅亡へと向かっている。
つまり、彼にはこの世界で一国を統べる王としての適正がないのだ。
それが、血筋という能力と無関係なものだったとしても。
そう考えているうちに、銀髪の美女の目の前には、灯の漏れるグレイス家の屋敷と大きな外門が待ち構えていた。
黒装に身を包んだ二人の門番は、ミラアを見るなり頭を下げ、見上げるような大きな門を開けてくれた。
軽く頭を下げ、ミラアは一人、幾つかの灯に照らされた庭へと入っていく。
背後で外門が閉まる音が聞こえた。
中庭にある音楽堂から聞こえるのだろう。
遠く響くピアノの音色に包まれながら、門から屋敷まで続く、石畳で出来た道を歩いていく。
月光に煌めく噴水の横を通り過ぎ、屋敷の玄関前に立ち、獅子を形取ったノッカーを叩くと、馴染みのメイドがミラアを出迎えた。
彼女に連れられて屋敷に入ると、ホールではフィーネが笑顔で迎えてくれた。
屋敷の中まで微かに響く、ピアノの音色は止まない。
〝戦場の聖夜〟かつて女王カーミラが作曲したという、静かで儚い旋律が、悲しくも強く美しい変化を魅せる名曲。
本来はオーケストラで演奏するものなのだが、ピアノだけでも演奏できる楽曲である。
中庭にある音楽堂。
シャンデリアの上に大量に輝く蝋燭の灯に照らされる中、年齢を感じさせない美女カタリーナ・ディア・グレイスは一人、剣を振るうために鍛えた指を鍵盤に踊らせていた。
ハンマーが弦を打つ動きに淀みは無い。音色の強さにも迷いは無い。
悲壮感を伝えるのは旋律であり、弾き手ではない。
ゆえにカタリーナは淡々と弾きこなす。
悲しみは曲が伝えてくれる。
それが聞き手の心を強く打つのなら、弾き手の感情など必要ではないのだ。
涙は流さない。感情の起伏は、指の動きを鈍らせる。
感情は殺さない。殺す行為が、指の動きを鈍らせる。
希望も絶望も不要なのだ。すべては曲に委ねるのみ。
弾く曲が本当にこの想いを代弁してくれるなら、己の真心に何の価値があろう。
かつて共に旅をしていた相手を思い出す。
〝銀の魔女〟の通り名を、未だこの大陸に残す一人のハンター。
二十五年前。ここより遥か北の街で生きていたまだ若すぎた自分に、二本の剣を操る術と、文武両道という生き方を教えてくれた姉のような存在。
通り名にもある〝銀〟とは、彼女の長い髪の色のことだったか。
それとも、笑顔を見せることのない、氷のように冷たい心を意味していたのだろうか。
五年間の付き合い、そして共にこの王都に辿り着き、風のように消えてしまった。
彼女の行方と安否、そして最後までその笑顔を見ることができなかったことが心残りだった。
彼女の話を聞かせながら娘を育てたのは、彼女のように強く育って欲しいという想いからだった。
そして自分に生き方をくれたその女性のように、自らの骨身を削ることなく誰かに何かを与えられる、そんな大人になって欲しいと願っていた。
曲が終わるのと同時に、誰もいない音楽堂に一人分の拍手が響いた。
振り返ると、見慣れたようで見慣れない姿が音楽堂の入り口に立っていた。
銀色の長い髪。
一流の人形師たちが見とれるであろうその顔は、美貌として一切の歪みがない。
やや赤みを帯びた紫色の瞳は宝石のように見る者の心を奪い、高揚させ、その心の奥に触れたくなるような輝きを帯びている。
Sランクハンター、ミラア・カディルッカ。
愛する娘が連れて来た人。
いや、むしろ愛する娘を守りながら連れて来てくれた人。
気配は完全に無かった。
「ご演奏中でしたので、黙しておりましたが。あまりの美しい音色に、つい拝聴させて頂きました」
「……何か御用?」
カタリーナ・ディア・グレイス公爵夫人は、平静を装いつつ訊ねた。
「ヴァル・シュバイン、という名をご存知でしょうか」
カタリーナの心臓が一度締まった。つい唾を飲み込む。
銀髪の女ハンターから目を逸らして、
「ええ。それが何か?」
この王都の物流の要、シュバイン商会の元締めだ。知らないほうがおかしい。しかし、ミラアが聞きたいことはそんなことではなかった。
「彼の生い立ちを知りたく、馳せ参じました」
「……」
板ガラスを嵌めた窓の外には、いつの間にか夜の帳が落ちている。
外は漆黒の空に星が瞬いているが、窓ガラスに写るのは女二人。
それを目にして、若いミラア・カディルッカと並ぶと、どうしても自分の年齢を実感させられるとカタリーナは感じた。
だが、それが不快では無い。
少し腹が括れた。
「ヴァル・シュバイン……王都の歓楽街に突然現れた青年です。その生まれは誰も知らない。しかし――――」
黙って聞くミラアに、ディア・グレイス公爵夫人は戸惑いを引きずりながら続ける。
「――貴女が私に聞いてくるということは、彼と、フィーネやディア・ローザリア嬢との仲に勘付かれたのでしょう」
そう、フィーネとジェルヴェールの仲が良いことは不自然ではない。
同じく貴族令嬢なのだから。
だが、裏社会の商人であるヴァル・シュバインが、貴族令嬢であるフィーネとジェルヴェールとあまりにも仲が良いことはミラアの目に不自然に写っていた。
もし富裕層として接点があり、親交が深いとしても、ヴァルとフィーネのよそよそしくも近い距離感が腑に落ちなかった。
あれではまるで……。
カタリーナ・ディア・グレイスは、視線を遠くに向けたまま話し始めた。
「頭の良い子でした。昔から」
「……」
「彼は、とある由緒正しい家系の生まれで、フィーネ達と親交深く育っていました」
曖昧な答えに、再び沈黙が落ちる。
ここまでしか言えない、ということだろうか。
ミラアは質問を替えた。
「ジャック・シャムシェイルをご存知ですね?」
「ええ」
「彼が先日投獄されたことはご存知ですか?」
「……知っています」
さすがに耳が早いな、とミラアは思った。
「彼とヴァルと、フィーネとジェルヴェール。四人の関係は?」
「……幼馴染です」
ヴァルとジャック、フィーネとジェルヴェール。
幼い頃から、四人で仲良く遊んでいたということだろうか。
「……あまり、教えてくれるおつもりはなさそうですね」
カタリーナ・ディア・グレイス公爵夫人は、この国で最も位の高い女性である。
その彼女が、こうして一介のハンターに質問責めに遭っている光景など、誰も想像しないであろう。
だが、尊重の念を持ちながらも、銀髪の女ハンターは引かない。
「では」
一息ついて、
「ヴァル・シュバインの本名は?」
沈黙が落ちる。
ヴァル・シュバインという名は、恐らく偽名。
そうでなければ、由緒正しい家の出身であるという彼に〝ディア〟などの名が付かないことに説明がつかないし、何らかの事情で家から追い出されたというのであれば、生まれた家の名を名乗れるわけもない。
凛々しい姿勢を保ちながらも、目を伏せて口を閉ざす公爵夫人。
ミラアは話を続ける。
「近々、この国で大きな変化があるという話を聞いています。戦争とはまた少し違った、大きな変化が」
「……」
カタリーナの表情を見て、ミラアは確信した。
「やはり、貴女なら存じぬはずがない」
「多くを知っているのですね」
カタリーナ・ディア・グレイス公爵夫人がミラアを見た。
真っ直ぐな瞳に、ミラアは胸の奥が熱くなるのを覚える。
「レディ・カディルッカ。いえ、ミラア、でいいかしら?」
「……ええ」
複雑な顔をするミラアに、カタリーナが続けて訊く。
「今は私たち二人しかいません。私のことも、カタリーナと呼んでくれますか?」
「……」
時間が止まる。
正確には、時間の感覚が止まった。
過去も未来もその価値を忘れ、現在という輝きにすべてを奪われたような感慨に、ミラアの全身が熱を帯びる。
「カタリーナ」
ミラアの唇が名を溢し、憂いに染まった瞳から細い涙が流れた。
「ありがとう、ミラア」
カタリーナ・ディア・グレイス公爵夫人は嬉しそうに笑ってから、真剣な心を瞳に映して言った。
「やはり、首謀者は彼なのね。そして、近々貴女に言うのでしょう。その計画のすべてを」
カタリーナもすべてを知るわけではないようだ。
だが、今何かを確信したように思える。
ミラアの心が締まった。
カタリーナの美しい声は、刃物より鋭利な言葉となってミラアの耳に届けられる。
「〝ヴァインシュヴァルツ・ロ・ドゥ・グレザリア〟――それが、暗黒街の王の本名」




