第44話 血染めの心、鋼鉄の想い
きっかけは今も忘れない。信念は何も変わらない。
人の心は変わるものだが、それは目指す方向が変わるという意味に限らない。
精進、そして信念の強化――それが、自分にとっての心変わり。
あの日、まだ子供だった自分は、いつも通り歳の近い仲良し四人組で遊んでいた。
栗毛の少女、グレイス家令嬢フィーネ・ディア・グレイス。
赤毛の少女、ローザリア家令嬢ジェルヴェール・ディア・ローザリア。
そして、あの黒髪の美少年。
なぜそんなメンバーに、自分のような者が加わっていたのか。
母も父もいない孤児。
名をジャックといい、家が無い故に姓も無い。
名前通りどこにでもいるような、冴えない子供だった。
すべての始まりは、修道院を運営するシスター・マチルダと、フィーネのお母上であるカタリーナ様の親交が深かったことだ。
カタリーナ様と一緒に修道院に遊びに来ていたフィーネは、出会うべくして出会った歳の近いジャックに笑いかけてくれた。
遠く見とれていたジャックは、笑いかけられるとどうしていいか分からず、
一回目は、逃げてしまった。
二回目は、恥ずかしくて、ただ俯いてしまっていた。
三回目は、いきなり走って来たフィーネに捕まって――友達になれた。
それからたまに遊ぶようになって、黒髪の美少年を紹介された。
黒髪の美少年は身分を気にせず、フィーネの友達として自分に接してくれた。
そして、新しく王都にやってきたジェルヴェールが仲間に加わった。
カタリーナ様に弟子入りして武の道へ進んだのは、自分も爵位が欲しかったからだ。
由緒正しい友達に囲まれた孤児。
子供ながらに負い目を感じていて、せめて〝ナイト爵〟が貰えれば、胸を張ってみんなと遊べると思った。
黒髪の美少年にそう言ったら「お前アホだろ。面白いからそのままでいいけど」と言って笑われたから、それ以来口に出すのをやめた。
今に見てろと心に誓っただけで。
そしてあの日、黒髪の美少年が言い出した、小さな冒険に四人で出た日。
夜の街へ胸を膨らませるフィーネを止めようとして、彼女に言われた一言、
「ジャックってつまんない。私、つまんない男って嫌い」
そう言われて、それ以上何も言えなくなった。
最愛の女に嫌われることを恐れて、最愛の女を守ることをやめたのだ。
事件については、考えてみれば当たり前の話。
服装を見れば、金持ちの子供であることは一目瞭然だ。
相手は身代金目的だったのだろう。
自らの額に受けた傷の痛みと、みんなを守るために動いた黒髪の美少年の雄姿が、今も記憶に強く残っている。
なんとか無事に王城に戻り、大人たちにこっぴどく怒られてから、ジャックはフィーネのお父上にお会いした。
〝剣聖〟ディルク・ディア・グレイス公爵。
当時、この国で一番恐ろしいと誰もが思っていた男だった。
振るわれた平手は閃光のようだった。
頬を叩かれた痛みと重さよりも、その強さと美しさに対して衝撃を受けた。
〝剣聖〟は言った。
「今回、貴様はたまたま娘を守れた。それはいい。だが、守りきれぬものをこれから守るなどと口にすることは、出過ぎた真似であると知れ」
痩せていたジャックは大きく吹っ飛んで倒れたが、すぐに立ち上がって〝剣聖〟に迫った。
「貴方はお強い。貴方なら私に、その言葉を口にする資格を下さることができる」
〝剣聖〟は、常に人の重心と動きを読み、その心に生じる隙を読むことに特化した瞳で少年を見て、言った。
「私は師には向かん。教えるならカタリーナだ」
構わない、と思った。
「貴方なら考えたことがあるはずです。剣は、どう折れることを恐れるか?」
少年の瞳の強さを、ただ見つめる強靭な瞳。
だが少年は怯まなかった。
「それは圧倒的な重さを持った斧に折られることではなく、錆びて朽ち果て、折れることです。戦いの最中を切り抜けるために鍛えたその身が、ただ錆びて朽ち果てることは耐え難い――初めから、鍛えもできぬというのならなおさらです」
それを聞いた〝剣聖〟は、僅かに遠くを見てから言った。
「ならば、フィーネとは距離を置け。女にうつつを抜かしている者に、我が剣は修められん」
ジャックは驚いた――
「フィーネを守るために強くなると決めた私に、彼女と距離を置けと仰るのですか?」
「嫌か?」
――眼前の男と自分の考え方が、こんなにも似ていることに。
「いえ、本望です。私が力を手にしたその先に、彼女の幸せがあるのですから」
緊張感に満ちた笑みを浮かべる、その幼い少年の言葉を聞いた〝剣聖〟の瞳に、明らかな失望の光が宿る。
「それならば、あれはどこかの貴族に嫁入りさせることになるが、いいのか? あれはお前のことを好いている。私は、あれの未来はお前に任せるつもりだったのだが、距離を置いてしまってはそれもなるまい」
ジャックは、胸の内をそのままに語る。
「私の望みは彼女を守ること。私以上に相応しい者がいるのならば幸いです。その手足となって彼女を守るために尽力しましょう。ましてや、今の私のような軟弱者が彼女と結ばれることなど――私には耐え難い」
〝剣聖〟は溜め息をつくような表情でその目を伏せ、
「……心得た。貴様は私の娘のため、婿になるはずだった男だ。それを台無しにした今の貴様は、私にとって未来の義息の仇のようなものだ。手は抜かんぞ」
これからの過酷な未来を映したその眼光に、ジャックは歓喜を隠せなかった。
「光栄の極み」
「幼いながらにその心根、今時珍しいものだ」
「今時珍しい方に憧れ、いつも遠目に拝見してきたが故に」
グレイス公爵の権限により、授かった〝シャムシェイル〟という姓。
八年前の記憶。
それから幾月かして王家暗殺失踪事件が起き、王と王妃が惨殺され、王子ヴァインシュヴァルツ・ロ・ドゥ・グレザリアが行方不明になった。
未だに師と仰ぐ〝剣聖〟は、ローザリア卿と手を組み、黒の騎士団を纏め国の防衛を図っているという。
師が領地である城塞都市へと籠りきりになるまでの間に〝剣聖の後継者〟の呼び名を得た少年は、青年へと成長し王都に残り、今連続殺人犯として巨大な牢獄で幽閉されている。
冷たい鎖に体温を奪われた手首足首が、痺れるように痛む。
重たい鎖は皮膚に食い込んで、骨と心にさらなる痛みを染み込ませてくる。
青臭く濁った空気はただ冷たく、絶え間なく全身を凍えさせていく。
孤独と暗闇に満ちた独房の中は前後左右上下の間隔を歪ませ、時間の間隔を狂わせ、永遠とも思える瞬間がこの心を狂気に染めていく。
どの道越えねばならぬ壁なら、この上ない鍛錬として受け入れよう。
胸を焼く後悔は、捕まってしまったことに対してのみ。
脳裏に浮かぶ疑念は、事の黒幕に対してのみ。
神に祈るのは常日頃から、修道院育ちである所以か。
この身この心ほど、安いものは無いのかもしれない。
この程度の代償で神に何かを願うことは、浅はかなのかもしれない。
もしそれで神の逆鱗に触れるというのなら、これから待つ未来永劫その罰を受けながら生きていこう。
だから今は、唯貴女の為に狂い咲き、あわよくばその未来に幸あれと祈り続ける。




