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幾千夜の誓いを君へ  作者: 月詠命
五章 絡める運命に踊る真心
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第43話 釈放




 冷たく湿気の多い濁った空気は、鼻と頭と肺を腐らせるようで、末永く最悪な気分をくれている。


 慣れて麻痺した鼻でさえ感じる瘴気というのは、どこの国でも監獄でしか味わえないものだ。


 腐りかけた藁の上で最悪な寝心地を感じながらも、ミラアは一人で一つの牢を独占できていることに安堵しながら、廊下の壁に幾つか設置されたランプの灯に揺れる石壁や天井を眺めていた。


 遠くで、既に聞き慣れた水滴が落ちる音が聞こえた。


 退屈で、不快な気分。


 時折聞こえる、他の牢にいる囚人たちの呻き声と独り言にも、すでに飽きが来ている。


 目を瞑り、つい昨日までグレイス家の屋敷で過ごしていた日々を思い出す。


 青空の下、陽光に煌めく噴水。

 草花の整えられた緑の庭園。

 白い壁に青い屋根が鮮やかな、優雅な城に似た屋敷。

 常時身を委ねた豪華な馬車。


 黒生地に青を織り交ぜたドレスに身を包み、ローザリア卿と手を取り合い踊った夜。


 王城の広大なダンスフロアで、ミラアは自分が社交界の主役になったような気分だった。


 目を開くと、暗い牢獄の天井。

 小さなランプの灯に揺れる部屋は、壁紙もないただの石造りで、所々に染みがついている。


 牢屋の中は狭く、人が大の字で横になれる程度の間取り。


 硬い石の床は冷たい水をふんだんに含み、敷かれた藁は魔術による熱風で乾かしたとはいえ、既に腐りかけた部分の感触が生理的不快感を呼び起こす。


 時折巡回に来る看守からの好奇の目線にも僅かなストレスを感じるものの、それでも流石は王都グレザリアの監獄だ。


 看守による囚人への暴行はまだ一度も見かけていない。


(ローザリア様ぁ、助けてくんないかなー)


 暇なあまり、胸中で呟く夢のまた夢。


 そんなはずはない。

 あの舞踏会だって、所詮ジェルヴェールに頼まれての招待だったのだから。


 考えれば考える程遠すぎる距離を実感するも、忘れられないあの笑顔。


 これもすべてカマイタチのせいである。

 むしろ、ヴァル・シュバイン。

 あいつか。


 とにかくこれでカマイタチの事件は片付いた。

 犯人が黒の騎士団という強力な組織であるせよ、これ以上関わりを持たないように努めることはできる。

 とにかく、後はこの国に来た目的を果たすだけ。


 その手段は未だに思いつかないが、今のゴタゴタが終われば光明も射すかもしれない。


 その時、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。

 三人分だとすぐに把握したそれは、硬い牢獄の中に響きながら近付いてくる。


 ルイーザから話を聞いたヴァルだろうか。

 或いは、国家権力を背景にした囚人虐待の予兆だろうか。

 いつかの記憶を想起し、顔をしかめる。


 冷めた瞳を天井に向けたままのミラアの耳に、格子のすぐ外まで来た男が聞き慣れない声で言った。


「釈放だ」


 開錠する音に、錆びた蝶番が動く音。


 視線を向けて見上げると、そこには見慣れない看守と、見覚えのある妖艶な青年、そして愛しい少女の姿があった。


「フィーネ!」


 フィーネとの再会。

 予想の範疇ではあったものの、それが実現したことに夢中になって、ミラアは笑顔で立ち上がる。


「ミラアさん、ごめんなさい……」

「ううん、それを言うのはフィーネじゃないよ。アンタだよ、アンタ」


 鉄格子の隙間からフィーネと両手を握り合いながら、ジト目で暗黒街の王を睨む。


「こっちも予想外だったんだ。ルイーザから聞いた時は驚いたよ」


 全く悪気を感じていないようなヴァルの言い訳を聞きながら、ミラアは鉄格子に設けられた狭い扉を潜って牢屋の外へ出た。


 ルイーザには感謝しているが、ヴァルには腹が立つ。


「あいつ何なの、一体。殺人犯が黒の騎士団だったから、逆に私が捕まったってこと?」


 ヴァルは冷静なまま、首を振った。


「奴の名はジャック・シャムシェイル。ミラアが捕まったのは、奴がミラアを襲ったという証拠も、奴が〝カマイタチ〟であるという証拠も無いからだ。つまり、ただ斬り合っていた二人の人物を捕まえた事件だということになる」


「はぁ?何それ」

 ミラアの瞳に苛立ちが浮かぶ。


「もちろん俺は事情を知ってるし、十中八九、奴がカマイタチだと思ってる。ただ、司法を納得させるだけの証拠が無い」


 ヴァルは言いながら、廊下をゆっくりと歩き出す。


 ミラアとフィーネは、長身なヴァルの後姿をゆっくりと追いかけるように歩いていく。


「とにかく、俺の証言とディア・グレイス嬢の口添えで、ミラアは無罪放免……これは当たり前だけど。ミラアが信用できる人物となった以上、奴が今回襲撃事件を起こした犯人であることはほぼ確定となり、投獄されたままになる」


 歩きながら話を聞くミラアに、ヴァルは続ける。


「まだヤツが〝カマイタチ〟であることが証明されたわけではないけど、俺はそうだと確信してる。だから依頼した〝カマイタチの投獄〟は成功だ。だから、契約金を払うよ。着いてきてくれ」


 何だか腑に落ちない話だとミラアは思ったが、契約金が支払われるのなら問題はない。


 それに、もともと社交界におけるフィーネとグレイス家の立場を人質に取られて、脅迫されたようなものだ。

 さっさと終わるに越したことはない。


 だいたいそのフィーネがこうしてヴァルと一緒にいるという状態も、フィーネがヴァルに関係を強要されているように見えてなんだか気に食わない。


 薄暗く広大な監獄の廊下を歩き、堅牢な門から外へ出ると、視界が――いや、五感が開けた。


 新鮮な空気が鼻腔と全身の肌を洗い、雑踏と人々の会話が耳に流れ込んで来る。

 そして青空の下に広がる明るい街と、観衆からの好奇の視線がミラアを迎えた。


 白昼堂々、娼婦にしか見えない格好で牢獄から出て来た女に、一体どんな興味があるのか。


 ミラアは気にすることもなくヴァルとフィーネに連れられて、御者付きの馬車まで歩いて行き、豪華な装飾の施されたキャリッジに乗り込んだ。


 娼婦のような姿をフィーネに見せられないと思った昨夜が懐かしい。


 牢獄に幽閉された様まで見られたのだから、服装などもう気にもならないし、何よりヴァルから事情を聞いているのだろうから、誤解される恐れもないのだ。


 ヴァルと対面するかたちでフィーネの横に座ると、馬車はゆっくりと発進した。


 既に顔を出している太陽の光がいくらか地面を温め、その熱が風に乗って人々を大きく撫でる時間帯。

 そんな都会の景色が窓の外を流れる。


「これが契約金だ」


 そう言ってヴァルに渡された小さな袋を受け取ると、意外にずっしりとした重みが手に伝わった。


 紐を解くと、中には数十枚の金貨が入っていた。

 Sランクハンターが死にかけて投獄されたにしても、充分な金額だと言える。


「ルイーザは?」


 ミラアの問いにヴァルは、


「彼女もミラアに会いたがってるよ。 ひとまず、これからまた酒場まで来てくれないか?」


 昨日、顔を合わせた酒場だろうか。


「うん、行くー」

 と言ったミラアの横で、

「ルイーザ?」


 二人の会話に聞き慣れない人物名が出たせいか、フィーネは不思議そうな顔をした。


 ヴァルは少し明るい顔で答える。


「今回、ミラアと一緒に仕事をしてもらった女性さ。ディア・グレイス嬢にもいつか紹介するよ」


「ふうん」

 ミラアの隣で、フィーネはどうでも良さげな返事をした。


 そんな二人を見ながら、ミラアは少し違和感を覚えた。


 暗黒街の王ヴァル・シュバインと、名門貴族令嬢フィーネ・ディア・グレイス。


 彼らには、ジェルヴェール・ディア・ローザリア嬢と親しいという共通点以上に、何か深い関係があるのだろうか。






「ミラア!」

「ルイーザ!」


 フィーネをグレイス邸に先に降ろして、ミラアとヴァルだけを乗せた馬車が停まったのは、やはり昨日訪れた酒場だった。


 店内に入るとルイーザが一人退屈そうに座っていて、ミラアを見るなり瞳を輝かせ、


「もーう、心配したわよー」


 笑顔で目に涙を浮かべながら抱きついてくる赤髪の美女を、ミラアは丸く柔らかい胸としなやかな両腕で受け止めた。


 柔らかいルイーザの身体を全身で堪能する。


「大丈夫だった?」

「うん、とりあえず着替えたい。肌に臭いが染みついちゃいそう」


「そうねー。ミラアからカビの臭いと死臭がするし」

「え、ほんとに?」


 ミラアの顔が蒼褪める。

 アロマ香水もグレイス家の屋敷に置いてきている。

 牢獄の臭いが染みついていることは充分に在り得た。


「嘘だよ、甘い花の香りがする(笑)」

「そんなわけないし!(笑)」

 笑顔で語る女二人。

 それを静かな笑顔で見守るヴァル・シュバイン。

 実にうさんくさい。


 ヴァルから差し入れされた紅茶とお菓子をつまみに、ルイーザと話に華を咲かせてから、ミラアは彼女とヴァルに言った。


「じゃあ、私グレイス家の屋敷に戻るよ。お風呂入って、着替えたいし」

「そうよねー。また遊びましょ」


 少し名残惜しそうに笑うルイーザに、ミラアは風のような笑顔を見せて、

「今度ルイーザの家教えてよ」

「うん」


「送ろうか?」

 と、ヴァル。

「え、いらない」

 と、ミラア。


 そんなやり取りと会釈を交わしてから、ミラアは二人と別れた。

 新市街地歓楽街にある〝月の見る夢亭〟から出て、一人まだ陽の高い青空の下へと歩き出す。




 

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