第33話 悠久にして憂鬱なる日々に
王都グレザリアを囲う市壁は、空から見下ろして二重の円を描くように健在する。
外側にある市壁は、街と街の外を区切る壁。
内側にある市壁は、旧リリス朝グレザリア王国時代から続く旧市街地と、人類の夜明け以降に開発された新市街地を隔てる壁だ。
最も、内側にある壁の門はすべて開いたまま固定されており、既にその役目を放棄している。
ただの歴史的残骸物である。
旧市街地と新市街地の違いは、その立地条件――王城に近いか街の外に近いかの違いである。
よって、古くから国や街の運営に関わっている建物は旧市街地に多く、物流など街の外と関わる建物は新市街地に多いという差異でしかない。
どちらであれ土地が限られている王都。そこには総数いくつの家屋が建てられているのだろうか。
人口五万人を超えるこの街の住人の大半は、大型木造集合住宅に住んでいる。
一戸建ての家屋は一階を工房とした職人や、一階で商いを行う物売りなどが住んでいて、その殆どは先祖からの財産として土地や家を受け継いでいる者たちだ。
貴族のタウン・ハウスでさえ、大型木造集合住宅のような造りになっていることからも、この王都で広い土地を持つことがどれだけ難しいかを物語っている。
そんな中で、罰当たりな程に広い庭を持った豪邸――グレイス邸。
庭園を流れる水、咲き乱れる花々。敷石さえ上質であることが一目で分かり、芝生の手入れにも抜かりが無い。
大きな建物や広大な室内、そして趣の深さ以上に、その住み心地は快適そのものだった。
すべての部屋の窓には高価な板ガラスが嵌め込まれており、空気の流れを遮断した状態でも、昼間は陽光が部屋を明るく照らしてくれるし、夜はシャンデリアに挿した大量の蝋燭を消せば、室内からも街の灯や空に輝く星や月を眺めることもできる。
壁や天井の壁紙、カーテン、絨毯などの質感や、布団の肌触りなども庶民が手にするそれらとは比べものにならない。
玄関ホールにある大階段は広く優雅で、昇り降りする度に胸が大きく膨らむような気がした。
二階に用意された客室のバルコニーからは、庭園の向こうに街が見渡せ、ミラアの感性を刺激する。
屋敷で振る舞われる食事も、港湾都市ジャスニーの高級料理店を遥かに凌ぐ味と豪勢さを誇っている。
王都グレザリアは西の内海や南北の森に近いため、食材の新鮮さにおいてもひけを取らない。
料理人の腕においては比較にならぬ程、グレイス家の食事の方が美味だった。
流れ者は元より市民はおろか、裕福な商人や由緒正しい騎士でも過ごせないような豪華な生活を、ミラアはフィーネの恩恵で送っていた。
いつまでもこうして生きるつもりは毛頭ない。
いつかは自らがこの街へ来た使命を全うするために行動を起こすのだと思いつつも、ミラアは甘い夢のような日々に酔っていた。
豪勢な生活を好む性分ではない。
紫色の瞳、その視線の先で微笑むフィーネとその母カタリーナの姿。
それがミラア・カディルッカの心を掴み、引き留め、同時にその背中を押していく。
それでも踏み込めないでいるのは、己の弱さ故か。
甘い夢のような、だが限りあるであろう時間。
二階にあるに客室に備えられたバルコニー。
優雅なデザインの白い手摺りに両腕を預けたまま、青々と光る庭園と、その中央で陽光を踊らせる噴水を眺めながら、先日フィーネとレストランに行った時のことを思い出した。
隣のテーブルで数人の男女が語らっていたその話を、ミラアが聞いたのは幾度目だっただろう。
今、人々が話題にする噂は二つあった。
一つは、先日ヴァル・シュバインからも聞いた連続殺人犯〝カマイタチ〟の噂。
王都は治安が良く、殺人事件自体が滅多に起こらないことに加えて、その手口が武芸者ならば一度は夢見る〝一刀両断〟
そして、その切り口が異様に流麗であることに加えて、被害者の数が十人を超えるというのだから、話題に上がるのも当然だろう。
さらに、被害者である女性達は、共通〝あの〟シュバイン商会に属する街娼たちである。
その上で、強盗目的でないという特徴があるのだから、動機がまずよく分からない。
未だに犯人が見つかっていないことから、様々な考察がされていた。
〝対抗するマフィアの暗殺者〟
〝腕利きな鍛冶屋の試し切り〟
〝買春に失敗した軍人の八つ当たり〟
〝貴族の息子による犯行、だからまだ捕まっていない〟
といった在り得そうなものから、
〝殺され、死体が見つかっていない王子がゾンビとなって夜な夜な行っている〟
〝旦那の浮気に怒った女の怒りの矛先が街娼に向かった〟
などといった冗談めいたものまで、様々だ。
犯人も単独犯説や複数犯説があるそうだが、ミラアにはどうでもいい話だ。
そして、二つ目の噂は――この国が、戦争になるということだ。
(戦争、か……)
今は亡き、クラーラの姿が頭に浮かぶ。
国の在り方について、彼女と意見をぶつけたことがあった。
ミラアは戦争に備えているべきだと主張し、クラーラは戦いをやめてそれぞれの国がそれぞれの領分を守って過ごすべきだと主張した。
今なら、また語り合いたいと思う。
共に過ごす時間が短すぎたのだ。
或いは、もっと彼女に対して心を開けば良かったのかもしれないと思う。
フィーネがそうしていたように。
この屋敷で時間がゆっくりと流れている間にも、キアラヴァ王国を筆頭に、人類王国連盟は戦争の準備をしているのだろう。
このグレザリア王国も。
街道ですれ違った、ジャスニーへ向かう黒の騎士団。
城塞都市ゴートンに溢れる傭兵たち。
そして、まだ平和だった幾つかの街が脳裏に蘇る。
そして、遠い記憶――燃える街の姿も。
だが、このグレイス邸で過ごしていると、そんなことが杞憂なのではないかとさえ思えて来てしまう。
それ程に満たされた生活。
黒騎士たちに護衛され、メイドたちによって運営される楽園。
ここで過ごす日々に、危機感が消失していく。
最も、それでいいかもしれないとも思う。
この国のすべてをもってしても、人類王国連盟に対抗することなどできないのだから、戦争に備えること自体が無意味であるという意味で。
連盟内で、他国に認められないが故に起きている現状。
七年前に起きた王家暗殺事件も真相は謎に包まれたまま、連盟による粛清によって、偽りの王が支配するこの国は滅びへと向かっていく。
「愚かなる人々の上に君臨する者よ。君は君がその足で踏みつけ、その目で見下している者たちと変わらぬ浅知恵しか持たぬことに気付かない。否、気付くことが恐ろしく、逃げているのだろう。君一人には、君の国を支えるほどの力などないのだから……」
戯曲〝魔王〟に出てくるフレーズを口にする。
〝竜殺し〟の逸話を持つ男、キュヴィリエ・ディア・ローザリア卿。
彼は〝剣聖〟ディルク・ディア・グレイス公爵と共に、大戦の準備に取り掛かっているという。
勝てるはずが無い――その確信から思えば、この国を支配している人物も、他国と共存するという意味での〝国を支配する〟器ではなかったということだ。
(もし、彼と接触できたら・・・・?)
その時、背後――部屋と廊下を繋ぐ扉からノック音が聞こえた。




