第20話 現実に目覚めて
長かったようで短く感じる、そんな日々だった。
始まりは、屋敷で教師から聞かされた話である。
人類王国連盟は、〝王不在の王国〟であるグレザリア王国に対して、粛清を大義名分とした侵略戦争を仕掛けるつもりでいるという。
一方、島国であるグレザリア王国は、他の三国が繁栄する大陸と、海という壁で仕切られているため、戦争においてそこが強固な防衛線になる。
豊かな国土は食料の自給自足を可能にしており、島全体で〝立て籠もる〟ことさえできるのだ。
かつて女王リリスが築いた、ジャスニーを含む東海岸沿いの軍事拠点は、今も元来の機能を失ってはおらず、黒の騎士団たちが着々と派遣されている。
彼らが、それぞれの都市に配備された常備軍や傭兵部隊と共に、王国連盟から侵略してくる敵軍を海上にて迎え撃つのだ。
聞く話では、早くて来年にはキアラヴァ王国の軍備が整い、グレザリア王国に侵攻を始めるという。
暗黒時代以前から、女王カーミラが支配した旧キアラヴァ王国と、女王リリスが支配した旧グレザリア王国は熾烈な戦いを繰り広げていたというが、この二国の仲はその担い手が人類に代わったところで変わりないらしい。
国全体が軍備を整えている中、グレイス家の令嬢であるフィーネも国を想い背負い、その身を以って敵国と戦う覚悟でいた。
しかし、父母から与えられた任務は自分の思っていたものとは大きく異なり、戦後のグレザリア王国繁栄に備えて商いを学ぶということだった。
その内容はどう考えてもフィーネを戦争から逃がすためのものだったが、それが命令である以上騎士として全うするのが宿命であると彼女は考えた。
それから夜な夜なフィーネの頭によぎるようになったのが、幼い頃から母に聞かされていた〝銀の魔女〟ラミア・キカーヴァの話だった。
自由と保身に走ること――騎士にあるまじき命令に対する受け入れは、心の底に根付いていた憧れを強く思い出させたのだ。
そして、初めて己の身一つで王都を離れた。
グレイス家の身分を隠した上で、ハンターとして戸籍を登録。
隊商の雇用試験をクリアし、王都からジャスニーへ向かう内海特産魚介類の冷凍輸送隊商の冷凍士兼護衛として雇われたのである。
そうして辿り着いた港湾都市ジャスニーは、ただ美しかった。
来たことが無いわけではない。
だが、父母や従者たちは勿論のこと、共に街へとやってきた隊商とも別れ、たった一人で過ごす時間が新鮮だった。
広大な青い海はまるで果てしない空を映したようで、絶景から吹き抜けた潮風は胸に宿ったわだかまりを払ってくれた。
そして、憧れのハンターを連想する、ミラア・カディルッカとの出会い。
貴族令嬢として、その繁栄を耳にしていたシュバイン商会の隊商。
実物のフェイ・ミルバーンとの会話。
生まれて初めて実物を見た、魔獣との戦い。
ミラアとクラーラを含む隊商全員で、今日までこなして来た仕事の数々。
ここ数日間の記憶が、自分の人生すべてを飾ってくれるような気がする。
幼い頃に見た夢が、今叶っていると言えるのだ。
南北に広がるオークやブナが生い茂る白い森の向こうに、標高の高い山脈が見える。
王都グレザリアからいつも見えていた景色。
故郷が自分を待っているのだと思うと、胸が熱く高まった。
成長するにつれて忘れていった、安心できる何かを恋しく思う気持ちが急に込み上げてくる。
脳裏に母の顔が思い浮かんだ時、
「フィーネ」
張り詰めたミラアの声に、現実に引き戻された。
「上」
言いながらミラアは独り立ち上がると、目にも留まらぬ速さでバリスタのハンドルを回して弦を引き絞っていく。
手を動かしたまま周囲を見て舌打ちし、強く叫んだ。
「敵だよ!」
張り詰めてなお美しい声は、歌手の叫びに似ていたと思う。
思わぬ敵襲に慌てて立ち上がったフィーネはすかさず空を見上げるが、真昼の太陽に目が眩む。
全身に走る戦慄と危機感に駆られ、目を潜めて指で陽光を遮ると、視界を白く焼く太陽の隅で、遥か上空に小さな影が幾つも飛んでいるのが確認できた。
鳥と間違えそうなそれを、しかし敵なのだと判断して、とにかくバリスタのハンドルを回して弦を引き絞ることに専念した。
ミラアの一声に呼応して周囲からどよめきが上がる中、再び彼女の声が響く。
「真上!竜種だよ!」
鋼の皮膚と炎の息を併せ持つ最凶の魔獣の名に、クラーラの表情が凍る。
それを尻目に、ほぼ真上に傾けたバリスタの引き金を、仰向けに寝転ぶように構えたミラアの白い指が握るように引いた。
空気を強く打つ音が響き、大矢が放たれた。
遥か上空で目標に命中したのだろう。
高空から落下し地面に激突した目標が立てた音は、重たい破裂音に似た表現し難いものだった。
全長何メートルなのか、フィーネには判断ができない。
とにかく巨大な褐色の蛇と蝙蝠の羽根のようなものが空から降って来て、街道から僅かに離れた草原に墜落したのだ。
そのまま爆ぜるような勢いで暴れ狂う。
陸地に打ち上げられた活きのいい魚のようにも見えるそれを、フィーネの頭はイマイチ理解できないでいる。
唐突な出来事に置き去りにされたフィーネの意識は、その無力な全身を動かすことさえ忘れていた。
だが、現実は止まらない。
呆然とする視界の中で、今度はハッキリと見えた。
褐色の巨大な飛竜が上空から急降下してきて、すぐ前の幌馬車の向こうに姿を消し、再び上空に昇っていくのを。
明らかに魔術の類だろう――異様な突風が、街道の荒い砂を巻き上げる。
巨大な飛竜の身体が軽やかに空を舞っている絡繰りを、唖然とした意識の隅で理解した。
飛竜の強襲において、行きと帰りとの違いはただの一ヶ所。
帰りはその口に人間を一人咥えていたことだけだ。
こと切れたのか虚を突かれて現実を把握できていないのか、首を支点に全身を靡かせたその若い女は、どちらかと言えば人形のように他愛ない物に見えた。
隊商のあちこちから、一気にバリスタの大矢が飛んでいく。
集団ヒステリーにも似たそれらは、まず草原の上で暴れまわる個体に降り注いだ。
トドメを刺すという目的意識より、まだ生きている身近な脅威に恐れをなしての行動。
放たれた無数の大矢の数割が、褐色の目標に命中していく。
マンティコアの巨体をも貫通する人類最強の一撃たちは、大地に落ちてなお力強く暴れ狂う飛竜の鋼の鱗を物ともせず、その身体のあちこちを貫くものの、致命傷には至らない。
マンティコアより細長い上に激しく暴れる体には、そもそもバリスタが命中しづらい。
生命力溢れる大型爬虫類が、魔を宿したという規格外の怪物。
その命の炎はそう容易く奪えるものではない。
「フィーネ、周り見て!」
ミラアの声に、フィーネは我に返る。
そうだ、ここで一匹の敵に気を取られていたら、上空から来る敵になど対処できない。
〝高貴なる者の責務〟
フィーネは自らの信条を心に刻み直し、弦を引き絞ったバリスタに大矢を装填。
魔力を宿した少女の青い瞳が捉える、空を飛び回る数多の飛竜たち。
それは、やはり巨大なトカゲだと思った。
その身体は小型の蛇のように、素早く柔らかくしなやかに動き、そのせいか在るべき重量を感じない。
同じく長い首の先にある頭は、二本の角を生やしたやはり竜の頭だった。
意思の見えない両目の下、嫌に大きく開いた真っ赤な口に並ぶ歯は、鋸というより短剣を並べたような鋭利な歯だ。
前脚だとされている蝙蝠に酷似した羽根は、フィーネのイメージよりもずっと生々しかった。
骨と皮で出来たそれが巨大な手のようにも見え、生理的に拒否感を覚える。
そして、剣を通さず魔術を弾くとされる、全身を覆う鋼の鱗。
当然だが言葉など通じず、話し合える相手でないことが絶望感に拍車を掛ける。
全長は十メートル強か。二十メートルはないだろう。
動いているせいでよく分からないが〝ドラゴン〟の名を冠する大型種でないことは明白だ。
この大空に、掃いて捨てるほど生息するという〝ワイバーン〟と呼ばれる小型種である。
しかし、今実際に対面しているこの竜種は、小型であっても充分に巨大だった。
(射程内なのに!)
空を駆ける飛竜。
素早く滑らかで細長いその体に、大矢を命中させる技量を持ち合わせていないフィーネは、胸中で舌打ちをした。
例えば、数メートル上空で停滞してくれたら、自分でもバリスタを命中させることができるのだ。
(動きさえ、止まってくれたら……)
そう思った時、突如上から流れ込んできた暴風に、唖然とする意識が吸い込まれる。
さぞ間の抜けた顔になっていただろう、見上げた視線の先には強風を撒き散らしながら空中に停滞した一匹の飛竜の姿。
距離はフィーネから十メートルほど。
舞い上がる砂埃に目元をしかめつつも、眼前に舞い降りた本物の飛竜に、バリスタの標準を合わせることができない。
脚が竦むとはこのことか。
まるで脚の動かし方を忘れてしまったかのようだった。
痺れるような寒気だけが少女の下半身を支配している。
見上げる少女の瞳に映る光景。
こちらを見る飛竜の心無き眼の下、その口から燃え盛る炎の息が溢れ出るのを確認して、恐怖と共にただただ視線を奪われる。
(私、死んだ――)
そう胸中で呟いた瞬間、炎を吐くために動きを止めていた飛竜の眉間に、一本の大矢が突き刺さった。
正確に頭を貫かれた魔獣は、全身の力を一気に抜いて大地に落下、そのまま肉塊となって草原に崩れる。
隣を見ると、ミラアが大矢を撃ったばかりのバリスタを構えていた。
「ごめん、予定が狂った」
初めて苦い表情をフィーネに向けながらそう言ったミラアは、再び上空を睨み上げる。
そんな女ハンターの姿に、フィーネは頼もしさを超えた何か感じた。
だが、天空から降り注ぐ逆光の向こうから踊りかかって来る飛竜たちはまだまだいる。
他の戦車から発射された数発のバリスタの大矢をすり抜けながら隊商へと接近し、御者や護衛の胴体に腕ごと噛みついて、その身体を空へと攫って行く。
巨大な口で噛みつかれた時点で、餌は既にこと切れているかもしれない。
〝自分でなくて良かった〟
騎士としてあるまじきそんな想いを恥ずべきものだと思うことも忘れて、フィーネはバリスタを構えて空を睨んだ。
百聞は一見に如かず――これまでに聞いたどんな話よりも、過去のどんな体験よりも恐ろしい飛竜の群れ。
絶望的な光景を前に、フィーネは只全力を以って挑もうと心に決めた。




