第1話 ガール・ミーツ・ガール
〝大陸〟の北西部に栄えるキアラヴァ王国と、そのさらに北西に位置する島国グレザリア王国。
この二国は、最短地点でおよそ三十数キロの幅しかないジャスニー海峡を挟んだ近隣に位置し、古来より壮絶な戦争を繰り広げてきた。
かつて軍艦が行き来していたその海峡には、今は貿易船が行き来しており、両国の繁栄に貢献している。
グレザリア王国は、東西に並ぶ二つの大きな島を主な領土とした国であり、東にある島の名をグレゼン島という。
そのグレゼン島の南東海岸――グレザリア王国領内において、最もキアラヴァ王国に近い海岸に栄える港湾都市ジャスニーは、海路と陸路を結ぶ交易拠点として大きく発展している港街である。
この港は、海岸沿いに続く高さ百メートルを超える白亜の断崖の〝切れ目〟にある低地に位置し、断崖の上には大灯台が聳え、さらに小高い丘の上には古い城塞が健在していた。
頑強な石造りの城郭と、敵の侵入を拒む小さな窓が、室内の採光と風通しを悪化させ湿気を籠らせたためか。
或いは二重に張り巡らされた城壁が、外界との出入りを困難にさせたためか。
生活に適さない古城は、平和な世に取り残され廃墟となって佇んでいる。
それらが見下ろす海辺の街は、コンクリートと煉瓦によって美しく飾られ、海岸に沿うように広がっていた。
海鳥たちが飛ぶ青空の下、明るく澄み切った大海原の向こう側には、キアラヴァ王国側の港湾都市が見える。
そんな港湾都市ジャスニー。
数多く並ぶ煉瓦造りの建物の中には、多くの宿泊施設があり、その中の一軒。
少し年期が入ってはいるものの、どこか暖かみを感じる宿屋の一階にある食堂。
この宿に宿泊している十人ほどの客が、賑やかに昼食をとっている。
その中で、一人の若い女がムール貝のスパゲッティをフォークに巻き付けていた。
サラサラと揺れる長い銀髪に、雪のように透き通った白い肌。
その風貌は、高価な貴族の人形よりも美しく、紫色の瞳は冷たくも真っ直ぐに目の前の食事に向けられていた。
ここジャスニーは、海の幸とあらゆる交易品に恵まれた街で、多くの食材が売買されている。
加えて、隊商を構成する商人たちや、その護衛であるハンターたちが宿泊するため、彼らに販売する商品として食文化が発達したことは至極当然であると言えた。
ただ、余所者が多く出入りする街では、自らの評判を気にしない者たちの比率が増え、街全体のモラルが低下するものだ。
このジャスニーも例外ではない。
「よう、姉ちゃん」
銀髪の女に声をかけたのは、見るからに柄の悪そうな男二人組だった。
どこの国の何に憧れたのか、頭にターバンを巻いていたり、ややマッチョで悪人面だったり。
腰の剣が幅広で歪曲していたりと、ある意味伝統的な二人組である。
その片割れが、常に不機嫌そうな顔を上機嫌に歪めて、ドスの効いた声で訊ねた。
「その恰好、ハンターだろ?」
銀髪の女は、街の女性にしては明らかに動きやすい軽装に身を包み、腰には二本の異国剣を差している。
さらに薄手のマントを羽織って、皮の袋を机の下に置いているとなれば、流れ者であることは一目瞭然だ。
「俺らはブルガディス兄弟! なぁ姉ちゃん、悪いことは言わねぇ、同業なら俺らが守ってやるからよ、仲良くしようや!」
周囲からどよめきが走る。
「ブルガディス兄弟……Aランクハンターの……」
ハンターは、隊商の護衛として認識されがちな職業だが、その実態は商人に雇われる傭兵のようなものである。
かつて、人に仇成す獣を恐れた領主などに雇われた狩人たちが、その発祥のルーツだとされ、今では民間のあらゆる分野で活躍する職業だ。
多くの危険が伴う荒事専門な生業であるが故に、ハンター同士のモラルは低く、男女がお互いに利用し合う関係も頻繁に生じる。
こうした〝出会い〟も、さほど珍しくない光景だった。
「大丈夫でーす」
見向きもしないままそう言って、女はフォークに巻き付けたスパゲティを形のいい口に含んだ。
口の中にムール貝とブイヨンの旨味が広がり、絶妙にブレンドされた塩とスパイスが甘い刺激を引き立てる。
銀髪の美女の脳裏に、ジャスニーの青い海を撫でる潮風、さらに水面を走る巨大なスパイス貿易船が思い浮かぶ。うん、でりしゃす。
「はッ、阿婆擦れが……」
不機嫌と軽蔑を顕わにしながら言い捨てると、ブルガディス兄弟は女に汚れた視線を投げ捨てて離れていく。
「兄貴ィ、あの女どう?」
「おう」
向こうから聞こえる野暮な会話など、銀髪の女ハンターにはもう聞こえていない。
食べられない粗悪肉団子よりも、食べられる肉である。
女は巨大なウインナーソーセージをフォークで突き刺すと、しなやかにナイフで両断した。
それを薄い唇の間から覗く白い歯の間に挟んで軽く噛むと、温かい肉汁が口の中いっぱいに広がっていく。
至福の瞬間に脳が溶ける。
一人食の桃源郷に浸る美女を除き、食堂の視線は二人組のAランクハンターの動きに集まっていた。
ハンターは、積み上げてきた実績に応じて、EからA、さらにその上にSという名称でランク付けが行われている。
上級ランクとされるBランクを凌ぐAランクハンターは、雇わない依頼人はいないと言われるほど信頼が厚い資格である。
ハンターにおいてランクとは、クライアントを裏切らないという信用度と同時に、その実力を示す目安になるからだ。
その認定はハンターズギルドによって行われ、支給される指輪が戸籍としても扱われるため、ハンターたちはその身分を証明することができる。
ちなみに、Aランクハンターのライセンス・リングは、この兄弟の指の輝きが示すように黄金でできている。
食堂の空気を肩で切る二人組は、新しい獲物に声をかけた。
「おい姉ちゃん、新人だろ? 俺らが優しく守ってやるよ」
品のいい顔立ちの、美しい少女だった。
ハンターらしい軽装に身を包んでいるものの、明らかに年期が入っていない。
その表情からも礼儀正しさと律義さ――この場合、最もカモにされやすい人格――が読み取れる。
こうした新人の女ハンターは、業界の振る舞いを心得ていないため、悪意のある者たちに利用されることがよくある。
それは言うなれば洗礼であり、自分が女としてどう振る舞うべきかを身に付けるための通過儀礼だ。
誰も首を突っ込もうとはしない。
「え、あの……、いえ、いいです、私……」
明らかに困惑している少女に、ブルガディス兄弟は野太いハスキーヴォイスを発しながら、極めて漢らしく迫る。
「大丈夫だてぇ、姉ちゃん一人じゃ危ねぇだろー。俺らが守ってやっからよー」
「姉ちゃん、この業界のルール知らねぇだろ? 知らねぇとこの先困るぞ?」
「え? ルール……ですか?」
「おうおう」
何の業界でも、新人は業界のルールを知らないことが多く、そこに漬け込む隙が生じる。
銀髪の女ハンターは、ハッキリ言って他人事に対して関心がなかった。
特別縁の深い者でなければ、たとえ困っていても助けることはない。
いちいちそんなことをしていたら身ももたない上に、むしろ騙されカモにされることさえある。
この世の常識である。
しかし、銀髪の女ハンターはその少女にふと目を向けた。
背中まで伸びた艶のある栗色の髪には、柔らかなウェーブがかかっている。
顔つきは精悍で清楚。
椅子に座るその姿勢は、まだ二十歳に満たぬであろうその風貌に不釣り合いなほどに美しく、まるで名門騎士の娘のような雰囲気を纏っていて、服装の素材も高価であることが見て取れる。
澄んだ青い瞳には、男たちに対する警戒と困惑の色が顕わに映っており、上手く対応できないことは先程からのやり取りを見ていれば明白である。
銀髪の女ハンターはその光景をしばらく見ていたが、すっと席を立ちあがって口を開ける。
「ハンター業界のルールってゆーのはねー、弱くて頭の悪いヤツは食われるってこと」
柔らかく、それでいて芯のある、よく通る声が食堂に響いた。
視線が集まる。
銀髪の女ハンターは、優雅かつ堂々とした足取りで少女の席の近くまで行くと、明らかに体格の違う男二人を間近に見上げて言った。
「あんたたちさ、しつこいって知ってる?」
「あ? てめぇに関係ねぇだろ」
一人の男が凄味をかけるが、銀髪の女ハンターは涼しそうな笑みを浮かべて、
「目障りなんだよねー、食事中にあんたたちみたいなのが視界に入ってると」
明らかな挑発に、食堂全体が固唾を飲んだ。
なんちゃら兄弟の片割れのこめかみに血管が浮かび上がる。
「おい……」
細身の女だ。
ハンターをやっていることからすれば、腕は立つのかもしれないが、ここは法によって統治された街の中だ。
獣人以外の亜人、或いは人間を殺傷することは、グレザリア王国の法によって重罪と定められている。
よって、こうした街中でのトラブルでは、即殺人罪に繋がる剣術や魔術よりも、素手での喧嘩が物を言う。
そして、この女がたとえ何者であったとしても、腕力なら決して負けはしないだろう。
共に幾度も修羅場を潜り抜けた兄弟は、二人同時にそう考えた。
だが、女ハンターは涼しい顔をして、
「弱くて頭の悪いヤツらは、隅っこで大人しくご飯食べてな?」
優しく同情するような女ハンターの口調に、ブルガディス兄弟の顔がいきり立つ。
片割れが、女ハンターの胸元――形の良い膨らみを隠す衣服を掴み、上へと軽く力を入れた。
くびれた白いウエストと小さなヘソが顕わになり、健康美そのものである長い足が宙に浮く。
「あんたさぁ」
片手で持ち上げられた状態のまま、女ハンターはしなやかな手を伸ばし、男の顔面を掴むようにして指先をその眼球へ軽く抉り入れる。
「うおっ!」
男は女ハンターから手を放して仰け反った。
床に着地する女。
その整った顔目がけて、すかさずもう一人の男が大きく拳を振る。
迫る男の右拳をしなやかな腕で受け流すと、女ハンターはそのまま相手の手首を両手で捩じって関節を極め、相手の体を虚空で半回転させた。
男は宙を華麗に舞い、勢いよく床にキスをした。
関節は極めたまま離さない。
「さあ、どうする? Aランクハンターさんたち」
女ハンターは、腕を極めて床に倒した男と、眼球を突かれて涙を流している男に冷たく微笑んで訊ねた。
周囲からは感嘆の声が響く。
「て……めぇ……!」
「ふうん、元気だねー」
女は表情を消して、男の関節を捻る力を強めた。
男が一瞬青ざめて呻き声を上げる。
あと少し捻るだけで、肩が脱臼する。
「お互い仕事に使う身体を、こんな小競り合いで削りたくはないでしょ? 私は、アンタたちがその子にしつこくしなければいいんだから」
女ハンターは横から少女の視線を感じ、兄弟の頭にはAランクハンターという資格と実績がよぎる。
関節を極められて青ざめたのも、骨折や脱臼によって仕事に支障が出ることを恐れたにすぎない。
そもそもここまで実力のある女だとは考えていなかった上、あまり悪評を広げてはAランクハンターと言えども仕事がなくなる。
名が売れている程に噂は広がるのだ。
これ以上争いをエスカレートさせれば、明らかにリスクの方が高くなると言えた。
眼球を指で突かれて涙を流している男が、鼻血を流して床に倒されている相方に視線をやり、手で合図を送る。
二人から殺気が消えたのを確認すると、女ハンターは男の手首を離した。
「あんた、何者だ?」
解放された男が立ち上がり、痛む肩を撫でながら訊いた。
強さに生きる者たち故に、強い者には一定の敬意を払うのかもしれない。
銀髪の女ハンターを見る目は、すでに真摯なものに変わっている。
色気の漏れる紫の瞳が、友人を見るように男たちを映し、
「ミラア・カディルッカ。またどっかで会ったらよろしくねー」
銀髪の女ハンターは、緊張感の無い、甘く涼しい笑顔で答えた。