第18話 銀色を睨む疑惑
この世界には〝街灯〟というものがある。
夜の街を照らすための公共の灯で、建物の壁や道の脇に並べた柱にランプを吊るし、反射鏡によって下向きに光を集めたレヴェルベール灯と呼ばれるものが一般的だ。
もちろん満月の光ほどに視界を照らしてくれはしないものの、月の見えない夜や建物の影などを照らしてくれるのだから、夜道を歩く者にとってその恩恵は計り知れない。
王都やジャスニーなど特に発展した街で見られるものだが、ゴートンでは見かけることがなかった。
理由は簡単で、維持費の問題である。
毎晩大量の燃料を消費することになるのだ。
多くの街では、財政を傾けてまで夜道を照らすメリットが無い。
そんな高価な街灯を、ふんだんに並べた大通り。
一階部分を石材で造り、二階部分を木材で造ったハーフティンバー様式と呼ばれる家屋で構成される街を、ミラアは一人歩いていた。
もう月は高く昇っているというのに、無数のレヴェルベール灯に飾られた街は暖かく、まだ多くの人たちによって活気づいている。
敷石を綺麗に並べた大通りには多くの男女たちが談笑をしながら行き交い、道沿いに並ぶ店の窓からは光が漏れ、その前には美しく着飾りながらも肩や脚をはだけさせた女たちが並んで、道行く男たちに声をかけている。
あらゆる光に満ちた街はまるで祭の夜のような明るさで、天空に瞬いているであろう星々が息を潜めている。
まだ円を大きく崩していない月でさえ、ここから見上げると遠く小さな光に過ぎない。
(クラーラが言ってたっけ。この街でスパイスを卸すって)
通りを歩きながら窓から見える店内に目をやると、並んだテーブルの上に酒が入っているであろう木のカップと、皿に盛られたツマミのようなものが見えた。
きっと、その味付けにもスパイスが使われているのだろう。
クラーラは、軍事費用を抑えることで、街が活性化すると言っていた。
それはミラアも知るところだ。
もし、今グレザリア王国に戦争の恐れが無ければ、この街は確かに楽園なのだと思う。
通りを歩く男女たち、春をひさぐ女たち。
その顔は明らかに活気づいていて、人生を謳歌する確かなエネルギーのようなものを感じる。
〝生まれて死んでいくのが人生ならば、その価値は死に還るまでに覚える快楽にしか無い〟
戯曲〝魔王〟――暗黒時代の終焉を語る歴史的事実に基づいてつくられた物語の中で、旧キアラヴァ王国の女王カーミラが言う台詞だ。
極論ではあるかもしれないが、一理あると思っている。
満ち足りた、より充実した生活。
この街の様を見ていると、夕方クラーラやフィーネが言っていたことも分かるような気がした。
つまり、戦争よりも繁栄に重きを置いた街こそが、これから人類が目指すべきものなのだと。
流し目に映る夜の街は、儚い夢のようなものだと思う。
今笑う者たちも、明日は見えないからだ。
だが、かつてそんな光景を愛おしいと思ったことがあったのも確かだ。
そんな感慨に浸りながら歩いていると、前の方から浅黒い肌の巨体が歩いて来るのが目に留まった。
その眼光は鷹のように鋭く、その身体は岩よりも強靭なのではないかと錯覚してしまう。
重心は極めてバランスがよく、自然体でもその気迫が全身の筋肉を活性化させているように見える。
背中に一振りの大剣を背負った男は、シュバイン商会の隊商隊長、Sランクハンター・フェイその人だった。
人の流れを割るその視線と、ミラアの視線が交わる。
向かい合う距離はすぐに縮んだ。
立ち止まり対峙する二人は、どこか好敵手と向き合う競技者にも似て。
「こんばんは」
銀髪の女ハンターの不敵で嫌味のない風のような微笑が、夜の街並を背景に変える。
大男は僅かに間を置いて、太く良く響く声で言った。
「相方の娘は一緒じゃないのか?」
意外な質問。
この武力と貫禄の結晶みたいな男が何を言ったところで、ミラアにとっては意外に感じるのだろうが。
「フィーネ?うん、もう休んでるよ」
「……お前は何をしている?」
「この街に見応えがあるからさ」
紫の冷めた瞳が夜の街を映す。
活気づいた街。
その割に、極めて平和な街。
自分の人生観が揺れる、衝撃的な絶景。
それに対してフェイは一言、
「……観光か」
「気楽に言うね?」
ミラアは顔をしかめた。
「万人の目に等しく映る物は無い。この街がお前に何らかの感慨を与えるのも、観光という言葉が気楽だと感じるのも、お前の目に映る世界に過ぎん」
「……何が言いたいの?」
ミラアはますます顔をしかめた。
「俺は、お前の〝観光〟を気楽に言っているわけではない」
「――ああ」
ミラアを頭幾つ分も見下ろす筋骨隆々な体躯は、それだけで渡り合える相手が限られる。
さらにこの大男の重心は極めて安定していて、一つ一つの動きに無駄が無い。
よく洗練された武人の動きである。
体格の劣る者が武術を極める例は多いが、大男ほど武術に秀でる例は少ない。
それはそもそもの実力が高いため、そこまでストイックに自らを鍛え上げ続ける必要がないからだ。
鍛えなくても既に強いが故の〝不必要性〟。
その点、この男は一体どんな怪物を相手にしようとしているのか。
そんな疑問さえ浮かぶ厳しい男の生き様が、その全身から肌で感じられる。
そんな蛮勇を全身で語る大男が、ミラア・カディルッカという一つの人格とその視点を尊重しているのだ。
ミラアはそれを理解した。
ミラアは同じ質問を返す。
「貴方は何してるの?」
「商談の帰りだ」
「スパイスの?」
「ああ」
ルイーザが言っていた話だろう。
「ふうん。高く売れた?」
ミラアの無邪気な笑顔を見ながらも、フェイの表情は変わらない。
「それなりにな」
「そっか」
「……」
ひとまず会話が終わり、二人が無言になると、思い出したかのように周囲の音が大きくなったような気がした。
街灯に暖かく照らされた街並。
店が並ぶ道を行く人々。
それを背景に、フェイが再び口を開く。
「フィーネ・ディア・グレイスはお前が守れ」
「!」
「あの娘の安全は、積荷すべての価値を超える」
「……は」
ミラアは僅かに目を細めながら笑みを浮かべた。
〝フィーネ・ディア・グレイス〟
ハンターライセンスに刻印された名前ではない、貴族であるフィーネの本名。
「……知ってたんだ?」
フェイは表情を変えぬまま淡々と言う。
「シュバイン商会は、ローザリア卿の恩恵を頂いて商いをやっている。護国卿の側近であるグレイス公爵、そのご令嬢のお顔を知らぬはずがない」
クラーラが語った商会の元締め〝ヴァル・シュバイン〟なる人物は、ミラアが思っているよりローザリア卿に近しい者なのかもしれない。
「なるほどねー」
夜の風に声を乗せる。
「お前は腕が立つ上に、どこか信用できるからな。王都まではグレイス嬢を守ると踏んでいる」
「……そりゃどーも」
ミラアは視線を遠くに向ける。
照れ隠し。
「……お前の目的はなんだ?」
フェイの瞳に強い光が宿る。
「目的?」
ミラアはあくまで涼しそうな眼差しを隊商の隊長に向けて、訊き返した。
「とぼけるな。貴様がごく最近、キアラヴァ王国から海を越えて来たことは分かっている。キアラヴァにいて、この国の現状を知らぬはずが無い」
「現状?」
「戦争だ。人類王国連盟は、護国卿によって統治される現グレザリアという名ばかりの王国を認めてはいない。早ければ、今年中にもこの国は戦火に包まれる。その筆頭は他でもない軍事国家キアラヴァ王国だ」
「……ああ」
ミラアは鼻で笑った。
先ほどフィーネと交わした会話が、この状況における受け答えの練習になったようだ。
「戦争が起こる前に、王都グレザリアが見たくてね。観光だよ観光」
(貴方は観光を軽く見てないんでしょ?)
自分の台詞を肯定する、先程相手が口にしたことを胸中で呟く。
フェイは表情を変えずに質問を続ける。
「お前にとって、フィーネ・ディア・グレイスはなんだ?」
「想い人」
百合の花を思い描きながら言ってみる。
「……ふん」
フェイは鼻を鳴らした。
「貴方にもいるでしょ?特別な女ぐらい」
「……まあな」
「ほんとに?」
訊いておいて驚くミラア。
この、女に興味がなさそうな男に。
いや実に意外である。
ミラアは目を丸くして、
「ちょっと詳しく教えてよ。すごい興味湧いたんだけど」
「……お前が考えているような相手ではない。母親のようなものだ」
「母親かぁ」
この〝破格の戦力〟を形にしたような男にも、生みの親がいて、育てた者がいるのだ。
考えてみれば当たり前の、しかしイメージが湧きにくい事実。
「まぁ、お互い想い人の話を詮索するのはやめよっか?」
自分を雇用する隊商の隊長であるフェイに対して、これだけ大きな態度を取れるのが、Sランクハンターという立ち位置である。
Sランクハンターが関わった仕事における損害は常に最小限になるため、その助力が得られるのであれば、多少横柄な態度など雇用主にとっては許容範囲内だ。
むしろミラアのくだけた言動など、業界においては極めて謙虚で大人しいものだと言える。
「……お前には邪気が感じられんが、忠告しておく。フィーネ・ディア・グレイスのお父上ディルク・ディア・グレイス公爵は生粋の武人であり、身代金などには応じん。それは母方のカタリーナ公爵夫人も変わらん」
「そう。なら安心したよ」
風のような笑みを浮かべる女ハンターを、隊長は睨んだ。
紫色の瞳の奥は読めない。
このミラア・カディルッカという銀髪の女ハンターは、フェイにとっても一筋縄でいかない人物だ。
もしシュバイン商会に仇名す者であれば、それが分かった時点でこの鍛えぬいた全身全霊を以って打ち砕くのみである。
現状でフィーネ・ディア・グレイスや商会に敵意を見せていない以上、さほど気にする必要はないのかもしれないが、寝首は掻かれないようにしておかねばならない。
「じゃあ、私もう行くね。貴方とのお話楽しかったよ、ありがとう――いい夜を」
そう言って、ミラア・カディルッカはフェイとすれ違うように去っていった。
もうずっと会っていない、美しいあの方にどこか似た香りを残しながら。
夜の街に消えていく後ろ姿は美しく、孤独だった。
それは夜空に佇む月にも似ていたかもしれない。