第17話 満たされた街
「快適ですねー!」
幸せをそのまま声に出したようなフィーネの言葉に、闇の中に座るミラアは胸にわだかまりを覚えて、
「そおー?」
どうでも良さげに答える。
「どうしたんですか?」
邪気を感じさせないフィーネの疑問に、
「別にー」
心無し雑に返事をする。
満天の空から吹く風は、瞳を閉じたまま過ごすミラアの荒れた心を冷やし、全身を包む温かい湯は冷めきった心を癒してくれる。
本来なら気分の良い〝快適さ〟だが、今はむしろそれが不満を呼び起こす。
「こんな時間でもお風呂に入れるなんて、他の街じゃ考えられませんよねー」
「そうだねー」
瞑っていた瞳をゆっくり開くと、無数の松明に飾られた夜の浴場が広がっていた。
所々を巨石や石像が飾る大きな浴槽の中。
溜まった湯に浸かるフィーネの笑顔は、松明の灯に艶やかに照らされ、背後には宮殿を連想する景色が揺れている。
吹き抜けになって大きく開いた天井から見える、漆黒の星空に昇りかけた月も、その遥か手前を流れる薄い雲も、精悍な少女を飾るものとしては申し分ない。
建造運営費をふんだんに注ぎ込んだであろう絶景には数人の女たちが紛れているが、そんなことは気にならない。
今ミラアの瞳に映る美しいすべては、愛しい少女の装飾でしかないからだ。
それでもミラアの態度が気になるのだろう。
「……さっきのクラーラさんとのお話ですか?」
少し遠慮気味に訊いて来るフィーネの言葉に、ミラアの脳裏に先程クラーラと交わした会話が蘇る。
良き街の在り方を巡った討論。
この少女には頼りにされたい。
ちょっと器が大きいお姉さんだと思われたいのだが――。
「……まあね」
――それ以上に本音で親しくなりたいと思って、そう答えた。
フィーネは何を考えたのだろう、ミラアと同じ方を向いて座り直す。
温かく透明な湯に、微かな波紋が広がった。
「……キアラヴァ王国って、軍事国家ですよね?」
可憐な唇から零れる質問には、心地の良い気遣いと、この胸に共鳴する何かを感じる。
「……うん」
フィーネは何も言わない。
それが待っているのだと気付いて、ミラアは続けた。
「キアラヴァに限ったことじゃなくて、今の四大王国って結局戦争で造られた国なんだ」
歴史に詳しい者たちにとっては有名な話である。
暗黒時代より以前、この世界にはもともと複数のヴァンパイアの王たちがいて、それと同じ数の都市国家があった。
それらの都市国家は、一人の吸血鬼を頂点に祀り上げた獣人たちの国だった。
吸血鬼たちと違い、獣人たちは人間の血以外の食料を必要としたため、食用になる動物が育つ森や作物がよりよく育つ豊かな土地を求めて、都市国家間でそれを奪い合うようになっていった。
そもそも戦争とは、国民の豊かな生活を求めて始まったものなのだ。
他国から豊かな土地を奪い、それを守る。
そのために必要な戦力こそが、豊かな土地そのもの以上に価値のあるものだと気付いた国々が〝軍事力〟を求めるようになった。
拠点を増やし、軍を増やし、領地はその強さに応じて広がっていった。
そうやって他国を侵略し、敵国の王を殺しては支配し、生き残ってきた国々が今の四大王国なのである。
もしそれらの歴史的事実がなかったら、今この国も、この街もなかったことになる。
それは、今ここでフィーネとこうしていることもなかったということを意味する。
今ミラアの隣に座る少女も、同じことを考えたような気がした。
その上でミラアは続ける。
「確かにクラーラの言い分は最もだと思う。満ち足りた環境があれば、誰も戦争なんかしない。四大王国も、広い領地を農地にしたから世界が平和になったから」
飢えることが略奪を生むのだ。
でも、とミラアは続ける。
「それは、軍事力っていう抑止力があるからだよ」
ミラアは水面を見つめた。
「満ち足りた国が戦争をしないのは、戦争によるリスクがあるからなんだ。もし、戦争が甘い汁を吸えて自国が火傷をしないものなら、みんな割と平気でやる」
真剣に聞いているフィーネの眼差しに一度視線を重ねて、それからその喉元に移し、
「今は暗黒時代と違って王国連盟っていう一つの共同体ができてるけど、キアラヴァは相変わらず軍備を整えてる。他の二つの国だってそう。ここは島国だからのんびりしてるかもしれないけど、他の三国の国境は陸地だから、いつになってもやっぱり空気は張り詰めてる。結局、最後に物を言うのは軍事力なんだ」
例えば、貧しいが腕力の強い者が三人いて、裕福だが腕力の弱い者が一人いて、周囲に他に人間がいなかったとしたら、貧しく腕力の強い三人は何を考えるだろうか。
富める者は狙われ、弱き者もまた狙われる。
弱くも富める者など、絶好のカモである。
「分かります」
隣からこちらを向いているフィーネの顔は真剣だった。
「……ミラアさんは、この国の状況を憂いてくださってるんですよね?」
護国卿直属である黒の騎士団の行進。
傭兵の急増。
城塞都市の不穏な空気。
戦争の気配はじりじりと、だが確実に訪れている。
「……うん」
少し間の開いた、しかし偽りでない返事。
「実は私も、ミラアさんと少し同意見なんです。クラーラさんの話は理想論というか、最後に目指す……むしろ到達すべき点というか……」
フィーネは一生懸命に考えつつも、口ごもる。
まだ二十歳に満たない少女が、理想的な国の在り方に答えを出すのは無理だと思う。
大人でも無理だろう。
かつて、世界を支配していた女王たちでも。
きっと、神代の神々でさえ不可能だったとミラアは考えている。
それでもフィーネの目は諦めを知らないでいた。
「でも、最後に辿り着くのはきっとそこだと私は思うんです。だから、それを忘れずに――道標にして行かなければいけないと思っています。少なくとも、世界平和を善しとするのでしたら」
「……ああ」
理想は理想のまま、夢は夢のまま、それを目標にして歩いていけばいいのだと少女は言う。
大切なのは投げ出してしまわないこと。
平和な夢や理想という雑念を背負ったまま、戦場を駆けることは無謀である。
そういう出来の悪い者は殺戮の嵐の中で早死にし、淘汰される。
事実、されてきた。
だが、とりあえず戦争が終わって、平和な日々が百年間は続いている。
この状態で人類が見る夢としては、もうそれこそが妥当なのかもしれない。
きっと、人類は遂にここまで来たのだ。
フィーネの言葉を聞いて、ミラアはそう思った。
「納得したよ……ありがと」
そう言って遠くを見るミラアは、いつもの涼しそうな笑顔よりもずっと愛らしくて、フィーネは思わず笑みを浮かべた。
それに気付いたミラアは、少女の屈託の無いその笑顔に見とれて、時の流れを忘れた。
記憶に深く刻みたいという願い。
そう、いつでもその笑顔を思い出せるように。
そんな想いを知らずに、少女は思い出したように訊く。
「でも、ミラアさんはこの国がもうすぐ戦争になることを真剣に考えてらっしゃるんですよね?」
「うん、キアラヴァ王国で聞いてね」
紫色の瞳に冷たい炎が宿る。
「でしたら、どうしてこの国に来たんですか?」
「――」
当然の疑問だったが、ミラアはすぐには答えなかった。
夜風が、湯に浸かっていない耳と頬と首筋と肩を撫でる。
月はさっきより少し高くなって、上からミラアを見下ろしている。
天空の星々は松明の灯りに消されることなく遠く輝き、雲はそれらの高さを引き立てるように、低い位置を流れていく。
天高く吹く風に押されるように。
「ミラアさんって……」
答えないミラアに気遣うように、でも知りたい気持ちを抑えきれないように。
「この国に来るの、初めてですよね?」
「――うん」
ミラアは答えた。
それに嘘偽りはない。
ミラア・カディルッカは、グレザリア王国領に足を踏み入れたことはない。
「じゃあ、なんで……」
「――なんでだろ?」
ミラアは空の向こうに視線をやりながら、
「戦争になる前に、グレザリア王都を見てみたいから、かな?」
そう言って、ミラアは湯船の中から立ち上がった。
全身に絡みつく湯の大半を重力に流しながら、それでもきめ細かい肌に僅かに残る水滴が煌めく。
丸く膨らんだ胸、丸い尻。
それらを柔らかく繋ぐ、細くくびれたお腹回りと腰回り。
雪よりも透明で白い身体は松明の灯りに揺れ、所々にエキゾチックな影を落としている。
入浴時に結んでおいた銀色の髪はしっかりと濡れていて、風に揺れることもない。
思わず息を呑むフィーネの瞳孔が開いた。
「さて、そろそろ上がろうよ。戦闘もあったからね、寝る時間削っちゃうと明日もたないよ?」
フィーネを優しく見つめる、風のような笑み。
「あ、はい!」
フィーネは、湯船から上がるミラアに続いた。
幾つも設けられた松明の灯は周囲に光と熱を与えていて、歩いているだけでその恩恵を全身で感じることができた。
そんな中、よく磨かれた石畳の上を歩く、ミラアの後姿に視線が吸い込まれる。
肩から腰にかけてのラインとくびれは細く締まっていながらも柔らかさを帯び、尻は丸い。
脚も長く、程良い肉厚感を覚える。
建築学では曲線美を用いたデザインを女性的だと表現し、その歪曲率などを重要視するが、その点においてこの女性は神々が生んだ結晶なのではないかと錯覚する。
(それにしても)
と、フィーネは胸中で呟いた。
(ミラアさん、この国に来た言いづらい事情でもあるのかな?)