第13話 森という恐怖
銀色の髪は珍しい。
似たような髪の色の人間はいることはいる。
ミラア・カディルッカの髪を見ても、見とれることこそあれ奇抜な印象を受ける者はいないだろう。
ただ、これまでにクラーラが見てきたそれらは、薄い金色や薄い灰色など、よく見れば何らかの色素が混ざっているものだった。
一方、クラーラの視線の先に座っているミラア・カディルッカの髪は、彼女の見立てでは完全な銀色だ。
肌も雪のように白く透明で、名工の作った陶器のように曇りが無い。
瑞々しささえ際立つ。
紫色の瞳はアメジストのような輝きを秘めていて、その冷めた眼差しに、男も女も自らの心の熱を実感し昂るのだろう。
人間離れした美貌。
この世に女神がいるとすれば、きっとこのような美しさなのだろうと思う。
すぐ横にいるフィーネとの会話を楽しみながらも、意識と視線がミラアに向いてしまう。
殺気立って見られていた時は少し困惑したが、こう心ここにあらずといった具合に遠くを見られても、何だかやりづらい。
完全に無頼な生き方をして来たのだろうか。
孤高であるということ。
それは、Sランクハンターとしての実力に裏付けされたものなのかもしれない。
有り余る才能に恵まれたか。
壮絶な逆境に磨かれたか。
夢と目標に憧れ走り続けたのか。
まだ若いこの女性は、年齢とは不釣り合いな、極めて高い能力を持っているのだと見て取れる。
だというのに――なぜこの美女は、自らの人生を楽しもうとしないのだろうか。
世の女性たちが羨む美貌と、世のハンターたちが憧れる実力。
振る舞えば愛想もあり、何気ない行動には気品を感じ、要領も良い。
なのに、ミラアの姿はまるでスラムに捨てられた貴族の忌み子のように、世界に切望しているように見えるのだ。
自分より幾つか下であろう年齢の割に、潜り抜けた修羅場の数が計り知れないということも分かる。
恐怖を忘れ、涙を枯らし、痛みを無視して走り続けてきたのかもしれない。
それでも、まるで満たされぬ空虚を抱いたまま、孤独に引き籠るような精神の在り方は何なのだろうと思う。
きっと本人は認めないだろうが、そんな心の奥底が垣間見える。
他人の世話を焼く性分のせいか、年上の女として、その冷めた心が気になって仕方がない。
無論、自分の手に負えるものではないかもしれないが。
三人が無事に王都に着いたら、この銀髪の女ハンターとも仲良くなりたいと思っている。
冷めた人というのは、身内であると認められれば、思う以上に温かいことが多いのだ。
気付けば、戦車の甲板の上は静寂に包まれていて、すると他の馬車から聞こえる話し声や、麦畑を撫でる風の音が大きくなったような気さえした。
北西と南西に巨大な山脈が聳えるグレゼン島、その中南部も平地だけだというわけではない。
小高い丘は幾つもあるし、小さな小川もある。
かつて石を削り出して造られたドワーフの古代遺跡が見えれば目を引き、遠くに広がる森が近付けば魔獣を警戒して睨みを利かせる。
広大な天空は青く澄み渡り、所々に涼しげな薄い雲が流れている。
やや固まった大きな雲は、陽光に輝きつつも形を変えながらここより遥か上空を吹く風に流れていく。
時折生じる雲の隙間から日差しが射し込めば大地を照らし、作物を育てるそれは人々を祝福する神の光でもある。
胸いっぱいに吸い込む空気は美味しく、城塞都市ゴートンで鼻に染み込んだ異様なそれとは大きな差を感じた。
まだ出会ったばかりだが、王都で待つ妹分たちにもぜひ逢わせたい――そう思える程に可愛いフィーネも、その相棒であるミラアも、クラーラ自身も、商会と護衛のみんなも、怪我ひとつ無くここまで来れている。
それを思うだけで、クラーラの心は大きく満たされる気がした。
スパイス輸送の仕事は、だいたい何らかの被害が出るものだ。
魔獣による人の生死に関わる被害もそうだが、空腹にしびれを切らした無謀な盗賊団、乗組員の病もあればユニコーンの怪我や病気もある。
聖獣指定されているとはいえ獰猛な彼らにおいては、原因不明の暴走による車の転倒や破損という事態も在り得る。
彼らの引く幌馬車に積まれたスパイスは黄金の山であり、それには人件費の何倍もの価値があるので、商会の御者はそれをいつも気にかけていなければならない。
隊商が警戒すべき事柄は、いつでも突然襲ってくるのだ。
広大な畑の広がる農村地域を抜けると、一面の草原が広がっていた。
街道はなだらかな丘を上っていき、やがて北に広がる広大な森の傍に近付いていく。
森には多くの草食動物たちが棲み、彼らを餌とする肉食獣たちも多く棲む。
それはやはり魔を扱う猛獣たちの生息も意味するため、隊商は警戒するのが常であるのだが――。
フィーネは自分の座る位置から、二基のバリスタを確認した。
自分用のものとミラア用のものがある。
大矢のストックも、甲板に備えられた長細い木箱の中に大量に入っている。
「フィーネ、立つよ」
ミラアが突然そう言った。
視界の隅で、御者台の上に座るクラーラが、少し驚いたような顔でこちらを見た。
森の近辺は警戒すべきではあるのだが、必ず魔獣に襲われるということもない。
森が近付いて来たとはいえ、姿さえ見せぬ敵に備えて立ち上がる程の距離でもない。
だが、
「はい」
ミラアがバリスタの後ろに立つのを見て、とりあえずフィーネもそれに習う。
バリスタは、詰まるところ巨大なクロスボウのような物である。
ただし、その大きさは砲台と呼ぶべきものであり、打ち出す矢は槍のように巨大なものだ。
「このタイプは弦を引いたままでもそう壊れないから。矢を装填して、森へ向けて待機して」
バリスタの威力は、人類が持ち得る魔術を含めたすべての攻撃手段の中で、最も強力なもののひとつと言える。
例えば、大きな熊や獅子を撃てば、その強靭な肉体を一撃で貫くだろうし、フルプレートアーマーを着込んだ重装歩兵を撃てば、その身体を後方の木の幹に打ちつける程の威力を持つ。
大自然の驚異である魔獣が相手でも、使いこなせさえすれば、その大半を仕留めることができるだろう。
ただ、ハンドルを回すことで強力な弦を引く仕組みなのだが、弦の強さ故にその状態のまま放置していると、弦の張力によってバリスタ本体が破損してしまうことがある。
どうやらこの砲台は構造を工夫し、さらに強化することで対策がされているようだが、自損リスクが無いというわけではない。
大矢を番えるということは、発射する可能性が限りなく高いということだろう。
二人は手早くハンドルを回し、弦を引き絞った時点で、巨大な矢を本体に装填する。
「森に向けてて。絶対来るから」
その予言の根拠は分からない。
だがミラアの瞳は獲物を狙う狩人のそれであり、そこには確かな根拠による確信が表れていた。
隊商の進行に比例して近付いて来る森。
高さ5メートルを超えるであろうオークの木々が生い茂り、陽光の届かない闇の中から濃い緑の香りを漂わせている――鼻はスパイスの香りに晒され続けて、もうあまり信用できる状態ではないのだが。
街道と森の距離は五十メートルほど。
隊商は何事もなく進んでいく。
空気は少し張り詰めていて、フィーネはいつの間にか他の戦車から聞こえていた話し声が止んでいることに気付いた。
他の戦車の護衛がバリスタを構えているかは分からないが、皆警戒はしているのだろう。
もし、空気に明らかな獣臭が混ざっていたとしても、引き返すわけにはいかない。
この時のための護衛だ。
隊商が街道を進む音だけが響き続ける。
フィーネは強張る顔と高鳴る心臓を無視して、どうしても抜けてしまいそうな全身の血の気に火をくべた。
ミラアの態度から推測するに、この森のどこかから、微弱な殺気が漏れているのではないだろうか。
グレゼン島の森に棲む魔獣は多種多様だが、その最たるものはマンティコアだ。
その名は古代の言葉で〝人を喰らう者〟を意味し、顔は人間にも獅子にも似ると言われ、その体躯は獅子に酷似し、背中には蝙蝠に似た翼を持ち、尾には蠍のような毒針を持つという。
当然、生身の人間が太刀打ちできる相手ではない。
実際に見たことはないものの、多くの子供たち同様、フィーネも物心ついた頃からその話を聞いて育ってきた。
バリスタを積んだ戦車で撃ち殺した騎士の武勇伝を聞けば心が躍り、食い殺された騎士たちの話を聞くと、悲しみや義憤よりも恐怖が勝るようになっていた。
ある意味親しんで来た恐怖の象徴である。
だが、今からこの仕事を断って、安全な街へ逃げ帰ることなど出来はしない。
(この旅で、私はマンティコアへの恐怖を克服する・・・!)
隣でバリスタを構えるミラアが心強い。
隊商は、百頭のユニコーンが歩く音と、五十頭の車が進む音だけを街道に響かせていく。
突如、森から聞こえた音と共に現れた姿が、フィーネの心臓を強く叩いた。