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幾千夜の誓いを君へ  作者: 月詠命
二章 地平線の向こうに待つ空の色は
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第12話 月蝕の痛み


「フィーネ」


 朦朧とした意識の彼方から、甘い声が聞こえる。


 芯の強い、明瞭で良く通る、それでいて僅かに錆を含んだ女声。


 声を鍛え込んだオペラ歌手が、普段驚くほど普通に話をした時のような、強く柔らかく深みのある美しい声。


「フィーネ」


 肩を揺する細い手つきが優しい。

 お風呂のお湯のように肌に密着し、穏やかな波のように柔らかく身体を揺らす。


 だが、意識が浮かび上がってくるのに比例して、頭に強い鈍痛を覚えていく。

 同時に、世界が楕円に回っていることも強く感じて――。


「うーん」


 目を開けると、この世のものとは思えない程に美しい銀髪の女神が、自分の顔を覗き込んでいる。


 しかし、天国にしては頭が痛い。

 意識が曖昧で、身体が重い。

 手足が痺れる。


「大丈夫?」


 銀髪の女神――ミラア・カディルッカの心配そうな表情に、朧げな意識が吸い込まれる。


「はい……」


 定型文のようなやり取り。


「――ん」


 横になっていた状態から辛うじて上半身を起こすものの、自らの身体を支えきれず、そのまま前のめりに布団に突っ伏す。

 緩い巻きグセのある長い髪が、布団の上に置いた両腕をくすぐった。


「二日酔いだね」


 溜め息と、ミラアの言葉が聞こえる。


「……体調管理も仕事の内だから。限度を超えないようにね、イロイロと」


「はい……」


 我ながら空返事にしか思えない陰鬱な返事。

 再び顔を上げるも、意識が遠い。


 視界が映すのは、ランプの光に照らされた白亜の壁と天井。

 隊商宿の寝室だ。


 頭は回らないのに、視界は止まることなく回り続ける。


 いつの間にか上体が前へと崩れ、フィーネの視界を再び布団が遮った。


 呆れたようなミラアの気配が遠ざかり、冷たい空気と雑音が部屋に流れ込んでくる。

 窓の木扉を開けたのだろうと予想はできたが、確信もなければ確認する気にもならない。


 布団に顔をうずめたままのフィーネからは、まだ暗い夜明け前の空は見えないし、なんだかすべてがどうでも良く思える。


 とにかく身体がだるい。


 部屋に馴染んでいく冷たい空気を鼻から吸い込むと、僅かながら意識が明瞭になっていく。


 何とか再び顔を上げる。


 木扉の開いた窓からは、中廊下と中央広場を挟んだ反対側の二階廊下が見えた。


 室内にはフィーネとミラア以外、人の気配が無い。


 クラーラを含めた数人の女性が泊まったはずだ。

 置いて行かれたと思いつつも、だからどうするという考えに至らない。


 ただ、頭痛と眩暈と戦った状態で、フィーネの思考はフリーズしていた。


 ミラアは既に服を着ていて、意識のハッキリしないフィーネをしばらく見ていたが、少女に復活の余地が無いと判断したか、全身に植物由来の香水を振りかけて一人で中廊下に出た。


 フィーネを一人残して、部屋の扉を閉める。


 後ろ髪を引かれる想いはあるが、フィーネの分も働かなくてはいけない。

 二人の準備は自分一人でやればいい。


 夜明け前の隊商宿は騒がしかった。


 まだ暗い空の下、中廊下に設置されたランプの灯りに照らされて、御者や護衛のハンターたちが各々の準備をしている。


 御者はユニコーンの調子を見て餌を与え、護衛はバリスタの点検を行うのだ。


 もうすぐ訪れるであろう日の出と共に、シュバイン商会の隊商は出発する手筈になっている。


 ミラアが二階廊下から一階を見下ろすと、広場の中央で歴戦の大男フェイが、大型の熊を連想させる貫禄を纏いながら隊商全体を見守っていた。


 ミラアもバリスタの点検を行わなければならない。


 早く済ませて、フィーネの体調を見ようと思う。


 誰かと共に行動をしたり、誰かの面倒を見るなどということは久しいが、薬学の知識ならそれなりにあるから力にはなれるだろう。


 そう考えながら一階に降りる階段に向かって歩こうとした時、


「ミラアー」


 かけられた馴れ馴れしい声に目を向けると、焼けた肌がきめ細かい、無言で健康美を語る金髪碧眼の女の姿があった。


 クラーラ・ブルーニは、馴れ馴れしくミラアに訊いてくる。


「フィーネは?」

「……体調が悪いみたい」


 そう答えつつも、


(お前のせいだろ)


 胸の中に響く本音は冷めた瞳に映さないが、込み上げる不快感に声が僅かに冷たくなったかもしれない。


 独占欲と嫉妬が、自らの世界を黒く染めたような気がした。


「大丈夫?」


 心配そうな顔をする御者の女。

 その想いは本音で、そのためにわざわざこの部屋の前まで戻って来たのだと分かる。


 同じ相手を想う者として、不本意ながら通じ合っていた。


「多分。二日酔いだと思うし」

「そっかぁ」


 ミラアに返事をしながら、クラーラはフィーネが休んでいる部屋へと入っていく。


 己の縄張りに侵入されたような嫌悪感に、ミラアは顔をしかめた。


 相手自身の幸せを想う気持ちが愛ならば――それを独占したいと願うこの気持ちは、きっと愛ではないのかもしれない。


 ただ、それを行動に移さないのなら罪はなかろう。


 そうやって己の独占欲を堪えるのが真に相手を想ってのことならば、それはきっと限りなく愛に似た気持ちなのではないだろうか。


 何やら会話を交わしながらフィーネを介抱するクラーラの姿が瞳に映る。


 その光景を睨みながら――胸に痛みを覚えながら、それでもフィーネに幸あれと心から願う。


「待ってて」


 そう言い残して廊下に出て階段を降りていったクラーラは、やがて木のカップを持って戻って来て、それをフィーネに手渡した。


「飲んで」


 言われるがまま、その液体を飲み干す少女。

 しばらくしてその顔に安堵が浮かぶ。


「大分楽になりました」

「良かった」


 フィーネとクラーラが微笑みを交わす。


 自らの嫉妬を抑え込み、ただ立っているだけしかできないでいた銀髪の女ハンターは、傍から見れば万人の心を奪うほどに美しい姿だった。


 フィーネの瞳には、褐色の金髪美女の姿しか映っていなかったが。




 夜が終わりを迎え、日の出と共にフェイの声が隊商宿に気迫を与える。


 分厚い木で出来た門が開き、純白のユニコーンの引く大掛かりな隊商が、その姿を草原に晒した。


 夜明けの陽光に照らされた草原を左右に割るような街道を進み、隊商は城塞都市を後にする。


 東の地平線から覗く日の出は、広大な空に浮かぶ雲と大地を力強く照らしている。


 西の彼方に見える山脈は、東から照り付ける陽光を反射しながらも僅かに霞み、青い空と共存するようにただ遠く聳えている。


 そして、南東――隊商の背後では、グレザリア王国の誇る城塞都市ゴートンが、その堅牢な姿を夜明け前の草原に魅せ、未だに隊商を見下ろしていた。


 市壁に囲まれた都市部から北西に離れて行くと、一面に広がる麦畑と、その所々に造られた集落が幾つも見えて来た。


 城塞都市に属する、食料を生産するための農耕地域である。


 北に広がる森には、大量の豚が放牧されているはずだ。

 森の近くには、魔獣を警戒して建てられた小さな砦が、少し年期の入った石壁を朝日に晒している。


 計五十台の車両によって編成された隊商のちょうど真ん中ら辺、他と変わらぬ揺れる戦車の上で、フィーネはまだ吐き気に項垂れていた。


「大丈夫かい?」


 手綱を握ったまま声を掛けてくるクラーラに対し、フィーネは気力を絞って答える。


「……大丈夫です」

「飲ませすぎたかな?なんか悪かったよ……」

「いえ、そんなこと……」


 耳に流れ込んでくる会話に対して、ミラアは地平線の遠くに目をやりながら、心の耳を塞いだ。


 孤独に慣れた者にとって、特別な想い人ほど厄介なものはないのかもしれない。


 ミラア・カディルッカという女の愛想は、世を渡るための仮面そのものだ。


 昨日の仲間が今日死に、今日の仲間が明日死ぬ。

 運よく共に生き残れても、コンビを組まない以上その縁はそこで終わりだ。


 同じ釜の飯を食って、共に砂を噛んだ者たちの、誰が今どこでどうなっているのかなど全く分からない世界。


 もちろんハンターと言えど、コンビや集団をつくる者たちも少なくない。


 ただ、築き上げた物が壊れる瞬間をミラアはよく知っていた。

 長い時間の中で骨身を削り、痛みに微笑みながら大きく育てた全てが、まるで夢から覚めたみたいに何もなくなるのだ。


 残るのは、多くを支えることに夢中で、孤独を覚悟していなかった心だけ。


 覚悟は常に、自然体でしていなければいけない。

 それが、弱者にも強者にもできる強かな生き方の基盤だ。


 そんなミラアだが、今目の前で項垂れているこの少女だけは〝例外〟というかけがえのない存在だった。


 満天の夜空に輝く星々がひとつ欠けたところで、誰も気付く者はいない。

 十人の仲間たちの一人が死んだら、残る九人がそれを弔うだけだ。

 だが、空に一つしかない太陽が消えてしまったら、世界は闇に閉ざされてしまう。


 孤独で冷たい世界など、慣れてさえいれば平気なのである。

 だが、多くの人間たちはそんな在り方を善しとしない。


 今のミラアにも、少しだけそんな想いがあった。


 自らの生きる世界を照らす明るい温もり――それがきっと、愛と呼ばれるものなのだろう。


 そしてそれは、上手く扱えない者にとっては、きっと己が身を焼く災厄にも成り得るのだ。




 

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