第10話 城塞都市
港湾都市ジャスニーから王都へ向かう街道をおよそ百キロメートル進むと、グレゼン島有数の長大な川であるレムズ川にぶつかる。
長さ三百キロメートル以上。
海に向かって川幅が広がっていく三角江になっていて、街道と交わる地点での川幅は約三百メートル。
西から東へ緩やかに流れていく多量の水は、ここ一帯の陸地を二つに分け隔てる境界線だ。
膨大な水流の向こう岸は、視界には映るものの足は付けぬ別の領域。
川に架かった石造の大橋が、二つの陸地を当たり前のように繋げている。
〝城塞都市ゴートン〟は、橋の向こう側に佇んでいた。
旧リリス朝グレザリア王国が、まだグレゼン島しか領土を持っていなかった頃。
つまり本島の西に位置するカイルランド島を占領する以前、旧リリス朝グレザリア王国の王都だった歴史ある街だ。
建設当時は、まだ四大魔王が世界を支配する以前の混乱期。
グレザリア王国はグレゼン島のみを領土とする島国で、東のカーミラ朝キアラヴァ王国と、西のカイルランド王国に挟まれた状態で戦争に明け暮れていたという。
そんな時代背景から、王都でありながら優雅な趣よりも堅牢であることを選んだ。
それが城塞都市ゴートンの歴史である。
最も、それは千年も昔の話だ。
西のカイルランド王国が旧リリス朝グレザリア王国に滅ぼされ、カイルランド島がグレザリア王国の領土となると、魔王リリスは二つの島のほぼ中心部にあたるグレゼン島西部に王都グレザリアを建設。
城塞都市ゴートンは、内陸最大の防衛拠点となった。
やがて国が四つに纏まり、人類の夜明けと共に戦争が終わった今日では、陸の貿易都市として成り立っているが、その軍事施設としての機能は損なわれていない。
レムズ川の北岸に沿うように広がる街全体を大きく囲んだ、幾基もの巨大な防御塔を繋ぐ巨大な市壁。
幾つものバリスタを並べられる厚さを誇るその上部には、狭間胸壁と出し狭間が隙間なく設けられている。
〝城塞都市〟
その名に恥じぬ堅牢な趣は、街というより超巨大な城と呼ぶべき異様な佇まいを見せていた。
橙色に染まりゆく空に、藍色と赤紫を壮大に塗ったような雲が流れる時間。
シュバイン商会の隊商は、大地に長い影を落としながら、この城塞都市に近付いていった。
ただし、左右を防御塔に守られた大きな楼門から街の中に入るのではなく、街の外側を囲む市壁のさらに外側に隣接した隊商宿に入っていく。
近年ゴートンは人口過密に悩まされており、無計画な建築によって街は複雑化していると聞いている。
市壁の中にはもう敷地がないため、一定の敷地を必要とする現代の隊商宿は、壁の外側に増築するしかなかったのだろう。
隊商宿に着いた隊商は、自由時間に入った。
隊商宿から街へ入るため、一度宿の門から街の外へ出て、改めて楼門を目指して歩いて行く。
フルプレートに身を包み、ハルバートを構えた無駄に豪華な兵士たちの見守る中、深い堀を渡るための大きな跳ね橋を渡り、両脇を門塔で固めたゲートハウスの下を潜って歩いて行く。
上に設置された無数の矢狭間を見上げながら、吊り下げられた落とし格子の下を潜り、市壁の内側へ入っていく。
こうして市街地へと辿り着いたミラアとフィーネの視界に映る街並みは、他の都市のそれとは大きく異なっていた。
辛うじて歪んだ格子状に区画整理されてはいるものの、一階が店舗になっている集合住宅が窮屈に並んでいる。
それらの家屋は全て奥行きを設けているのだろうが、高さの割に幅が狭く、正面から見るとひどく縦長に見える。
ハーフティンバー様式の三階から五階建てのものが多く、屋根の急傾斜はそこに屋根裏部屋の存在を物語っている。
少しでも空間を利用したいという想いがあるのだろう、上層階が道側に迫り出している建物が多く見られ、その分道の上にあるべき空間が狭くなっているといった有様だ。
そんな通りの採光はひどいもので、まだ夕方だというのに狭い大通りは既に暗く、歩いているだけで上から圧迫されるような気分になる。
敷石で舗装されつつも曲がりくねった道を、フィーネはミラアと共に歩いていく。
相変わらず涼しい顔をしながらも、物珍しと街を見て回るミラアを尻目に、フィーネも久しく見るこの街の姿に圧倒されていた。
曲がりくねった道が狭く、どの建物も背が高いせいで、街並などおろか空さえもロクに見えない。
上を見上げれば、道の左右に立つ建物の上層階の隙間に、遠く狭い空が見えるという程度。
他のどの街と見比べるまでもなく、この街の窮屈さは異常であると言えた。
店から漏れる灯りを頼りに、街灯もない暗い通りを歩いて行く。
行き交う人々は、見るからに娯楽を求めて歩く類の人間ばかりだ。
それも、ひと目で傭兵の類だと分かる風貌の者たちが異様に多い。そして、黒衣に身を包み、双剣を腰に携えた姿も多々見かける。
時刻としてはまだ夕刻。空自体はまだ夜ではないのだが、採光の少ない窮屈な街には既に夜の帳が落ちている。
この街ではもう遅い時間だということなのかもしれない。
湿気が籠るせいだろうか、鼻につく臭気を無視しながら歩いていたミラアは、フィーネに言う。
「狭いね」
誰もが思うであろう感想に、フィーネは複雑そうな表情を浮かべ、
「もともと城塞都市ですからね。要塞の中に、街ができたようなものなんです」
つまり、この街を囲う市壁は〝街を守るために造られたもの〟ではない。
むしろそもそもここは街ではなく、超巨大な要塞なのだろう。
それ故に内部に大量の兵士たちが待機する施設が造られた。
彼らが常駐するため、衣食住と武器と娯楽を提供する店が建ち並び、それが要塞内部で巨大化した結果〝街になっている〟と。
そう解釈したミラアに、フィーネは説明を続ける。
「もともとはここまで窮屈ではなかったのですが、人類の夜明け以降、街として急激に発展した結果だそうです。あれから人類全体の数も増えましたし。ここは、ジャスニーから王都へ行くためには避けて通れない街ですから」
人々の通過地点として街が急発展することは世の常である。
だが――。
港湾都市ジャスニーでも見た、小高い丘の上にある古城。
戦争による籠城に最適であるがゆえに、人が住み暮らすに適さない建物。
この城塞都市も、まさにそんな性格が見て取れる。
「本当に、戦争に備えた街だよね」
市壁は、いつの時代でも街の生命線だ。
戦時下は元より、平時においても市壁は盗賊の侵入を妨げ、門にて街へ入る人間の選別を行う。
さらに市壁は見張り台であり、なおかつ狙撃台でもある。
魔獣からの襲撃をいち早く察知し、バリスタによる狙撃で街を守るのも市壁あってのことなのだ。
そして、市壁の外に新市街地を設けた場合、そこは市壁に囲まれていない状態となる。
すると、昼夜を問わず新市街地は魔獣や盗賊たちの餌場と化してしまうため、その周囲に新たな市壁を建造するという選択肢が残る。
暗黒時代は、そうして増えていく人口に対応していた。多くの都市では、その名残が今も見られている。
しかし、市壁の建造には金銭と年数がかかるため、戦争の無い時代ではできるだけ質を落とした簡易な市壁をつくることになる。
無論、簡易な壁は脆弱である。
戦争においては敵軍に容易く破られ、市街地の一部を乗っ取られるという最悪のケースに繋がってしまう。
そうした脆弱な街を善しとしない領主の判断なのだろう。
市壁の外に街を発展させず、あえて堅牢な壁の中に残ろうとするこの街の姿勢。
この街の領主は、今も戦争に備えた街を維持しているのだ。
行き交う人々の数に対して、狭い道は明らかに窮屈だった。
「さてと。観光も済んだし、そろそろ宿に戻ってご飯食べない?」
不意に出たミラアのその言葉に、フィーネが不思議そうな顔をする。
「ご飯なら、この辺で食べませんか? レストランもたくさんありますよ?」
ぱっと見ただけで、数軒の店が賑わっている。二人の好みのレストランなど、探せばいくらでも見つかりそうだ。
しかしミラアは真剣な顔をして、
「やめとこ。よくあるんだ―――――こう、人が増えるとね」
分かりづらい言い方を飲み込めないでいるフィーネに、ミラアは小声で続ける。
「―――――ここはきっと、水が汚い」
街に入った時から鼻につく臭気。
水道工事を行わずに発展した街では、水は川から引かれ川へと捨てられる。上流における汚水が、下流では飲料水となることさえあるのだ。
その結果、街が大きくなり人が増えるほど水質汚染は顕著になる。
故意によるものではないが、複雑に発展していく都市部で水道設備が追いつかないせいで起こってしまう、いわば〝街の病気〟である。
この街の無計画な都市設計を見る限り、水に対する安全考慮などされていないに等しいだろう。
そもそも、ここまで人で賑わうことを想定していない〝戦の砦〟だったのだから。
水質汚染は人口や建物が密集した都市の中心部で著しく、その川下で最悪な状態になり、川上ではまだ汚れていない水を汲むことができる。
そして、ゴートンにある隊商宿は、すべて市壁の外側に増築する形で造られていた。
街の外側に水を引くための最も簡単な土木工事は、すでに完成されている都市部の水路に手を加えることよりも、川のより上流から新しく水を引くことである。
つまり、この街の隊商宿の水は、上流から引き入れた専用の用水路を流れている可能性が高く、都市部の水に比べて格段に清潔であると予想できるのだ。
若き女ハンターの説明を受け、フィーネは思い出したような顔をした。
「〝病の多くは水の汚れが招くものである〟カーミラの解体新書にもありますね」
前世紀の魔王が行った人体実験によって、人類にもたらされた知識の集大成の名が挙がる。
一体どんな人体実験をしたのかは、考えるのもおぞましいが。
「私、王都から出ることが殆どなくて。まれに母と旅行するんですけど、泊まるのは結局その地域の領主の館ですし。街の歩き方も泊まり方もよく分からないので、ミラアさんとご一緒させてもらえて本当に助かります」
世間知らずであると遠回しに言う貴族令嬢。
苦笑いにも、破格の愛嬌がある。
「お母様と旅行、か。お父様は?」
ミラアの問いに、フィーネは少し表情を落とした。
「母と私は王都にある屋敷に住んでいますが、父はもうずっと、この街の城に住んでいるんです」
僅かに目を見開いたミラアに、フィーネは少しだけ困ったような笑顔のまま、
「この街――城塞都市ゴートンは、グレザリア王国グレイス公領の中心都市です。ここは――私の父が管理する領地なんです」
汚れた水は、人を病にする呪いだ。
複雑に乱立した高層建築物。この街に下水工事を行うのは、もはや不可能だろう。
頑強な壁の中に押し込められても、砦としての機能を損なわず繁栄する街。
それはまるで、強大な人類王国連盟からの粛清に対抗する、この地の領主の心を映しているようでもある。
ここまで堅牢な城塞都市がこの時代に必要であるとはミラアは思わない。
平和な今の時代に目指すべき姿は、むしろ市民の健全な生活だからだ。
少なくとも〝護国卿〟キュヴィリエ・ディア・ローザリアが台頭する以前、グレザリア王国が人類王国連盟によって粛清の対象として検討される以前ならば、そうすることが時代の流れであったはずだ。
市民たちの健康な生活よりも、防衛拠点としての機能を重視し続けて来た領主〝剣聖〟ディルク・ディア・グレイス公爵。
かつて王家近衛騎士団団長を務め、今はローザリア卿の私兵団〝黒の騎士団〟団長を務める男であり、フィーネの父親である男。
貴族というより、むしろ騎士として生きる領主。
この城は、彼自身の性格を反映するものなのか。或いは、彼が見ているこの国の未来に備えたものなのだろうか。
「……お父様には会わなくてもいいの?」
「ええ」
ミラアの問いに、フィーネは強く頷いた。
「グレザリア王国は今、人類王国連盟から事実上脱退しています。軍備の抜かりは国の破滅になりかねません」
城塞都市の領主の娘は、自分に言い聞かせるように続ける。
「この街は、陸地における最重要防衛拠点の一つです。黒の騎士団の長である父の元に私が行けば、きっとお叱りを受けます」
父は騎士団の長。自分の存在は、父の気の緩みや雑念に繋がる。
ならず者や敵の斥候に捕らえられれば身代金を要求される恐れもある上、軍備に関する要求をされることも有り得るという懸念もあるだろう。
いつも精悍さが浮かぶ整った顔に、憂いを浮かべてそう語った少女を、ミラアは黙って見ていた。