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幾千夜の誓いを君へ  作者: 月詠命
序章
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届かぬ夢に






 そこは、冷たい場所だった。


 まだ幼い彼が鎖で繋がれ、閉じ込められたまま生かされていたのは、この村で二度と過ちを繰り返すことがないように。


 つまり自分のような〝イミゴ〟を二度と生むことがないようにと、村のニンゲンたちを戒めるためだ。


 少年がそれを理解することができたのは、皮肉にも罵倒される日々によって言葉を学んでいたからだった。


 少年は、鉄格子の向こうに棲む〝ニンゲン〟という恐ろしい生き物に囲まれて生きてきた。


 ニンゲンたちは、檻の外で生きていて、時折檻を開けて自分に〝餌と罰〟を与えてきた。


 ニンゲンにもコドモとオトナがあるように、〝罰〟にも二つのものがあった。


 ひとつは、痛みが時間と共に引いていく罰。

 もうひとつは、痛みが引かずに残る罰だ。


 その点で、コドモよりもオトナの方が、少年にとって脅威であったことは言うまでもない。

 オトナは知恵が働き、力が強いのだから、創意工夫された虐待の凄惨さなど語る必要もないだろう。


 寒さ冷たさと熱さ、そして飢えと痛みと苦しみしかない日々。

 その中で、幼い少年を救っていたのは慣れ親しんだ〝絶望〟だった。


 人生において〝期待をしない〟という強さ。

 それは、時に弱く幼い心を救うこともあるのだ。


 そんなある日、少年の住んでいる檻の中に、一人のニンゲンが入ってきた。

 赤い髪を長く伸ばした、オンナという種類のコドモだった。


 そのコドモオンナは、檻に入れられてからずっと泣いていた。


 少年は、目や鼻に暴力を受けている最中でないのに泣いている、この〝オンナのコドモ〟を不思議だと思った。


 幼い少年はずっとニンゲンが恐かったため、初めは檻の外にいるニンゲンたちに石を投げられて泣いている、〝オンナのコドモ〟に対しても強く警戒していたが、やがてその幼い少女が自分の仲間だという事に気が付いた。


 つまり、檻の外から石を投げる立場と、檻の中で石を投げられる立場の違いである。


 そんな少年と〝オンナのコドモ〟の距離が大きく縮まったのは、寒い夜に寄り添ったその体が温かかったからだ。


 胸に熱が宿り、耐え切れずに目から涙が流れた。


 温かい涙。

 初めてで不思議なことだったが、不思議と恐くはなかった。

 少年には上手く自覚することができなかったが、ただ、温もりが嬉しかったのだ。


 その日から少年は、ニンゲンたちの暴力から、自分の体を使って少女を守るようになった。


 痛みや出血には慣れていたし、恐怖も感じなかった。


 どこからか湧き出てくる優しい気持ちは、飛んでくる棒や石よりも強いもので。

 頭や背中に走る痛みよりも、腕の中で震える温もりの方が、ずっと大切なものだったから。


 少年は少女から檻の外の話をたくさん聞いて、たくさんのことを学んだ。


 外の世界での楽しい話、花や生き物、食べ物や衣服、布団という物のこと。


 檻の中から見える建物は〝家〟と言って、その中にはニンゲンが快適に棲むための設備が揃っているということ。


 ここから見るより、空は遥かに広いということも、少年を驚かせたことのひとつだった。


 いつしか少女は少年に笑顔を見せるようになり、少年は誰かが自分に向ける笑顔が、必ずしも暴力の前兆であるわけではないということを知った。


 やがて、自分も笑顔を浮かべるようになったことを、少女に指摘された。


 いつの日か訪れていた、幸せな時間。

 そんな日々が続いたことが間違いだったのだろう。少年は窃盗罪で起訴された。


 罪状では、村の所有物である少女の心を盗んだのだという。


 これについては村の中でも賛否両論あり、意見は二つに分かれた。


 一方は少年を有罪とする意見。

 もう一方は、そもそも少年は〝忌み子〟であるため、裁判を受ける権利自体がないという意見。


 それを決める裁判が村で行われ、少年は〝忌み子〟であるために人権が無い、つまり裁判を受ける権利が無いという判決が下る。


 人権擁護という概念が生じないまま、まだ幼い少年は、村人たちからの暴行によって意識を失った。


 やがて朧気にも意識が戻ったのは、遠くから響く少女の泣き叫ぶ声が、一層大きく跳ね上がった時だった。


 心臓が激しく胸を打った。

 何かを強く急かすように。


 ただ嫌な予感がした。

 腫れ上がって開かない瞼を、曲がってしまってもう曲がらない指で無理やりこじ開ける。

 そして酷く痛む体にトドメを刺すような気持ちで身を起こすと、夕日に焼かれた檻の外で血まみれの小さな身体が引きずられていた。


 さっきの声が断末魔だったのだろうか。

 くすんだ赤色の長い髪は泥に塗れて、誰の目にも生者として映ることはないだろう。


 取り返しのつかない大切な何かが壊れた気がした。


 少年は叫んだ。


 潰された喉では声という声が出なかったが、ただ叫んだ。

 頭に響く鈍痛も、内臓を焼くような吐き気も、腫れ上がった全身の違和感も忘れたまま、鉄の格子に組み付きながら叫ぶ。


 二十メートルもない少女との距離は遠すぎて、叫ぶ想いの強さに不釣り合いな自分を激しく呪った。


 何かを叶えることに代償が必要だというのなら、己の持ち得るすべてをそこで捧げただろう。


 だが、そんな小さな少年の未来や覚悟になど何の価値もない。


 青黒く腫れた少年の手は届かず、もう動かない少女は引きずられ、荷馬車に放り込まれて、二度と村に帰ってくることはなかった。




 それから幾つかの月日が流れた満月の夜、その村に不釣り合いな豪華な馬車がやってきた。


 車体の足回りに組み込まれた精巧な板バネのギミック。

 ドワーフたちによって鍛えられた金属部品。

 エルフの魔術によって圧縮成長させた木材。

 この村の人間には理解できない最先端の技術が組み込まれた工業の結晶。

 黄金の装飾が施されたその大きな車体と車輪を、月明りの下で純白のユニコーンが四頭掛かりで引いていた。


 月夜に揺れる四つの車外灯の光が見守る中、重圧感のあるキャリッジの扉が開く。


 そこから降りてきた人物は、松明を手に集まった多くの村人たちに敬われながら、檻の中で廃人のように座り込んでいた少年に近付いて、言った。


「キミがこの村の忌み子か」


 夜気よりも冷たい声。

 少年は、死んだ瞳でそいつを見上げる。


 黄金の長い髪と純白のドレスが風に靡いていた。

 赤い瞳を輝かせ、神々しいまでの美貌を持て余した若い女。


 村人の一人が鉄の檻の鍵を開けて、痩せ細った少年の腕を掴み、乱暴に外へと引きずり出した。


 狂犬を扱うように少年の頭を地面へと押さえつける村人に、女は言った。


「手を離して」

「しかし……」

「逃げたら殺すから、いいよ」


 冷酷な何かに満ちた冷たい笑み。


 巨大な氷山のような迫力に気圧されながら村人が手を放すと、少年は前のめりに倒れた身体を辛うじて起こし、女を見上げた。


 檻の外、広がる視界。

 自分を取り巻く広大な夜の世界の中心。

 月明かりの下に佇むその女は、神か――悪魔か。


「キミ、このまま一生そこで暮らしたい?」


 嫌に美しい女の声。

 水晶を連想させるそれが、少年の心深くまで響き渡る。


 すべてが美しすぎる、人を超えた何かだと確信させるような女。

 少年の本能は警戒の鐘を大きく鳴らしていたが、それは同時に憧憬と甘い運命を感じさせるものだった。

 警戒すべきものは、時に頼もしいものでもある。


「嫌だ」


 死んだ瞳に死人ならざる想いを映して、少年はハッキリと言った。


 少年はこの檻の中での暮らししか知らないが、自分の待遇が世の中において悪い方であるという確信はあった。

 以前、少女が話してくれた外の世界は、聞いているだけで心の踊るものだったからだ。


 そして、いつの日か少女と見上げた夜空は美しかった。


 鮮明に蘇る日々。


 月の無い夜。

 漆黒に明暗の青と紫を溶かして混ぜたような空に、無数の光を散りばめた満天の星々。

 その中でも特に煌めく、一等星たちが飾る背の高い木。

 そんな最上級の背景の下に並んでいた、黒い家々のシルエット。


 やがて月が輝きを取り戻し、満月の夜が訪れると、優しい光が大地を照らした。

 檻の中から見える四角い世界は、雪景色のように白く輝き、寄り添う二人を見守るように、この心を容易く奪っていた。


 僕の心を奪ったもの――それは、本当は隣にいたキミの温もりだった。


 走馬灯のように頭を巡る、少女と過ごした日々の光景。

 今の現実よりも鮮明なそれらは、自分自身が生まれたことを肯定するほどに強烈な体験だった。


 今宵も満月が少年を照らしている。

 見知らぬ、それも他のニンゲンたちに敬われている女。

 檻の中で生かされ、すべてを奪われ、世界に痛めつけられてきた少年にとって、恐しくないはずがない。


 だが。


「私と一緒に来ないか? キミに、守って欲しいものがあるんだ」


 これまでの人生で、他者から誘われるということがなかったため、その言葉の意味に対して実感が湧かなかった――〝守る〟という概念以外は。


 大切な少女の笑顔を思い出す。


 幸福ーー生きる意味を見出すことができた時間。人生と世界の輝き。

 そして、残酷に沈む夕日に見降ろされた、少女の最後の姿。

 あの日、この村に響かせた叫び声よりも強く大きかった心の叫びが、時を超えて、沈黙と涙になって少年の頬を静かに流れる。


 自分にもっと力があれば、少女を助けることもできたのだろう。

 この世界は、力無き者の存在価値を認めない。

 力無き者の幸福は罪であり、罰という形で蹂躙されるのだ。


 ならば、自分が向かう先はひとつしかない。


 ありとあらゆる苦痛を得て、愛するものを奪われるだけの力無き獣は、滲んだ景色の中で、冷たく輝く無慈悲な夜の女王を見つめて答えた。


「僕を連れてってよ……奪われない世界に」


「キミがつくるんだ」


 金髪の美女は不敵に笑い、女として極めて美しい右手を優しく差し伸べてきた。


 悪魔のように妖艶なその掌を、少年は強く握り返した。




    

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