7.綺麗な絆創膏と汚れたカツ丼
巨大な本の中に入り、人様の人生の一部を見るという世にも奇妙な体験をした日から二日、僕は部屋に引きこもっていた。
熱は一日で下がったのだが、どうしても外出する気になれなかった。どうしたらトキさんを成仏させてあげられるのか分からないのだ。
なぜ僕がこんな思いをしなければならないのか。
しかしあの物語を見てしまった以上、放っておくこともできない。なによりトキさんが気の毒すぎる。
窓の外は今日も見事な秋晴れだ。鍵太郎はまだ姿を現していない。
「大学行くか………」
今週はほとんど休んでしまったので本気でヤバい。体調不良が続いたのは事実だが、そんなことは父の前では理由にならない。
こうして部屋で悶々と考え込んでいても始まらないので、とりあえず出来ることをやろうと大学へ行くことにした。
大学へはバスで通学している。乗り物は苦手だが片道二十分程度なのでなんとか我慢できた。
最寄り駅で降り、商店街を通り抜けて徒歩五分だ。途中、両脇にずらりと並ぶ、開店したての店から揚げ物のいい香りが漂ってきた。
後ろ髪を引かれつつ揚げたてのコロッケを見送り、タイル張りの道を歩いていると足の裏に鋭い痛みが走った。
「いてっ」
もしかしたら肉刺が潰れたのかもしれない。
一昨日、慣れない登山―――丘だけど―――をしたせいで、足の裏に肉刺ができてしまったのだ。潰さないように気をつけて歩いていたのだが。
この商店街の道の中央にはベンチが点在している。店で買った惣菜を座って食べられるよう、配慮して設置されたものだ。僕は一旦ベンチに腰掛け、靴と靴下を脱いで患部を見てみた。
「あー、ズル剥けてる」
困った。絆創膏がないと歩くのが辛そうだ。近くにドラッグストアがなかったかと見回していると、足元を小さな物体が走り抜けていった。
それと同時に片方だけ脱いでいた靴も消えた。
「え?」
何事かと見ると、リードに繋がれたチワワが僕の靴を咥えて走り去っていくではないか。
「あっこら!今何咥えたの!待ちなさい忠勝!」
チワワに忠勝とは。僕に劣らずすごいネーミングセンスだ。
僕の靴を咥えたまま走っていこうとするチワワを飼い主が強引に止めた。
「あのー、その靴僕のなんですが………」
「ごっごめんなさい!今お返ししますね……っ!」
なかなか離そうとしない靴を力ずくで取り上げ、飼い主は平謝りで靴を返してくれた。
その時、初めてお互いの目が合う。
胸のあたりまで伸びたセミロングの髪は癖も枝毛もなく、艷やかな黒髪でサラサラと風に揺れていた。
乳白色の肌はシミ一つなく、薄紅に色づいた頬と赤い唇がその肌の美しさをより際立たせている。
何より印象的なのが黒曜石のような大きな瞳だ。長い睫毛に縁どられてキラキラと輝いていた。
誰がなんと言おうと、間違いなくハイレベルな美少女だ。そして僕はこの顔をよく知っている。
「原田さん!?」
「保戸塚くん!?」
僕と彼女の声が見事に被った。
スムースコートチワワの忠勝は全体的に黒く、目の上に白い眉毛のような模様が入っている、ブラック・タンと呼ばれる毛色だ。今は飼い主の膝の上におとなしく座っているが、その視線は僕の靴にロックオンされている。よほど気に入られたらしい。
「ホントにごめんね、靴に歯型が付いちゃったね」
「う、ううんっ大丈夫だよ!こっちこそ絆創膏もらっちゃって…あっありがとう」
絆創膏をいつも持ち歩いてるなんてさすがの女子力だ。相変わらず変わってないな。
飼い主こと、原田小鈴さんは高校時代のクラスメイトだ。
誰もが認める美少女で、クラスのマドンナ的な存在だった。彼女の可憐さにみんな憧れていて、実は僕も例に漏れずその中のひとりだ。同じクラスだというのに眩しすぎてほとんど会話したことはなかったが。
そんな彼女が不登校気味だった僕のことを覚えていてくれたなんて、奇跡という他ない。
いや、彼女の人柄故か。いつも分け隔てなく誰にでも優しい人だった。
「それにしても久しぶりだね、卒業以来だから一年半?少しは丈夫になった?保戸塚くん、よく保健室行ってたもんね」
「えっ、えーと…相変わらず、かなぁ」
「そっかー、大変だね。でもこればかりは焦っても仕方ないし…時間かけてゆっくり改善していけば大丈夫だよ!」
「あ、ありがとう」
こういうの天使の微笑みって言うんだろうな。原田さんはキラッキラの笑顔で励ましてくれた。
なんか元気出てきたぞ。
「あっ引き止めちゃってごめんね、これから大学?」
「うん。原田さんは?」
「私はこれからちょっと用があって…この子のお散歩が終わったら出かけるの」
そう言いながら原田さんは忠勝を地面に下ろさず、抱きかかえたまま立ち上がった。まだ僕の靴を狙っている事を分かっているのだろう。
名残惜しいが僕も原田さんにならって立ち上がる。絆創膏のお陰で普通に歩けそうだ。
「それじゃ、勉強頑張ってね!」
彼女は踝まであるロングスカートを翻して数歩歩き出した。が、何故かピタリと止まって振り返った。
「――――あの………っ」
「?」
「うっううん、なんでもない。またね!」
何か躊躇った様子で言いかけ、途中でやめてしまった。なんだったんだろう?
不思議に思いつつ、僕はしばらく黒髪とスカートを揺らしながら走り去っていく彼女の細い背中を見送っていた。
「っと!遅刻する!」
原田さんは”またね”と言ってくれた。――――会えるといいな。
彼女の姿が見えなくなってから、僕は反対方向へ歩き出そうとした。
そこで今まで腰掛けていたベンチに小さな花柄のポーチが置きっ放しになっていることに気づく。
もしかしなくてもこれは原田さんのものだ。このポーチから絆創膏を取り出したのだから。
「か、返さなきゃだよね。これは仕方ないよ、うん」
予想外にもこんなに早く、また会えるチャンスを得たことに素直に感謝しつつ大学へ向かった。
先生の話を聞いているとどうしてこう、比例して目蓋が重くなっていくのだろう。
必死に睡魔と格闘しながら先生の呪文のような話を聞くこと数十分。やっと講義が終わり、昼休憩に入った。
我が校の学生食堂は、田舎にしてはそこそこ小洒落たカフェのような内装だ。窓の外はウッドデッキになっており、外での食事も可能になっている。今日は小春日和で外の席はほぼ満席だ。
僕はブレンドコーヒーのみを片手に室内の一番端の席を確保した。
空腹は感じているが、基本、外食はしない。理由は簡単、僕にとっては量が多すぎて半分しか食べられないからだ。お金を払うとは言え、毎回半分以上も残しては作り手さんにも食材にも申し訳ない。
弁当という手もあるが、母には中学高校と六年間も作ってもらっていたので、流石に大学までは頼めなかった。
「おお?珍しい奴がいるぞ~、保戸塚くーん今日は発作は大丈夫~?」
過呼吸症候群を患っている者に対し、人の反応はざっくり分けて二種類ある。
一つは原田さんのように体の心配をしてくれる理解のある人。
もう一つは――――。
「ほっとけほっとけ、そんな甘ったれた根性のやつ。過呼吸なんか大したことないのに大袈裟なんだよ、休んでばっかでよ。そんなの何もしたくない奴のいい訳だろ」
――――過呼吸を単なる甘えと捉え、発作の苦しさを微塵も理解する気のない連中だ。
(何もしたくないとか誤解もいいとこだ。発作さえなければやりたい事は山ほどあるのに)
この二人、長谷川と中野は講義が一緒になることが多くて、以前二人の前で発作を起こしたことがあった。その時のシラけた目を今でも覚えている。それ以来何かとからかってくるのだ。
実はこのことも大学に行きたくない理由の一つだったりする。
無視を決め込んでいると、しつこい方…長谷川がさらに絡んできた。今日は機嫌でも悪いのか。
「あれっ?ムシ?ムシしちゃう??えーそりゃないんじゃないのー?心配してやってんのにさぁ!」
「っ!」
胸ぐらを掴まれ、引き上げられたせいで椅子から腰が浮く。その拍子に持っていたコーヒーが溢れてジーンズに染みを作ってしまった。アイスで良かった。
「うぉ!?」
突然、僕の胸ぐらを掴んでいた長谷川が横に倒れた。まるで足払いを受けたようだ。―――と言うより受けたのだ、実際。
彼は片手で持っていた、本日の日替わりメニューであるAランチをトレイごと派手に落とし、カツ丼やら味噌汁がぶちまけられた床の上に倒れてしまった。高そうな白い麻のジャケットが台無しだ。
倒れた長谷川の先には鍵太郎が無表情で立っていた。
(げっ!?鍵太郎!!こんなとこに………っ)
こんな人目の多い場所に黒マントにシルクハットで登場とかイタ過ぎる。
「何やってんだよ長谷川!ハズいっつーの!」
「わっ分かんねーよ!急に足引っ掛けられたみてぇに……ッッ」
二人とも全く鍵太郎の存在に気づいていない。周りの学生たちも派手に転んだ長谷川を見て笑いをかみ殺しているのみだ。どうやら僕以外には鍵太郎は見えていないらしい。
その僕にしか見えていない鍵太郎は――――、珍しく怒っているように見えた。




