6.白いワンピースとおはじき
「トキ、ご飯食べちゃいなさい」
「…………」
あれから春子さんはトキさんが連れてきた父親によって無事救出されたが、担ぎ込まれた病院で残酷な宣告を受けた。
右足首の骨折が酷く、一生杖なしでは歩けない体になってしまったのだ。
春子さんはそのまま入院し、父親が付き添っている。
今、トキさんは自宅で母親と遅めの夕食―――といっても、塩むすび一つだ―――をとっているところだ。
家は六畳ひと間の小さな平屋で、あちらこちらだいぶ傷んでいて生活は苦しいようだ。
トキさんはかなり責任を感じているようで、帰ってからずっと部屋の隅で膝を抱えて俯いたまま、母親の呼びかけにも耳を貸さない。
裸足のまま全力疾走したので怪我をしたのか、痛々しくも両足には包帯が巻かれている。
「トキ…はい、これ」
母親は箪笥から一着の白いワンピース―――この時代では何という名称なのか知らないが―――を取り出し、トキさんの前に置いた。
「この前は端切れが少なくて体の小さい春子の服を先に作っちゃったけど、先日お向かいの工藤さんがうちでは使わないからって端切れを多めにくれてね、今日やっと出来たから…遅くなってごめんね」
トキさんは少しだけ顔を上げ、白いワンピースに視線を向けたが決して触れようとはしなかった。
むしろ睨むように凝視している。取り返しのつかないことをしてしまった自分に腹を立て、やり場のない怒りをワンピースに向けているかのようだ。
「いらない…こんなの」
白いワンピースを睨む目から大粒の涙が溢れだした。
「私のせいで春子が………!ごめんなさいっごめんなさいっっ」
トキさんはとうとう大声で泣き出してしまった。
母親はトキさんのそばに寄ると、そっと我が子を抱きしめて言った。
「トキのせいじゃないよ、これは事故なの。事故だったのよ――――」
「う…」
その様子を三和土で見ていた僕は脱力したように座り込んでしまった。体が異様に重いのだ。
僕は昔から偏食の上に少食で、今でこそだいぶ好き嫌いもなくなってきたが、相変わらず食べる量が少ない。なので栄養が圧倒的に足りないせいで男の割によく貧血を起こす。
この体の重さは酷い立ちくらみを起こした症状にとても良く似ていた。腕を持ち上げるのもやっとの状態だ。
「紡さん?」
「ここに来てからずっとだったんだけど…今、滅茶苦茶体が重くて押しつぶされそうなんだ」
「それは恐らくトキさんの心情の重さだと思います。気持ちの浮き沈みがこの世界に反映されるのでしょう」
だとしたらなんて重い―――。十歳前後の子供が背負う重さじゃない。
鍵太郎に支えられて何とか起きていられるが、そうでなければ倒れそうだ。
「ここから出られるまでもう少し頑張って下さい」
「う、うん…」
翌日、ようやく鶏が鳴き始める早朝。
トキさんがこっそりと家を抜け出した。………なんとなく嫌な予感しかしない。
昨日大泣きしたことと、母親の慰めが効いたのか、少し気持ちが浮上したようだ。僕の体も少し軽くなってなんとか動くことができた。
トキさんは小走りで丘の方へ向かっていった。そのあとを付いていくと、昨日惨劇のあった丘の頂上へたどり着く。
一本杉には春子さんを救出するために使われた縄が括りつけられたままだ。
(なんで片付けておかなかったんだお父さん…!)
案の定、トキさんはその縄を使って崖を降り始めた。
「だから危ないってーっ!やめなさーいっっ!」
無駄と知りつつ叫ばずにはいられない。そんな僕をよそに、トキさんはゆっくりと慎重に崖下まで降りることができた。なんて逞しい少女だ。いや、この時代の子供たちはみんなこうなのか?
崖の下は草が生い茂っていて土が見えない。思えばこの草むらがクッションとなって、春子さんは一命を取り留めたのかもしれない。
「あった!!」
しばらく何かを探していたトキさんが声を上げた。手には昨日、彼女自身が投げ捨てた赤い巾着袋。それを大事そうにポケットにしまうと、降りた時と同じように慎重に崖を登り始めた。
無事に崖を登り切り、ポケットにしまった巾着袋を取り出すと満足げに笑みをこぼした。
そして次に向かった場所は病院。どうやらトキさんは春子さんに巾着袋を返そうとしているようだ。
すると病棟の一角から子供の鳴き声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。
「こんな杖使いたくない!おばあちゃんみたいでヤダ!!」
意識を取り戻した春子さんは父親に状況を説明されたのか、杖をとても嫌がっていた。
それを聞いていたトキさんの顔は、先ほどの笑みは完全に消えてしまっていて、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
赤い巾着袋を胸に抱いたまま、その場に立ち尽くす小さな背中がとても悲しい。
僕はこんな状況においても、何もしてあげられない自分が情けなかった。
――――役立たずでごめん。
その時、見ていることしかできず、途方にくれていた僕は不意に浮遊感を感じた。
動いてもいないのに、目の前のトキさんが遠ざかっているのだ。いや、自分が離れているのか?
「あ、あれ?ちょっ………わわっ!?」
後ろから何かに引っ張られるようにこの世界から放り出されてしまった。尻餅をついた状態で辺りを見回すと、そこは目次の空間だった。
「え、終わり?」
「そのようですね、お疲れ様でした」
「いやいやいやいや、あそこで終わり?続きは?姉妹の仲はどうなったの!?」
「その続きは次の項目からなのでしょう。話を途中で切って、次の章へと読者の興味を誘う。物語とは往々にしてそういうものです」
「そんなー!話違くない!?心残りの原因分かんないじゃん!!」
「こういう事もあるそうです。頑張って考えてください」
そう言うと鍵太郎は銀色の鍵に姿を変えた。ここから出ろということか。
「…………ッッ!!」
詐欺に遭った気分だ。僕は今朝、治ったはずの目眩を再び覚えた。
鍵を使って外へ出ると、そこは元の青空が広がっていた。時計を見ると時間は五分と経っていない。物語の中にいる間は時間が止まっているようだ。
なんだかとてつもない体験をしてしまった。
故人の物語の中に入るということは、その人の心とシンクロするということではないのか。
とても危険なことではないのだろうか。あの鉛のように重い空気を思い出すと少し怖かった。
傍らに立つ鍵太郎を仰ぎ見ると、彼は黒いマントを風にたなびかせ、一本杉を見つめて佇んでいる。
「なんで僕なんだ」
「――――すみません、不可抗力でした。そのことに関しては後ほどあの方から説明があると思います」
僕の言いたいことが分かったようで、ゆっくりと振り向いた鍵太郎は理由も問わずに答えた。
「また”あの方”か…誰だか知らないけど後で絶対文句言ってやる」
「ご存分に。これからどうされますか?」
「…………今日はもう帰りたい」
翌日、肉体的にも精神的にもかなりダメージを受けた僕は、疲れが出たようで高熱を出した。
目の前に一冊の鍵付きの本が浮いている。扉ほどもある巨大な本だ。
ふと気配を感じて後ろを振り返ると、そこにも同じような本が浮いていた。
右にも一冊、左にも一冊。本は次々と増殖していく。僕は四方八方を本に囲まれ、とうとう本の山の下敷きになってしまった。
「くっ苦しい………っっ!――――はっ!?」
悪夢にうなされていた僕は、目が覚めたことでやっと本の地獄から解放された。
飛び起きた拍子に額に乗せてあったタオルがベッドの下に落ちる。緩慢な動きでそれを拾うと、とても温くなっていて熱がまだ下がっていないことを知る。
役に立たなくなったタオルをそのまま床に落とし、再びだるい体をベッドに横たえた。
「体弱いんですね」
この唐突な登場にもだいぶ慣れたが、プライベートな空間なのでもう少し配慮が欲しい。
「あー…うん、いや、体が弱いっていうか……」
メンタルが弱いのだ。情けなくてあまり触れて欲しくない部分だ。
「トキさんの心残りの原因…見つけて解決してあげなきゃいけないんだよね」
「私もお手伝い致します」
「うん………」
タオルは温くなっていたはずなのに額が冷たい。気持ちよくて眠くなってきた。
ぼんやりとした意識の端で、黒い袖が見えた。
(ああ、鍵太郎の手か。冷たい手って便利だな)
トキさんはあの後どうしたのだろう。おはじきは春子さんに返せただろうか。春子さんはトキさんを恨んだりしていないだろうか。
最後に見たあの状況では、僕だったらとてもじゃないけどおはじきを返すことなんてできない。それどころか、話しかけることもできないかもしれない。
謝るってとても勇気のいることだ。
――――トキさんも同じなのかな。
僕は睡魔に抗えず、幼い姉妹の行く末を憂いたまま深い眠りに落ちた。




