9.スプラウトのド根性
「くくく…っ…ひゃははははっ!!!」
紙魚は高らかに笑い、紡の手で白金の本を掲げた。
”知識”というものを知り、人間に対する憧憬とも言える感情が日毎募った。そして渇望するようになった白金の本を、ついにその手中にした紙魚は狂喜した。
「やっとだ…。やっと手に入れたぞ、白金の本を!!」
「それに触るなっ!!その本は…っ!!」
言いかけた鍵太郎に紙魚は視線をやった。本来の朗らかな紡では決して見せない、仄暗く陰湿な視線だった。
「くくっ、おまけに白金の鍵まである。そうだな…折角の白金の本だ。ただ喰らうのでは勿体ない。まずはじっくり中身を読んでから喰らうことにしよう」
「させるかっ!!」
鍵太郎が紡の手から白金の本を奪おうとした。
「おっと。近付いたらこいつを殺す」
「両手が塞がっているのにどうやって…」
「簡単だ。息を止めればいい。人間の防衛本能など関係ない。今はオレがこの体を支配しているんだ。コイツが死んだところでオレには何のダメージもないぞ。また新しい体を探せばいいんだからな」
「くっ……!貴様っっ!!」
岩壁に背を預けた紡から少し距離をあけて、鍵太郎と冷香の動きが完全に止まった。時折突っ込んでくる他の紙魚を斬り倒すのみだ。
「さぁ、とっとと鍵に変化しろ、白金の鍵。冷香は他の”連中”を片付けてろ!」
紡が不遜な態度で命令してきた。しかしこの要求は絶対に飲むことはできない。それだけの理由があるからだ。
「…頼む。その本だけはやめてくれ…っ」
俯き、シルクハットの長いツバに隠された表情はどういったものなのか分からない。しかし、絞り出すような悲痛な感情が込められた声に、何か特別に譲れない事情かあることに気づき、紙魚は理由を問うた。
「何故だ」
「……それは紡さんの父親の魂だ!!子が親の魂を喰らうなんてこと絶対にさせられないっ!!!」
「――なん…ですって…!?」
声を上げたのは冷香だった。
事前に話を合わせていたので、本に危害は与えないと分かっていたにも拘らず、紡の妙に警戒した様子が少しおかしいとは思っていた。
今、真実を知って、紡が必死に白金の本を守ろうとしていた理由が分かり、冷香は己の復讐心を激しく後悔した。
分かっていたのだ。本当は、復讐などしても真の安らぎは得られないと。
虚しさが残るだけだと分かっていた。それでも一矢報いなければ気が済まなかった。しかしその結果は…、自分に協力してくれた心優しい青年を、とてつもない窮地に追い込んでしまった。
「あ…、わたくし…わたくしは、何てことを…っっ」
このままでは紙魚にいいようにされてしまう。何とかしなければならない。しかしこの絶望的な状況では、何一つ良い手が浮かばない。
白金の鍵と金の鍵。上位の鍵が二人も揃ってなす術なく立ち尽くすのみだ。紙魚もその事を知っていて、厭らしい笑みを浮かべている。
――が、しかし。
一つだけ、この場にいる誰もが気付いていない点があった。
「――――っっ!?ぐ、うぅ…っ…っ」
優位に立ち、ほくそ笑んでいた紙魚が突然呻き始めた。
「で、出て、い、け…!」
「きっ…貴様っまだ意識が残って……っ!?」
紡の意識は完全には途切れていなかった。暗闇に飲まれる前に、彼を留めるものがあったのだ。
(なん…だ?お腹が熱い…すごく眠いのに…お腹が熱くて眠れない……てか、あっつ!!!)
僕は紙魚に憑依され、意識がシンクロした後に急激に眠気に襲われた。しかし眠ることはできなかった。
腹部に熱を感じたからだ。
(この感じ…父さん?)
服の下にしまい込んだ本が熱を帯び始めている。熱はどんどん上がり、その熱のお陰で朦朧としていた僕の意識は、完全にクリアになった。
「くくく…っ…ひゃははははっ!!!」
(ええぇぇっ!?く、口が勝手に笑ってるー!!しかも下品だっ!!)
自分の意志とは裏腹に、体が勝手に動いている。勝手に喋り、勝手に動く体をどうにか止めようとするが、己の意思ではどうにもならなかった。
「簡単だ。息を止めればいい。人間の防衛本能など関係ない。今はオレがこの体を支配しているんだ。コイツが死んだところでオレには何のダメージもないぞ。また新しい体を探せばいいんだからな」
(冗談じゃない!自分で息止めて死ぬとかそんな間抜けな死に方してたまるか!!あと、僕の一人称は”オレ”じゃなくて”僕”だっつーの!!)
「……それは紡さんの父親の魂だ!!子が親の魂を喰らうなんてこと絶対にさせられないっ!!!」
(鍵太郎…!僕が体を乗っ取られたせいで手が出せないんだ…っっ)
冷香さんが辛そうな顔をしている。この本が僕の父親だと知って、きっと自分を責めているんだろう。鍵太郎も冷香さんも、完全に動きが止まってしまった。紙魚に対抗できる鍵が、攻撃を封じられてしまったんだ。
今、この状況を打破できるのは、僕しかいないじゃないか!!
気を強く持て!
腹に力を入れろ!!
この体は僕のものだっ!!!
「で、出て、い、け…!」
力を振り絞って紙魚の意思に抵抗した。掠れて弱々しい声だったが、それだけで鍵太郎はその声が”僕”のものだと気付いたくれた。その証拠に彼の白金の目が鋭くなった。
「僕の中から出て行けぇぇっ!!!」
「うっ…ぐぅぅっ!!」
森川さんの時と同じく、僕の体の輪郭がぶれ始めた。徐々に体の表面に出てきた紙魚を、鍵太郎は見逃さなかった。
離れていた間合いを瞬時に詰めて、僕の体から浮き出てきた紙魚の首を掴み、一気に引き剥がした。
「冷香っ!!」
鍵太郎は渾身の力で紙魚を冷香さんに向けて投げつけ、脱力して倒れ込む僕を支えてくれた。
僕は相棒に背中を預けながら、投げ飛ばされた紙魚の顔を見た。ぽっかりと穴の空いたような目が、僕を見ている。
「未来永劫、消え失せなさい――化物っ!!!」
待ち構えていた冷香さんが、手にしたレイピアをひと振り、ふた振りと連続して振るうと、空中で紙魚の体がバラバラになった。
「ぐああああぁぁぁぁっっ!!!」
耳ではなく、胸に突き刺さるような悲鳴だった。ただの悲鳴ではない、明確な意志を持った知恵のある生き物の、怨念のこもった悲鳴―――。
斬り刻まれた紙魚は、黒い霧となって霧散し、ひと欠片も残さず消えてしまった。
「冷香…終わったのか…?」
「真人!気がついたのね」
気を失い、倒れ込んでいた森川さんが目を覚ました。まだ酷くだるそうな顔をしている。長い時間紙魚に体を乗っ取られていたせいで、僕よりもずっと体力を消耗しているようだ。
「真人…本当にごめんなさい。貴方を利用してしまって…」
「もういいんだよ。それよりも…気は済んだのかい?」
「………」
「いや、すまない。今の質問はなしだ。諸悪の根源を倒すことができたんだ、今はそれで良しとしよう」
「ええ、――ありがとう…真人」
冷香さんの顔を見れば、気が晴れていないことくらいわかる。
圭一さんはもう転生することもなく、二度と還ってこないのだから。
でもこれで罪のない魂を横取りされる心配はなくなった。紙魚が集めた本も、悪霊にならずに済んだのだ。
「紡様、鍵太郎様、お二人にもお詫び申し上げます。紡様のお父様まで巻き込んでしまってごめんなさい…そして協力してくださってありがとうございました」
冷香さんはドレスの裾を軽く摘んで膝を折った。そして虚しさと悲しさと、ちょっとだけ安堵した笑みで言った。
「さぁ、閻王の元へ参りましょう」
後に森川さん本人から聞いたことだが、紙魚に体を乗っ取られた直後はまだ少し意識があって、冷香さんの思惑に気付いた森川さんは、敢えて紙魚に体を明け渡していたのだそうだ。
”惚れた弱みだよ”と、彼は照れ臭そうに頭を掻いていた。




