8.化物の夢
紙魚の憑依から解放された森川さんは、ぷつりと糸が切れた操り人形のように、その場に倒れ込んだ。
「……れ、いか……?」
冷香さんは森川さんの傍らに寄ると、やつれてしまった頬をそっと撫でて言った。
「――真人…ごめんなさい。ゆっくり休んでいて」
森川さんは朦朧としていたが、冷香さんに触れられると安心したように焦点の合わない目を閉じて、意識を手放した。
「ぐっ…ううっ…、返せっその体はオレのものだっ…!!」
本来の醜い姿を現した紙魚が、ゆらりと立ち上がって恨めしそうに喚いた。その声は乾いてひび割れたような、ノイズ混じりの酷く耳障りな声色だった。白い炎に焼かれた皮膚が所々焼けただれていて苦しそうだ。
鍵太郎の説明によると、この白い炎は悪しき魂のみを焼き払う浄化の炎なのだそうだ。閻王に事情を説明して、貰い受けたものらしい。
「違うわね。お前の体はその醜い紙魚の体…第一この状況ではその姿の方が都合がいいのではなくて?真人の体では本来の力が発揮できないでしょう」
冷香さんは不敵に微笑んで、かかって来いと言わんばかりに紙魚を挑発している。
「お前が本…”人間の知識”と言った方がいいかしら。それに執着しているのは、服従するふりをしてからすぐに気づいたわ」
何かを思い出したのか、くすくすと可笑しそうに金髪の巻毛を揺らしながら、彼女は笑った。
「取り分け、白金の本への執着が尋常ではなかったわね。目の前にあっても、表紙を開ける術がなかったんですもの。でも――お前は紡様たちと出会った」
冷香さんは紙魚から視線を外すと、僕と鍵太郎を指さした。
「ほら、すぐそこに白金の本と鍵があるわよ?」
紙魚は冷香さんの白い指に導かれるように、ぽっかりと穴が開いたような目を僕たちに向けた。
渇望してやまないものを目の前にして、今にも飛びかかってきそうだ。僕は恐怖を感じて思わず後ずさった。
「でも駄目。お前はその白金の本を読むこともできないし、食べることもできないわ。…だって、今ここでわたくしに斬り刻まれるのだからっ!!」
あの慎ましやかな冷香さんとは思えないほどの、鋭利な刃物のような声で彼女は怒鳴った。レイピアを取り出すと同時に、紙魚に向かって跳躍した。
冷香さんと知恵をつけた紙魚の戦いが始まったが、僕たちも油断はできない。なにせこの洞窟内にいる紙魚の大群は、僕が持つ父の魂…白金の本を狙っているのだから。
鍵太郎が出してくれた光の玉を持っていれば、ほぼ安全と言えるが実は一つだけ欠点がある。
(う、腕が…)
この光の玉は頭上に掲げていなければならない。頭より下に下げてしまうと己の体が壁となって影を作ってしまう。そうなると背中がガラ空きになってしまうのだ。
いつもはそれ程時間をかけずに山門の中へたどり着けるのだが、今回はそうもいかない。
白い炎を貰う代わりに、閻王のもとへ冷香さんを連れて行かなければならないからだ。左手で父の魂を守っているので、先程から右腕のみで光を掲げている。重さは感じないが、ただ腕を上げでいると言うのも時間が長くなればきついものがある。
「う…」
「紡さん、岩壁に背を付けて下さい。そうすれば光の玉を下げても背中は守れます」
「あ、そうか。実はもう腕が限界だったんだよ」
助かったと、僕はゆっくり岩壁に近付いた。その時、ほんの僅か、隙が出来てしまった。
「紡様っ鍵太郎様っ!お気を付けになってっ!!」
「え…、―――!?」
「お前の体、貰うぞ」
冷香さんが叫んだと同時に、足元から声がした。冷香さんと戦っていた紙魚は、一瞬の隙を突いて己の体を霧状に変化させ、僕の足元にある僅かな影に潜り込んでいた。
紙魚の行動の意味に気づくもすでに遅く、僕は言葉を発するまもなく体を乗っ取られてしまった。
「紡さんっ!!!」
鍵太郎の叫び声が聞こえたのを最後に、意識が遠のいていく。
そして僕は深い深い闇の中へ堕ちていった。
意識が浮上した時、辺りは真っ暗で目の前には何もなかった。
ただただ、無だった。
己の中に湧き上がる感覚は空腹のみ。本の形をした人の魂を欲してやまなかった。
僕はひたすら、同族たちを押しのけて魂を喰らい続けた。
――魂を…喰らう?僕が?
いや、違う。僕は人の魂なんか食べない。これは紙魚の記憶だ。体を乗っ取られて意識がシンクロしてるんだ。飲まれたら駄目だ。ああ、でも…。
魂、食べたいなぁ。
僕は…、違う。この記憶は僕じゃない。これは紙魚の…ああ、もうどうでもいいや。
魂を食べ続けた僕の頭の中に、ある日突然”し”と言う形が浮かんだ。”し”ってなんだ?
さらに僕は魂を食べ続けた。すると”し”と言う形が、”し”と読み、発音するのだと理解した。
次に覚えたのは”あ”。どうやらこれは文字と言うものらしい。組み合わせると”言葉”というものになると言うことが分かった。
また文字を覚えた。”わ”、”せ”…。
し、あ、わ、せ、
言葉には”意味”があるらしい。意味ってなんだ?
”しあわせ”って――なんだ?
本の形を成した魂を食べ続けているうちに、色々な言葉が頭の中に流れ込んできた。
人間には”感情”というものがあるらしい。”しあわせ”を感じている人間は、とても満たされていて心地よさそうだった。
僕もその気持ちを感じたい。どうしたら”しあわせ”を感じることができるのだろうか。
もっと知りたい。もっと、もっと、もっと!
そうだ、人間になればいいんだ。でも人間はとても美しい生き物だ。僕の体は…全身銀の鱗に覆われて、頭には鋭い触覚が生えている。穴が開いたような目と、耳まで避けた大きな口。
――醜い。自分はとても醜い。どんなに足掻いても、どんなに努力しても人間にはなれない。
ならば、体を貰おうか――――。
「紡さんっ!!」
「………はぁ、やっと引っ込んだ」
「?」
「やはり今度の体は前のより手足が短いな。視線もだいぶ低い…。でもまぁ、若い分肌質もいいし相貌もなかなか整っているから、これはこれでいいか」
「………っ!!!」
鍵太郎は紡…の、姿をした紙魚を見て言葉を失った。体を乗っ取られてしまった紡をどうしたらいいのか分からず、呆然と立ち尽くす。
「誤算でしたわ…!お前…っ、光に耐性が出来ていたのね!」
真人に憑依していた間、この紙魚は光をそれほど嫌がらなかった。それは人間の体を媒体にしているためだと、冷香は思っていたのだ。それ故、元の姿に戻れば紡が掲げる光の玉に怯むと考えた。
しかし実際は違った。元の姿に戻った紙魚は冷香の攻撃をかわし、光に怯むどころか的確に光を掲げる紡へと向かって行った。
「最悪だ…っ!!―――畜生っっ!!!」
ある意味、紡を人質に取られたという事になる。悔しがる鍵太郎をよそに、紡の姿をした紙魚は服の下に隠されていたものを取り出した。
紡の父親の魂である、白金の本を。




