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ココロ物語の鍵と管理人  作者: 土の屋錦二
第三章 白金の管理人
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6.父


 自分の幼少期を目の前で見るというのは、どうにも落ち着かないものがある。

 僕は今、十一年前の自分を見ている。食卓に回鍋肉が並んでいる所を見ると、この日は僕が初めて過呼吸を発症した日だと思われる。

「お待たせ~、お夕飯できたわよぉ」

 母ののんびりと間延びした声に、隣の部屋でテレビを見ていた僕がやってきた。父は既に晩酌を始めていて、夕刊を読みながらビールを飲んでいた。

 この日は父の機嫌が悪かったのを記憶している。酒を飲むピッチがいつもより早かったのだ。今思うと父は中間管理職なので、会社で何か嫌なことでもあったのかもしれない。

「………」

 食卓についた僕は、野菜たっぷりの回鍋肉を見て、げんなりした顔をしている。

「いただきます」

「いただきます…」

「はいどうぞ」

 父に続いて僕も食べ始めた。ピーマン、キャベツ、長ネギ。これらの野菜を見事に避けて豚肉だけを食べている。この頃の我が家の食卓では、いつもの光景だった。

 しかし今日はそれを見ていた父の顔が、いつにも増して険しい。

「紡、お野菜もちゃんと食べなさい。いつも言ってるでしょう」

 すかさず母が注意を促したが、僕は言うことを聞かなかった。ご飯と豚肉が口に入っていたので、無言で首を横に振る。

「ダメよ、しっかり栄養摂らないと背が伸びないわよ?」

「…やだ、食べたくない。いいもん大きくなれなくても」

 口の中のものを飲み込み、母の言うことを拒否して再び肉のみを食べ始めた。僕の皿は肉だけが奇麗になくなり、逆に野菜だけが残っていく。

 この時既に父は食べるのを中断して箸を置いていた。眉間に深い皺が刻まれている。

 そして父は突然立ち上がると、僕の襟首を掴んでそのまま玄関へ向かい、ドアを開けて僕を外へ放り出した。


「そんなに食べたくないなら、もう食わんでいい!!!」


 恐らく近所中に響き渡ったであろう、大声で怒鳴ると玄関のドアを叩きつけるように閉めてしまった。

 その勢いで家中の鍵をすべて掛け、食卓へ戻ってくると残っていたビールを一気に飲み干した。唖然としていた母が我に返り、さすがにやり過ぎだと父を責めた。

「あなたっいくらなんでもやり過ぎよ!」

 そう言いながら外に追い出された僕を家に入れようと玄関へ向かった。そして、


「紡!?どうしたの!?」


 鍵を開けて外へ出た母が叫んだ。その切羽詰まった声にただならぬ事態を感じ、父も外へ飛び出した。

 そこには過呼吸の発作を起こして地面に倒れている僕がいた。

「つ、紡っ!?」

 父は僕を抱き起こして必死に呼びかけているが、僕は呼吸が上手く出来ずに苦しそうに喘いでいるだけだ。


 我が子の尋常でない苦しみように、気が動転した両親は救急車を呼んだ。

 そして搬送された病院で過呼吸症候群と診断された。

「過呼吸症候群は精神的なものなので、癌や心臓病といった命に関わるような病気ではありません。ですが一度発症するとその時の状況…例えば強いストレスを感じた時などに繰り返し発症する病気です」

「そんな…、ではどうしたらいいんですか?」

 父が縋るように目の前の医師に問うた。こんな弱々しい父の姿を見るのは初めてだ。

「心療内科の受診をお勧めします。ご本人の性格にもよるので完治するとは断言できませんが…。取り敢えず今は専門医のアドバイスを聞くことが必要だと思います」



 発作が治まってしまえば体調に何の問題もないので、僕たち親子はすぐに帰ることができた。

「――今日、春に入社した若い社員が退職したんだ」

 もう遅い時間だったので僕を二階の自室に休ませ、居間で目の前に置かれた麦茶を見ていた父が重い口を開いた。

「仕事がきついので辞めさせて頂きます、だそうだ。…たった四ヶ月だ。たったの四ヶ月務めただけで仕事を辞めてしまった」

 母は結露して水を滴らせたコップを手に、父の話を黙って聞いている。

「――私は紡に、血が繋がっていないから、本当の親子じゃないから駄目な人間に育ってしまったのだと、世間から指を指されるような辛い思いをさせたくなかっただけなんだ…!」

 いつも大きく見えていた父が、今はとても小さく見える。この頃の父はまだ白髪が数える程度しか出ていなかったが、その白髪まじりの頭を項垂れている様子は、悲壮感にも似た疲れが色濃く出ていた。

「分かってますよ、あなた。そんなに自分を責めないで…」

「すまない幸、私は取り返しのつかない事を―――」

「もう!しっかりしてくださいよ、”お父さん”!」

「!」

「私はこんな性格ですから?紡に厳しくするなんてなかなか出来ませんけど、これまであなたはあの子に事の善し悪しを厳しく教えてくれたじゃないですか。その事に私はとても感謝してるんですよ」

「幸…」

「私のせいでちょっと我儘に育ってしまったけど、あの子は人を傷つけるようなことは絶対にしないし、とても優しい子に育ってくれてます。それはあなたのお陰なのよ」

「…それは、お前だってそう躾ているからだろう」

 まだ顔を上げられない父を、母は困ったように笑って見つめた。

「そうね。でもあの子、私よりあなたの言うことの方がよく聞くのよ?それはあなたがあの子の”父親”だからでしょう。子にとって父というのは畏怖の存在でもあるのよ。それだけ父としての威厳があるってことじゃないかしら」

 母の言葉に漸く父が顔を上げた。

「今日のことはさすがにやり過ぎ。でも過ぎてしまった事は仕方がないわ。あなたの気持ちを思えば責めることはできないもの。親の責任というものが、紡と血の繋がらないあなたにとっては、とても大きなプレッシャーだったんでしょう?」

 母は父の手を取るとそっと撫でながら言い切った。

「大丈夫!あの子ならきっと病気を克服できます。あなたと私の子ですもの!だからあなたにはこれからも、紡に厳しい態度でいてくれなきゃ困ります」

「幸…!」


 ―――驚いた。あの父が涙を流している。ここまで自分を責めていたなんて…。それに微塵も気付かなかった自分が恥ずかしい。

「大丈夫ですか」

 鍵太郎が気遣ってくれた。自分でも気付かないうちに体がふらついていたようだ。

「さすがにちょっと体が重くなってきたかな。でも大丈夫だよ」

 そう言えばと、最近の自分の状況を振り返ってみたら、発作を起こしていないことに気付いた。鍵太郎の存在が大きいが、両親が根気よく大丈夫だ、大した事ないんだと言い続けてくれた事も効いているのかもしれない。


「幸、明日から帰りが遅くなるから、夕飯は紡と先に食べててくれ」

 父は立ち上がると何か思いついたように言った。

「この家のローンは紡には背負わせない。それがあの子へのせめてもの償いだ」

「まぁ、あまり無理しないでくださいよ?まだ半分以上残ってるんだから」

 母は冗談めいてクスクスと笑っている。後に父の身に起こることを知っていれば、きっと全力で止めただろう。



「………っ」

 僕は今後起こる悲劇を知らず、笑顔を見せる若い両親を見ていられずに、この世界から外へ出た。

 目次のページへ戻り、改めてずらりと並ぶ赤文字の項目を見ると、胸が押し潰されるように痛む。

 母に励まされて立ち直ったように見えたが、あの時のことを父はずっと後悔し続けていたんだ。

「…元の世界に戻ろう」

「他の項目は見なくていいんですか?」

「見なくても、分かるから…」


 鍵太郎に扉の鍵を開けてもらい、本の外へ出た。静まり返った真夜中の住宅街。冷たい空気の中、我が家の玄関先で魂となった父の白金の本を見つめた。

『……?お前は…紡…?』

「――うん、そうだよ…父さん」

『これはどういう事だ、お前は一体何を…』

 死後の自分と、まだ生きている僕が普通に会話していることに混乱した父に、管理人としての役割を説明した。

「すみません、私が巻き込んでしまいました。紡さんには色々と助けて頂いてます」

『紡が…そんな人助けを?』

 頼りなくて情けない息子が人々の魂の救済をしていると知って、感慨深いものがあるのだろう。父の本は感心したように明滅した。本当は僕の方が色々助けてもらっているのだが、ここは僕を立ててくれた鍵太郎に感謝しなくては。

「父さん、あの雪の日…父さんが亡くなってしまった日の事は、――謝らないよ」

『え?』

 一拍置いて、声が震えないように息を吸い込む。涙が零れないように目を大きく開いて、爪が手のひらに喰い込むほど握り拳に力を入れた。


「だって、僕があの日の事を負い目に感じたら、父さんが気に病むでしょう」


 そうしたら父さんはいつまで経ってもこの世に心を残したままになる。父さんを悪霊にするわけにはいかないんだ。そんな事になるくらいなら、僕は自分の心を殺す。

「大丈夫!母さんのことも、この家のことも僕が守るよ。過呼吸の発作だって、最近は出なくなったんだよ!…だから、安心して」

『……お前、いつの間にそんなに強くなって…』

「父さん、僕の父親になってくれて、ありがとう。大好きだよ」

『紡…っ!――ああ、幸の言う通りだ。何も心配することはなかったんだな』

「…うんっ」

『お前が息子であることを誇りに思う。ありがとう、紡…母さんを頼んだぞ』

 最後の語尾は掠れていた。父さんの本はそう言うと、小さくなって僕の腕の中に収まった。

 ――心の蟠りが晴れた証だ。


「父さん…っ……っっ」

 膝をついて白金に輝く本を胸に抱き込むと、堪えていた涙が一滴、また一滴と地面に吸い込まれていく。

 温度は感じないはずなのに、抱きしめた本はじわりと父の温もりが残っていた――。

 名残惜しいがいつまでも泣いていられない。早く閻王のもとへ行って父を浄化してもらわなくては。そう思い、涙を拭って立ち上がった時だった。


「保戸塚…紡…!!」


 地を這うような禍々しい声に振り向くと、果物ナイフを手にした森川さんがいた。



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