2.家庭の事情
閑静な住宅街。
一般的なありふれた家が並び立っている。そのうちの一軒家、黒い屋根に白い壁の割とモダンな家が僕の家だ。
門柱に取り付けてある、保戸塚と刻まれている表札を横目で流しながら小さな門を開け、中に入って奥へ進んだ。
豪邸ではないので、ほんの数歩で玄関の前に辿り着く。
そしてドアノブを握ったところで、僕は動きを止めて溜め息を吐いた。
保戸塚家の家族構成は両親と僕の三人家族。父はサラリーマン、母はパートの共稼ぎで平日のお昼時、この家には誰もいない。
しかし今日は父が居る。調子が悪いようで今日は会社を休んでいるのだ。外出嫌いな僕が公園をぶらついていたのはこのせいだった。
僕は父が苦手だ。いや、正直嫌いだ。ぶっちゃけ大嫌いだ。て言うか、恐ろしい。
父はとても厳格な人で、とにかく昔から僕には厳しかった。そして困ったことに酒が入ると暴力は振るわないまでも、凶暴性が増す。要は怒鳴り散らすのだ。
母はその真逆で、とにかく甘い。僕が中学を卒業するまでは専業主婦として家にいたので、どうしても僕と二人でいる時間が長く、甘やかされて育てられた結果、僕は食べ物の好き嫌いが酷くなっていた。
ある日のこと、だいぶ酔いの回っていた父が食事中の僕の態度を見て、とうとうブチ切れた。
出された回鍋肉の中には僕が食べられる食材が豚肉だけだったので、野菜を全部残したら突然父が僕の首根っこを掴み、玄関から外に放り投げて「そんなに食べたくないなら、もう食わんでいい!!!」と怒鳴り散らして家中の鍵を全てかけてしまったのだ。
放り投げられたとき、手加減されていたので大した怪我はなかったが、何より”外”が恐ろしかった。
夜だったこともあって辺りには誰もおらず、暗闇の中に一人切り離されてしまったような気持ちになったのだ。慌てて玄関のドアに取り縋って開けようと思ったが、鍵がかけられている。ならば、と庭に回って窓を開けようとしたがこちらも締め切られていた。
厳しい父ではあったが、手を挙げられたことは一度もなく、この時初めて力技で叱られた。その鬼気迫る迫力に、僕は本気で親に捨てられたのだと思い込み、――当然、父にその気はなかったのだが――パニックを起こして、この時初めて過呼吸を発症した。
すぐに母が鍵を開けてくれたが、発作を起こして倒れている僕を見て大騒ぎになったものだ。
流石にこの時ばかりは父も酔いがさめて青ざめていた。この時のことがトラウマとなり、僕は外出恐怖症になってしまったわけだ。小学校三年生の暑い夏の夜のことだった。
ただいま、とは言わない。
どうせ父は寝室で寝ている。わざわざ眠れる獅子を起こすこともないだろう。
今日も大学をサボって公園をぶらついた挙句、発作を起こしてこんな早い時間に帰宅したのだ。顔を合わせたら小言を言われるに決まっている。
しかし往々にして避けたい壁ほどぶち当たるもので――人とは視線の方向に無意識に進んでしまう習性があるそうだが、感情においてもそうなのだろうか――丁度トイレから出てきた父と鉢合わせしてしまった。少し顔色が悪く、疲れたような表情をしていたが、僕の顔を見るなり眉間の皺が深くなる。
「紡…お前大学はどうした、また欠席したのか?」
「あー…うん、あの…行く途中で発作起こしちゃって。吐き気も治まらないし帰ってきちゃったんだ」
通学中に、というのは嘘だがあとは本当のことだ。
「…っまたか!そんなもの大学に行って少し休んでれば直ぐに治るだろう。そんな事ではいつまでたっても何もできないままだぞ。二十歳にもなって情けない!」
「うん…分かってる」
「本当に分かってるのか?あと二年もしたら社会に出なければならんのだぞ、いい加減その甘えた考えを改めろ」
いつもの小言を一通り言い終わると父は寝室に戻っていった。
僕は自室に戻るとリュックを机の脇に置き、窓際にあるベッドに身を沈めた。体を横にすると、疲労困憊となった心と体が癒えていくのが分かる。
”またか”
何より傷つく言葉だ。好きで発作を起こしているわけじゃない。しかし全て本当のことなので、父の言葉がグサグサと心に突き刺さった。
”いつまでたっても何もできないままだぞ”
その通りだ。自分のことはおろか、二十年生きてきて人の役に立った試しが一度もない。
「あああっダメだ、落ちる落ちる!ヤメ!考えるのヤメ!寝る!!」
今日はもう何だか散々だ。公園の男といい、父といい。
明日は大学に行けるといいな、父が会社に行ってくれるといいな、などと虚しい希望を抱きつつ僕はウトウトと眠りに就いた。
――これは夕日だろうか。辺りがオレンジ色に包まれている。その中で小枝のようにやせ細った少年が地に座り込み、ランドセルを抱きかかえて泣いていた。彼の目の前にいるのは同じように地に座り、顔も制服もボロボロの少年。
『――大丈……こと……だから…――』
ボロボロの少年が泣き止まぬ少年に言った。そしてそれを聞いていた少年はキョトンとしたあと、目に涙を溜めたまま………盛大に吹き出した。
「…ん~…泣いたカラ…スがもう笑っ…た……んぁ?」
目が覚めたのは自分が発した寝言だった。どうやら夢を見ていたようだ。なんだろう、何か懐かしいような気がする。
完全に覚醒していない頭で夢の内容を手繰り寄せていると、階下から母の呼ぶ声がした。
「紡~、お夕飯よ~、きのこシチューですよ~~、冷めないうちに食べなさぁい」
何ともおっとりとした喋り方で母が早く降りて来いと催促する。時計を見ると午後七時過ぎ。あのまま爆睡してしまったようだ。寝ている間に天候が崩れたようで、外では雨の音がしていた。
「ヤバッ寝すぎた」
僕は慌てて飛び起きて一階へ降りようとした。が、父と顔を合わせるのは気まずい。いつもは仕事で帰りが遅いので、昔から大抵夕食は母と二人なのだが今日は父もいる。腹は減っていたが父の顔を見ながら食事をする気にはなれなかった。
「ごめん、夕飯いらない」
階段の上から階下に向かって言うと、パタパタとスリッパを鳴らして母が二階へ上がってきた。
「お父さんに聞いたけど、また発作起こしたんだって?大丈夫?」
「大丈夫だよ。でもまだ気分悪いから食べたらなんか吐きそうで…」
「そう…今日はもう寝なさい。シチューは明日食べなさいね」
「うん、おやすみ」
いつもこんな調子なのですっかり信じてくれたようだ。母は心配しつつも一階へ降りていった。
(母さんごめんなさい)
嘘をついたことと、せっかく作ってくれた食事を食べなかったことに対して心の中で詫びる。
暗い部屋に明かりを灯そうとしたところで雷が鳴った。一瞬、稲光が部屋の中を照らす。季節はずれの雷に惹かれるように、暗闇の中を歩いて窓から外を覗いてみた。
また光った。その瞬間、視界の端に何かが見えた。
三度光った。その光があるモノの輪郭を白く浮かせた。黒いシルクハットに黒いマント。昼間公園で出会ったあの男が、雨に濡れたまま家の前に立っている。
「――――ッッ!!!」
背筋に冷たいものが走り、息を飲んだ。
「え、なんで。あの人なんでうちの前にいるんだ…!?」
昼間の説明のつかない現象を思い出し、一気に恐怖が湧き上がって声が震える。
己のうるさい心臓の音を聞きながら、そのままゆっくり窓から離れると、一歩、二歩と後退ったところで背中が壁にぶつかった。けして広い部屋ではないが、窓から一、二歩下がった程度では壁にぶつからない。
では何にぶつかったのか。
僕は恐る恐る振り向いた。そして稲光が照らしたものは、たった今家の前にいた黒い男。瞬間移動なんて有り得ない。
全身ずぶ濡れのまま、光る銀色の目で僕を見下ろしていた。この男が持つ色はすべてが硬質的で、まるで人形のようだ。
「ひっ………!」
人間、心の底から恐怖したときは声が出ないものなんだなと、どこか冷静に、もうひとりの自分が考えている。
あまりの恐怖に固まっていること数十秒。黒い男はその場で微動だにせずピンと背筋を伸ばしたまま、危害を加えてくるわけでもなく、ただ僕を見ていた。
何もしてこないことが分かり、僕の警戒心がほんの少し緩んだところで黒い男が口を開いた。まるで僕が落ち着くのを待っていてくれたみたいだ。
「昼間は失礼致しました。漸く記憶がはっきりしてきたので、改めてお願いに参りました」
「………?」
「保戸塚紡さん」
「はっはいぃッ!?!」
あ、しまった。あまりにも礼儀正しい態度だったので、うっかり返事をしてしまった。慌てて口を手で押さえたがもう遅い。てゆーか、なんで僕の名前知ってんの!?
「故人の本の管理人になってもらえませんか?」
間違いなく人ではないこの男が言ったことは、平凡以下な人間である僕には理解不能だった。
「イミが分からない…」




