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ココロ物語の鍵と管理人  作者: 土の屋錦二
第三章 白金の管理人
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1.慟哭


 初雪が降った日から二週間余り。

 さほど積もらなかった雪は影も形もなく、日々最低気温を更新している。

 シフト制である小鈴は平日である本日は仕事が休みで、朝から溜まった家事を片っ端から片付けていた。


「小鈴」

「…………」

「小鈴!」

「はっ!…えっ、なにお婆ちゃん。お茶?」

「水、出しっ放し」

 今日は絶好の洗濯日和なので、弟妹たちを学校へ送り出してから洗濯機を回して布団を干し、家族六人分の食器を洗っていたのだが、心ここにあらずで祖母に指摘されるまで迂闊にも水を出しっ放しにしていた。

 慌てて蛇口を捻り、水を止めて思わず溜め息を吐いた。

「保戸塚くんが心配?」

「う、…うん…」

 紡の父が他界して二週間。小鈴も葬儀に参列したのだが、紡の様子があまりにも呆然としていて声をかけることができなかった。

 何とかして励ましたいのだが言葉が見つからないのだ。

「保戸塚くん、どうにかなっちゃいそうで怖くて……」

 学生の頃より紡は体調を崩しては周りに申し訳なさそうな顔をしていたが、普段は穏やかで笑顔を絶やさない陽だまりのような男だった。それがあの日、見たこともないような暗く濁った目をしていた。

 親を突然亡くしたのだから悲しみに暮れるのは当然のことなのだが、あの目は少し違う意味を持っているように見えた。

「大丈夫よ、保戸塚くんは自分のことを心配してくれている人たちが周りにいるって、ちゃんと知ってる子だもの」

「そう…だよね、大丈夫だよね」

 そう言いながらも小鈴は手についた洗剤の泡が、ぷつり、ぷつりと消えていく様子を言いようのない不安を抱えながら見つめた。



「鍵太郎、他に本の気配はない?」

「紡さん」

「今日はまだ五人分しか浄化してないんだ。この倍はやらないと…」

「紡さん!オーバーワークです。一日に五人とか正気の沙汰じゃない。見てください、自分の顔を」

 鍵太郎は僕の肩を掴むと体ごとショウウィンドウに向けた。ガラスに映った己の顔は目の下にくっきりと隈ができていて、顔色も悪くやつれていた。

「―――これくらいなんだって言うんだ…生きてるじゃないか。ほら、まだ動くよ」

 僕は開いていた手のひらを握ってみた。自分の思い通りに動く。冷たい外気にさらされてかじかんではいるが、血が通っているのだ。


 初雪が降った夜――――。

 いつになっても帰ってこない僕を心配した父は、探しに行ってくると家を出た。しかし玄関を出た途端、見送りに出ていた母の目の前で突然倒れたという。

 死因は虚血性心疾患…所謂、急性心筋梗塞だ。本当にあっという間だったらしい。蘇生術も虚しく帰らぬ人となってしまった。

 今思えば予兆はあったのかもしれない。ここ最近、ずっと具合が悪そうだった。

 あの時の母からの電話は、帰らぬ息子の心配をしてかけてきたのではなく、父が倒れたことを知らせたくて電話をかけてきたのだ。しかし僕はそれを無視した。

 父に突然血を分けた親子ではないと宣告され、疑心暗鬼に囚われて子供のように拗ねていた。

 元々父の事は苦手だった。あの時は恨みの念すら抱き始めていたのに。それなのに。

 この埋められない喪失感はなんだ。胸にポッカリと大きな穴が開いて何をしていても塞ぐことができない。

「もう帰りましょう…さちさんも心配してますよ」

 何かしていないと父の死に顔が浮かんできて頭から離れないので、こうして我武者羅に浄化をしていたのだが、母の名を出されては帰らざるを得ない。きっと家で一人、寂しい思いをしていることだろう。



 鍵太郎に促され、帰宅して玄関のドアを開けた。明かりは点いているはずなのにうちの電気はこんなに暗かっただろうか。

「ただいま」

「あら、おかえり紡。遅かったわね」

 母は気丈にも葬儀を終えてからは普段通りに振舞っている。この人はおっとりしているが芯はとても強い人なのだ。でも内心はまだ悲しみを押し殺していることなど、聞かずとも分かる。

「あのね、お父さんの遺品を整理してたらこんなのが出てきたよ」

 そう言って母が渡してきたものは何枚かの封筒。ポストカードが入るくらいの封筒は、全部で十三通あった。すべての封筒には”紡へ”と書かれていた。

「あの人不器用だから…書いたものの、渡すのが照れ臭かったんだろうねぇ」


 自室へ戻り、封を切った。中から出てきたものはバースデーカードだった。

 小学一年から始まって二十歳まで続いていた。どのカードにもたった一言、”誕生日おめでとう”とだけ書かれてある。ただ一枚だけ、二十歳の誕生日に書かれたものだけは違った。


『紡、二十歳の誕生日おめでとう。お前が無事に成人を迎える事が出来てとても嬉しい。日頃から厳しい事を言っているが、全てはお前のためだという事を信じて欲しい。お前が私の子でいてくれて、本当に感謝している――父より』


「…………っっ」


 文字の破壊力たるや―――。


 言葉で直接聞くよりも、その人の心情が視覚からダイレクトに伝わって来る。このバースデーカードに書かれている父の文字が、僕の胸を深く抉った。

 本当は分かっていたんだ、父に愛されていることを。それなのに僕は一体今まで父に何をしてきた?

 父の前で笑顔を見せたのはいつだ?

 あの日、過呼吸を発症したあの時から、父に対して甘えて拗ねていただけじゃないか。その結果がこれだ。僕が父を死に追いやったようなものだ。そんな僕が何故こうして生きているんだろう。

「――僕は何も変わってない」

 先程から影のように付き従っている鍵太郎に問うた。

「鍵太郎…僕が死んだら、何色の表紙になると思う?……っ僕が、僕が死ねば良かったんだ!」

 その瞬間、空気が変わった。

 我に返り振り向くと、鍵太郎の目には明確な怒りの色が浮かび上がっていた。彼は本気で怒っている。僕に対して今まで一度も向けられたことのない感情だ。

 そこで初めてこれは大変な失言だったと気づいたが遅かった。

「あ!?」

 彼は無言のまま僕を荷物のように肩に担ぎ上げ、窓を開けてそのまま外へ出ると、もの凄い勢いで上昇した。

「か、鍵太郎…っ」

 地上がどんどん離れていく。ヘッドライトを灯した車が米粒のように小さい。先日の建設現場から落下した高さなど比べ物にならないほどの高さだ。

「――――ッッ!!!」

 街の灯りがキラキラと輝き、地上が宝石箱のように見える高さまで上昇すると、鍵太郎は担いでいた僕を、無情にもそのまま落とした。

 まさか鍵太郎がこんな暴挙に出るなんて思いもせず、なぜ自分は今空中を落下しているのか分からず頭が真っ白になった。

 冷たい空気が肌を切り裂くようだ。風圧で息ができない。もの凄い勢いで近づいてくる地上が視界に入った。


 嫌だ、死にたくない!!!


 ビルの屋上に激突する直前にフワリと体が浮いた。正確には鍵太郎が落下の衝撃を感じさせないくらいの匙加減で僕を受け止めてくれたのだ。

 そのまま屋上に着地すると、彼は僕を下ろして静かに言った。

「まだ死ぬとか言いますか」

 僕はあまりの恐怖に声を発することができなくて、必死に首を横に振った。

 きっと僕は今、とても情けない姿をしているだろう。風圧でシャツはよれて髪もボサボサだ。真冬の冷たいコンクリートの上に這いつくばって恐怖と寒さで震えている。

 惨めすぎて恥ずかしい。でもそれ以上に。

 鍵太郎には…若くして命を落とした彼にだけは言ってはいけないことを言ってしまったと、激しく後悔していた。

 申し訳なさと悔しさで視界が歪む。その歪みの元は雫となって数滴、コンクリートの地面に染み込んだ。


「……っうぅ…うあああああぁぁっ!!!――――ご…めん…ごめんっ鍵太郎!ごめんなさいっ……父さんっ………!!!」


 喉の奥が焼け付くように痛い。腹に力を入れて子供のように全身で泣いた。

 慟哭とは、こんなにも痛いものなのか。



「はっくしょん!」

「…少しは落ち着きましたか」

 寒風吹きすさぶビルの屋上に座り込んで白い息を吐きながら、グズグズと泣いていた僕のくしゃみを切っ掛けに、ずっと傍らに背を向けて佇んでいた相棒が漸く口を開いた。

「寒い」

「でしょうね。私から見ればまだまだひ弱な紡さんにとって、風邪を引くレベルの寒さです」

「言葉にトゲがある!」

「紡さん」

「な、何」

 鍵太郎はまだ怖い顔をしていた。あの言葉はそこまで彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか。

「先程、自分は何も変わっていないと言ってましたが…」

 そこで一旦言葉を切ると、次の言葉を一息に言い切った。


「人間、たったの数ヶ月程度でそんなに変われるわけないでしょう。私がここまで変わるのに一体何年かかったと思ってるんです?七年ですよ!それまでに何の失敗もなく来られたと思ってるんですか!?」


 僕は目を見開き、口をぽかんと開けて言われた事を頭の中で反復した。言葉の意味がじわじわと浸透する。

「例えて言うなら人生とは鍾乳石のようなものです」

「――――は?」

「ざっくり言うと、炭酸カルシウムを含む地下水が同じ場所に何度も落ちて出来るのが鍾乳石です。ほとんどの地下水は流れてしまいますが、その場には確実に蓄積されていて、少しずつ大きくなっていくんです」

「おお」

 鍾乳石とか数万年単位の話だが、彼の言わんとしていることは分かった。人生、何度失敗したとしてもそれは無駄になるわけではなく、少しずつ実になって成長していくのだと言いたいのだろう。

 なるほど、納得したとポンと手のひらを打つと、鍵太郎は気を良くしたのか更に続けた。

「例えで言うならこんなのもあります。昭和の名曲で数歩進んではほんの少し戻る、まさに人生そのものの…」

「分かった分かった、お前の言いたいことはよく分かったから…ぷっ」

 まずい、鍵太郎は真剣に僕を励ましてくれてるのに吹き出してしまった。

「泣いたカラスがもう笑いましたね」

「え…」

 どこかで聞いた台詞だ。相棒を見ると先程までの険しい表情とは打って変わって、優しく微笑んでいた。

「はは、これじゃあ、あの時と立場が逆だね―――ありがとう、鍵太郎」

「俊樹さんが亡くなったのは、あなたのせいじゃありません」

「うん…ここまで父さんに育ててもらったんだ、父さんが誇りに思ってくれるように生きていくよ」


 きっと僕はこの時の、厳しさを孕んだ冷たい空気の中の夜空と、そこに散らばる優しい光をたたえた無数の星々を、

 ―――そして父と相棒に対する感謝を、一生忘れない。




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