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ココロ物語の鍵と管理人  作者: 土の屋錦二
第一章 分岐点
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1.黒と銀



 「ああ、ヤバい」


 首が真綿でじわじわと締め付けられるような感覚。

 息苦しい。

 肺が酸素を取り込もうと伸縮を繰り返す。その動きは徐々に激しさを増し、全力疾走した直後のように呼吸が荒くなる。

 僕は歩行困難になってその場に座り込んでしまった。

 手足の末端に血液が回らなくなり、痺れて自分の力では元に戻せないほど不自然な形で硬直してしまう。

 昔のブラウン管テレビにあった砂嵐のようなモヤが、視界の端にかかって薄暗くなり、視野が狭くなってきた。


 過呼吸症候群の発作である。

 過呼吸症候群の発作で死ぬことはまずないが、呼吸がうまくできないため人によっては死の恐怖を味わう事になる。

 ここ最近は発作が出ていなかったので油断していた。

 対処法として、極力息を浅くゆっくりとする事。そしてひたすら時間経過を待つしかないのだが、久々の発作で恐怖心が勝り、浅く呼吸することに失敗してしまった。自らの意思で呼吸を緩めることができない。

 やはり一度専門の病院で診てもらったほうが良いのだろうか。しかし心療内科は敷居が高くてなかなか行けないのだ。己のノミの心臓が本当に嫌になる。


 いよいよ痺れが全身に回ってきてピクリとも動けない。

 顔や頭までピリピリと痺れて気持ちが悪い。

 呼吸のし過ぎで心臓が破裂しそうだ。


 誰かに助けを求めたくても、ここは平日午前十時過ぎの公園。皆、学校や会社に行っていて自分以外は誰もいない。苦しくて心細くて情けなくて目尻に涙が溜まる。

(落ち着け落ち着け落ち着け、大丈夫、こんなのいつものことだ…っ)

 自分に暗示をかけるかのように、必死で心を落ち着かせて呼吸を整える。


 四、五十分経っただろうか。漸くゆっくりと息が吸えるようになってきた。小一時間、口を開けっぱなしだったので喉がカラカラだ。

(み、水…誰が水を…)

 砂漠で遭難したのならいざ知らず、ここには自動販売機がある。コインを入れれば簡単に水が手に入るのだが、発作が治まった直後なので数十メートル先にある自動販売機まで歩いていくことができない。

 桜の木にもたれたままグッタリしていると、目の前に何故か渇望してやまない水が差し出された。

 無色透明なガラスのコップになみなみと水が満たされている。

(コップ…?)

 ペットボトルではなく、ガラスのコップが出てきたことに多少の違和感はあったが、とにかく水だ。

 コップが結露しているのでよく冷えた水のようだ。コップを持つ手には白い手袋がはめられていて、その先には黒い袖が続いていた。

 その手が水を飲ませてくれようとコップを僕の口元にあてがってくれたが、人に飲ませるのは難しいのか、少し水が溢れてパーカーを濡らしてしまった。

 しかしそんなことは瑣末なことで、水を飲めることが今はただただ、ありがたかった。

 そして二口、三口と水を飲んで漸く一息つけて体の硬直もほぐれ、顔を上げることができた僕は、目の前の人物を見上げた。


 目の前にいたのは。


 黒、黒、黒。

 頭のてっぺんからつま先まで殆ど真っ黒な男。

 黒いシルクハットに黒いマント。風に揺れたマントの隙間から見えた燕尾服も黒。

 闇の塊のような出で立ちに、白い手袋と銀髪に縁どられた陶磁器のような、端正な顔立ちではあるが血の通わない、白い顔が異様に浮いて見える。

 カラーコンタクトでもしているのだろうか、瞳が銀色だ。

「………」

 ありがとうございます助かりました、と言いたかったのだ。僕は。

 だがここは超が付くほどの先進国、日本である。中世ヨーロッパの貴族とでも言おうか、その時代錯誤な姿に強い違和感を覚えた。

 そして先程のお礼の言葉を発するタイミングを逃してしまった。

(ああ!そうか、コスプレ?わー、コスプレしてる人実際に見るの初めてだ!)

 しかし東京とは言え郊外なのでこんな昼日中にコスプレしてる人はまずいない。この出で立ちの理由が分かったとしても怪しいことには変わりない。


 出来ればさっさとお礼を言ってこの場を去りたいのだが、発作が治まった直後なので体に力が入らず、目の前の黒い男をポッカリと口を開けて見つめるしか出来なかった。

 ああ、先程から地べたに座ったままなので尻が冷たい。ベンチに座らせて欲しい。

 すると黒い男は突然僕の手首を掴み、あろう事かズルズルと引きずって近くにあったベンチの前まで来ると、そのまま片腕で軽々と僕を釣り上げてベンチに座らせてくれた。

 もうどこから突っ込んでいいのか分からない。

 引きずられている間なすがままだった自分も情けないが、この扱いはないんじゃないだろうか。お貴族様はもっと紳士的じゃないのか。――いや、貴族ってわけじゃないのか――

「具合はいかがですか?」

 喋った。見目麗しい姿に違わず声も低めの美声だ。

「あ、ああ、大丈夫…です。ありがとうございました」

「切羽詰まった強烈な思念を感じてこの場へ引き寄せられたのですが、お役に立てて良かったです」

「(ん?)す、すみません。ご迷惑をおかけしまして…」

 今黒い男が妙なことを口走ったような気がしたが、僕の身を案じてくれているようなので、とりあえずお礼と謝罪をした。

「いえ…立てますか?」

「もう少しここで休んでいきます。あの…もう、ひとりでも大丈夫なので…本当にありがとうございました」

「そうですか、ではお大事に」

 黒い男はマントを翻し、大きな歩幅でその場を去っていった。足が長いのだろう。身長も190センチ近くありそうだ。なんて羨ましい。僕なんか日本人男性の平均値を下回る165センチだ。童顔も相まって今年成人したというのに未だに中学生と思われる。


「はぁ…」

 また、だ。もうこれで何度目だろう。外出先で他人に迷惑をかけてしまうのは。

 僕が過呼吸を発症したのは小三の頃だった。それ以来家族はもちろん、友人知人他人と、どれほどの人たちに面倒をかけたことか。

 中学の頃だっただろうか。友人たちと少し遠出をして海に行った時のことだ。案の定、僕は発作を起こしてしまい、介抱してくれた友人たちの心配げな顔を見て心底申し訳ないと思ったものだ。

 発作さえ起きなければ皆、目一杯楽しい時間を過ごせたのに。そんなことを繰り返すうちに外出が嫌になり、高校に入る頃には友人からの誘いをすべて断るようになった。

 学校も休みがちだったが、奇跡的に高校を卒業して大学に入れた。しかし、無事に入れたはいいが今度こそ卒業できるか不安だ。大学も二年目に突入したが、着々と欠席日数を更新している。仮に卒業して就職できたとしても、長年その会社で勤めていけるのだろうか。


「ああ、将来の悩みが芋づる式に出てくる。やっぱり外は嫌だ…今日も大人しく家にいれば良かった…って、あれ?」

 将来の事を憂いて鬱々としていたら、立ち去ったはずの黒い男が100メートルほど先で立ち止まった。

 するとワイヤーで釣られているかのような動きで背を向けたまま、結構な勢いでこちらに戻ってくるではないか。

 見間違いでなければ完全に足が地から浮いている。人間では有り得ない動きだ。

 そして僕の目の前まで来ると地に足を付け、ゆっくりと振り返って口を開いた。

「なぜ引っ張るのですか」

「はぁ!?僕何もしてませんけど!?」

 怒鳴ってしまった。よそ様に。しかも恩人に。

 いや待てちょっと落ち着こう。考えろ。現実的に考えて宙に浮く人間なんていない。そんなのCG加工された映像か、何かカラクリが…。

 あ、黒いシルクハットにマント。そしてガラスのコップ。

「そうか!あなたマジシャンだったんですね!なるほど、人気のない公園でマジックの練習をしていたと。そうとは知らずすみません、お邪魔してしまって。いやぁ、それにしても今の凄かったですね。ワイヤーアクションですか?どこかにピアノ線引っ掛けてあるんですよね?あ、僕もう帰るのでどうぞごゆっくり。練習頑張ってくださいね。それでは失礼します!」

 一息に言い切ると、僕はだるい足にムチを入れて足早にその場を立ち去った。決して後ろは振り向かない。

 怖いわけじゃないぞ。だってあの人はマジシャンだ。人間だ。異様に白い顔とか手首を掴まれた時、体温をあまり感じなかったとか、あの場にピアノ線を引っ掛ける場所なんてどこにもなかったこととかどうでもいい。あの人は僕を助けてくれた良い人だ。うんそうだ。さぁ帰ろう。


 僕は背中にかいた冷たい汗を、振り切るように早歩きで公園を後にした。



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