3.忍び寄る魔の手
「38度5分」
うん、想定内だ。いや、ちょっと高めか?
好き嫌いが祟って免疫力が低いせいでしょっちゅう風邪を引く。こんなことは慣れたものだが、普段平熱が低めなのでここまで熱が上がると結構辛い。
「最近めっきり冷え込んできたからねぇ…病院まで歩いていける?」
お粥の乗ったお盆を机の上に起き、僕から体温計を受け取った母が心配げに言った。
「大丈夫だよ、十分もかからないし…あと悪いけどお粥いらない」
「食べなさい」
「無理、吐く」
「じゃあ病院から帰ってきたらお薬飲む前に一口でも食べなさい。お母さん仕事行くけど、ちゃんとレンジで温めて食べるのよ」
ため息混じりに言うと、母は仕事へ行った。
病院から帰宅したあと母の言うとおりお粥を温め直して半分ほど食べ、薬を飲んで横になった。
「あっちいぃ」
全身まんべんなく38度を越えているので暑くて仕方ない。
「すみません…」
いつの間に現れたのか、ベッドの横に正座している鍵太郎が言った。
「なにが」
「やはり体力的に無理があるのでは…紡さん、管理人になってからよく倒れてます。私が頼んだばかりに」
「違う違う、これは元々なの。管理人を始めたから倒れるようになったわけじゃないよ」
やはりまだ鍵太郎は僕を巻き込んでしまったことを気にしているようだ。そうじゃないと言っているのに、納得はしていない顔をしている。
逆の立場で考えれば気持ちは分からないでもないが、管理人のことは僕自身が決めたことだ。鍵太郎のせいではない。
「むしろお前には感謝してるよ」
「え?」
「なんでこんなに外が苦手な僕が頻繁に外出できてると思う?ひとりじゃないって分かってるからだよ。いつも鍵太郎がいるからね。このまま外に慣れればトラウマを克服できるかもしれない」
「そう…なんですか…?」
お?鍵太郎、ちょっと嬉しそうだ。少しは納得してくれたかな。よしよし。
「そうそう、だから気にすんなって。―――そう言えば鍵太郎っていつの間にか隣にいるけど、いない時はいつもどこにいるの?」
「獄界です。VIP扱いされてます」
「そ、そうなんだ……」
そりゃそうだよな、”鍵と本”は閻王の都合で創り出したものだ。ぞんざいに扱えるわけがない。
(もっとも言葉遣いが気に入らないと鉄拳が飛んでくるけど…ほんっと勝手だよな、あの人)
そう言えば、と昨日の閻王のことを思い出した。
「獄界で何かあったようだけど、鍵太郎は何か知らない?」
「鍵たちが住んでいる屋敷…城?は別邸として離れにあるので、そういう話は我々の耳には届きません」
「へぇ~…て言うか、城…。城に住んでるんだ……、ああ、薬が効いてきたかな…眠い…」
「では私はこれで。おやすみなさい」
「おやすみ~………」
ぼんやりした視界の中で鍵太郎が背景に溶け込むように消えていく。この時、何故か僕は急に不安になった。発熱時特有の悪寒とは違う寒さが背筋を走り抜ける。
消える鍵太郎。
彼が消えたり現れたりするのはいつものことじゃないか。なんでこんなに気になるんだろう。
ああ、ダメだ目蓋が重い。このまま眠っちゃいけない気がする。
駄目だ!起きろ!!
「鍵太郎ッ!!」
薄れゆく意識を強引に引き戻して飛び起きた。
「はい」
返事はすぐ隣から聞こえた。見ると、驚いたような顔をした鍵太郎がいた。
「―――あ、ごめん…なんでも…ない」
「?、ではお大事に」
再び彼は消えた。今度は戸惑った表情を残して。
(あ~、あれだ。高熱を出すと悪夢を見るってやつ)
このザワザワした気持ちは熱のせいだ。不安になって呼び戻すとか、恥ずかしいことをしてしまった。
僕は早まる鼓動を押さえつけるように布団を頭まで被って強く目を閉じた。
「ふおぉ………」
五日後、すっかり熱も下がりいつもの生活に戻った僕は今、森川さんの住む高層マンションの前に来ている。先日思い切って森川さんに聞きたいことがあるとメールを出したら、是非遊びにおいでと返信をもらったのでお言葉に甘えてやってきたのだ。
十二階建てのマンションを見上げてみた。高い。
「凄いとこに住んでんなー、仕事何やってんだろ…」
「本当に会うんですか」
「まだ言ってんの?」
どうも鍵太郎は初対面の印象が悪かったらしく、森川さんを敬遠している。
「あいつは好きになれません」
「まだ一度しか会ってないだろ?人柄とかそんな簡単に分かるもんじゃないんだから、あまり悪く言うのはどうかと思うぞ」
「………すみません」
「そんなに嫌なら無理に付き合うことないよ?」
「いえ!俺…私も行きます」
僕を巻き込んだことに責任を感じて、彼なりに自分の役割を全うしようとしているんだろう。敵――ここでは森川さんのことだ――から僕を守ろうとしている。健気だ。
「いらっしゃい」
「すみません、折角の休日に」
十階にある森川さんの部屋のベルを鳴らすとすぐにドアが開けられ、ノンウォッシュデニムに白いシャツという、ラフな姿の森川さんが出てきた。
「いや、呼んだのはオレだし…来てくれて嬉しよ」
リビングに通され、ベージュの革張りソファを勧められたので腰をかけた。思わず室内を見回してしまう。お洒落だ、モデルルームみたいだ。僕、間接照明なんか使ったことない。
ああ、しまった。菓子折りでも持って来れば良かった。
「お茶をどうぞ」
冷香さんがトレイにお茶を載せ、キッチンから出てきた。
(なんか奥さんみたいだなぁ、森川さんと冷香さんってどういう関係だったんだろう)
森川さんの前にはコーヒー、僕の前にはオレンジジュースと苺が乗ったショートケーキが置かれた。
「……………」
「遠慮しないで食べて。あ、もしかしてチョコレートケーキの方が良かったかな」
「い、いえ…あの、念のため伺いますけど森川さんは僕を何歳だと思ってます?」
「中学生でしょ?」
「………大学二年です……六月に二十歳になりました……」
森川さんは飲みかけていたコーヒーを思いっきり吹き出した。真正面に座っていた僕は直撃を受けて、白いTシャツが茶色い水玉模様になってしまった。…僕はよくよくコーヒーをかぶる運命なのか。
「ごふっげほっ!は、二十歳ぃ!?マジか!?」
「……………」
「あ、いやっすまない、随分若く見えたから…ああ服が…本当にごめん、今代わりの服を持ってくるからそのTシャツ脱いでくれ」
「え!そこまでしなくても大丈夫ですよ」
「うち乾燥機あるから。…それにしても君大丈夫か…あまり外国人の溜まり場に行っちゃダメだよ」
「?、…はぁ…」
森川さんは僕からTシャツを取り上げると代わりにシャツを貸してくれた。僕には大きすぎるので袖を折る。鍵太郎は気に入らないみたいだけど結構いい人じゃないか、森川さん。
「さて、仕切り直しだ。話ってなんだい?なにか困ったことでもあった?」
「紙魚のことなんですが…」
冷香さんが気をきかせて、コーヒーを入れ直してくれたのでありがたく頂いた。
「あー、あいつらね。ウザイよね、数多いし人間にはあの動き目視できないし」
「森川さんたちはいつもどう対処してますか?あいつらの弱点とかあったら教えて欲しいんですけど」
「鍵太郎くんがいるじゃない。強いだろ?彼」
森川さんはコーヒーに口を付け、僕の隣に座っている鍵太郎を横目でチラリと見た。
「強いです。でもだからと言って頼りっぱなしなのは嫌なんです。僕にもできることがあるなら協力したい」
「私なら大丈夫です、紡さん」
黙って話を聞いていた鍵太郎が、ちょっと待ったと言わんばかりに間に割って入ってきた。
「お腹刺されたくせに」
「あ、あれは初めてだったから勘が掴めなかったんです。傷もすぐに塞がりますし」
「そういう問題じゃないの。年下のお前におんぶに抱っこってのが嫌なの」
「年下!?」
今度は森川さんが割って入ってきた。
「鍵太郎は18歳です」
「じゅ…っ!?――――っぷ、ははははっ面白いコンビだね君たち」
滅茶苦茶笑われた。
(…前にも閻王に言われたな、それ)
目の座ったムッツリした僕を見て森川さんは軽く咳払いをした。
「その気持ち、同じ男として分かるよ。年上なら頼られる兄貴分でありたいよな」
「でしょう!いつも紙魚を振り切る時、鍵太郎に小脇に抱えられて運ばれるんですよ」
「ぶはっ!小脇……!!あはっあはははは!!」
「!!」
墓穴を掘ったことに気づいたが遅かった。きっと宅急便よろしく、配達員の格好をした鍵太郎に運ばれる僕を想像したんだろう。森川さんは腹を抱えて大爆笑している。
「真人、そんなに笑うものではなくてよ…失礼ですわ…っ」
そう言う冷香さんも口元を隠して笑いを堪えている。散々笑ったあと、ようやく落ち着いたのかコーヒーを一口飲んで森川さんは口を開いた。
「いや、重ね重ねすまない…君たち仲がいいんだね。お詫びに紙魚の弱点を教えてあげるよ」
「おお!」
「答えは簡単。光だよ、強い光」
真人はマンションのエントランスを出て帰っていく紡たちを窓から見下ろしている。
「いやぁ参ったね…あの白金の鍵は管理人にべったりで全く隙がない」
「どう致しますの」
「どうしたもんかねぇ、他に手を考えないと折角君が手に入れてくれた”これ”の使い道がなくなる―――なんとかあの二人を引き離す方法はないものか……」
「引き離す方法……」
冷香は何かを思いついたようで、妖艶な微笑みを真人に向けた。
「わたくしに良い考えがありますわ」




