2.水面下の闇
午前二時、草木も眠る丑三つ時。僕は両親にバレないようにこっそり外出した。
以前ならこんな真夜中に外へ出るなんてこと絶対にできなかったが、今はそんなことは言っていられない事情がある。
暗い夜道。やはりまだ少し怖い。
幼い頃に味わったあの強烈な孤独感だけが今も心に残っていて、僕ひとりだったら極度の緊張状態に陥って発作を起こしそうだ。
「大丈夫ですか」
鍵太郎が気遣って声をかけてきた。
彼には全て話した。過去のトラウマ、それによる過呼吸症候群と外出恐怖症。それでもなお、鍵太郎は僕のことを強い人だと言う。
時々思うが、鍵太郎は僕のことを過大評価しすぎなんじゃないだろうか。
「ひとりじゃないから大丈夫」
何故こんな時間に出歩いているかというと、現場…本の出現場所が大通りにかかっている歩道橋のど真ん中だからだ。
昼間では人目についてしまうので、こうしてみんなが寝静まる時間でなければならない。
表紙の色は灰色。鍵となった鍵太郎で表紙を開け、僕たちはこの人の憂いの元を探るべく本の中へと入っていった。
――――同時刻、五階建てビルの屋上。
「一丁上がり」
「新しい本が手に入りましたわね。疲れたのではなくて、真人」
「金の表紙は滅多にないからね。でもこの娘が思いのほか美少女だったのは思わぬ収穫だったよ」
周りからは紙魚の禍々しい気配が漂ってきているが、真人と冷香は気にも止めない。
「頼んだよ」
真人が一言、冷香に言った。
冷香は本があった場所にできた空間の歪みを閉じてしまい、両手を頭上に掲げると直径1メートルくらいの光の球を出した。その球の強い閃光に、彼らに群がる紙魚たちは目を潰され、悶えながらバタバタと足元に倒れていく。
その隙に真人は冷香の肩を抱き、冷香は真人の腰に手を添えると、空を飛んだ。
着いた先は高層マンションのとある一室のベランダ。執拗に追ってくる紙魚たちを無視して素早く室内に入った。
室内の四隅に貼られた護符が反応して結界が張られ、真人の部屋に近づいた紙魚たちは一瞬にして消滅してしまう。
真人は慣れた様子で書斎へ向かうと、壁に埋め込まれた大きな本棚を眺めた。
「だいぶ集まったな、魂の物語」
ずらりと並んだ背表紙を満足気に撫でると、持っていた金の表紙の本を空いているスペースへ収めた。
「まだ読みませんの?」
「今読みかけのがもう少しで終わるから、そのあとにね…それにしてもこの金の本は楽しみだ。早く読みたいよ」
真人はシャワールームへ向かおうとして、ふと足を止め冷香を振り返った。
「そうそう、君にひとつお願いがあるんだ」
灰色の本の中に入った日の午後。大通りから少し外れた住宅街で、僕は今ドブさらいをしている。
「ううっ臭い」
時折通り過ぎる通行人に怪訝な目つきで見られた上にこんな思いをしている訳は、指輪を見つけなければならないからだ。
灰色の本は三十代後半の男性のものだった。
男性には彼女がいて、プロポーズする予定だったらしい。ところがその直前で大喧嘩をしてしまい、破局寸前のところで男性はこの辺りで脳梗塞で倒れ、持っていた婚約指輪を落としてしまった。
男性は病床で喧嘩したままだったことを激しく後悔していて、彼女をまだ愛していることを伝えたいと強く願っていた。
しかしその願いも虚しくこの世を去ってしまったのだろう。
「あ?…あったぁぁ!!アクアマリンとダイヤの指輪!!」
思わず大声を上げてしまい、慌てて口を閉じた。
この指輪は男性の彼女が冗談で、プロポーズされるならこんな指輪がいいなと言っていたものだ。男性はそのことをずっと覚えていて、オーダーメイドで作ったらしい。
「とりあえずシャワーが先かな」
あとはこの指輪を彼女へ届けるのだが、いかにせよこの姿は酷すぎる。とってもドブ臭い。手伝ってくれていた鍵太郎も酷い有様だ。
「鍵太郎もシャワー…」
浴びたほうがいいぞ、と言おうとしたのだが、彼は手で軽く服を払うと元のピシリとした燕尾服とマントに戻った。…なんて羨ましい。
シャワーを浴びてさっぱりしたあと、指輪も綺麗に洗い、ピカピカに磨き上げた。
「よし」
彼女の家は本の中の映像で見たので知っている。僕は指輪を届けるべく家を出た。
「ふ…ふえっくしょん!」
シャワーを浴びてすぐに出てきてしまったので湯冷めしたようだ。
夕方五時半頃、僕はポストに指輪を入れたあと物陰に隠れて彼女のアパートを見張っている。
直接渡さなくてもこの指輪を見れば、彼女ならきっと彼の心が分かるはずだ。一人暮らしをしている彼女は、いつもこの時間に勤め先から帰宅してポストを覗く。
その様子を見届けなくてはならないので、かれこれ一時間近く待っているのだが、今日は残業でもしているのかなかなか帰ってこない。
「来ました」
夜目の効く鍵太郎がいち早く気づく。六時半になろうかという頃に、漸く待ち人が帰宅した。
彼女はだいぶやつれていた。きっと仕事疲れだけではないのだろう。アパートのエントランスに設置されているポストをいつものように開けると、動きを止めた。
「指輪…?…これは……っこのデザイン…嘘でしょう!」
彼女は指輪を見てすぐに分かったようだ。持っていた鞄を落とし、エントランスから飛び出してくると、辺りを見回した。
「一体誰がこれを――――隆史なの!?」
しかし既にこの世を去ってしまった恋人の姿は当然なく、夜の帳が降りた道を晩秋の冷たい風が吹き抜けただけだった。
「………な…さい…、意地張ってごめんなさい…っ私も愛してるわ!隆史……っっ!」
「……………」
帰路に着きながら僕は考える。彼女は泣いていた。
あの指輪を渡したことによって、彼女には余計に辛い思いをさせてしまったのではないかと思った。
反面、これからも生きていかなくてはならない彼女にとって、一人で歩き始めるまでの縁としてあの指輪を持っていてもいいのかとも思う。
どちらにせよ、僕が口を出せることではないので故人の希望通りにするしかない。
”まだまだメンタルが弱い証拠だね”――――森川さんの言葉を思い出した。
管理人とはこういう、やるせない思いを重ねて精神を鍛え、成長していくのか。
(…僕に打って付けの役割じゃないか)
自分で決めたことだ。辛くても頑張らないと。
「……今日はなんのコスプレですか」
男性…隆史さんに彼女の思いを伝えると、安心したようで巨大な本の姿だった魂は通常サイズの本に姿を変えた。そしていつものように本を携え、鍵太郎と二人並んで閻王の前に立っている。
「コスプレって言うな…まあ否定はせんが。ふふふ、よくぞ聞いた!今日は白雪姫だ。どうだっ可憐だろう?」
どうだと言われても。こんな玉座にふんぞり返った目力の強い妖艶な白雪姫なんか見たことないぞ。
何度か閻王と会うようになって、分かったことがある。この人は日本の獄界を統べる立場にありながら、西洋のおとぎ話が大好きなようだ。外見に反してもの凄く少女趣味なのである。
とにかくヨーロッパの王子様とかお姫様とかドレスとか騎士とか馬車とかお城とかに憧れているらしい。その趣味が鍵の外見に反映されているのだ。
人の趣味に口出しするつもりはないが、紙魚の猛攻を掻い潜ってやっと着いた先に、この緊張感のないコスプレ閻魔大王を前にするとかなりの脱力ものなのでTPOを考えて欲しい。
「よ、良くお似合いです……」
「ふははっ分かってるじゃないか!さぁ、さっさと本をよこせ」
「?、なんか急いでます?」
「ちょっと今立て込んでてな。すぐ戻らねばならん」
閻王は面白くなさそうに眉間に皺を寄せた。獄界でなにかあったんだろうか。本を燃やして魂を天界に送ったあと、急いで戻ってしまった。
「私たちも戻りましょう、紡さんはもう休まないと」
只今の時刻午前二時半、いつもなら熟睡中だ。夜中の午前二時とか三時まで起きてても翌日ピンピンしてる人が羨ましい。僕は睡眠時間が足りないと翌日目眩を起こしたり体調不良に陥る。
「うん、そうする…ふあ~ぁ、眠い……」
ああそうだ、森川さんに聞きたいことがあったんだ。次の休日に連絡しても大丈夫かな。
とりあえず今日はもう寝よう。なんだか喉が痛いし体もだるい。今までの経験上、これは風邪を引くパターンだ。
帰宅した僕は風邪薬を飲んで床についた。




