10.化物現る
僕は漫画も読むしゲームもする。
その作品の中にはモンスターと呼ばれる数多の敵が出てくるが、怖がったことは一度もない。
それが紙面やゲーム画面にしか出てこない、架空のものだと分かっているからだ。
でも今、目の前にいる化物は現実だ。手を伸ばせば実際に触れることが出来る。
僕は心の底から恐怖に震えた。歯の根が合わず、膝が笑って動くこともままならない。
化物は僕を見ていた。――――いや、正確には僕が抱えているトキさんの本を見ていた。
狙っているのだ、この本を喰らうために。
「紡さん、よく聞いてください」
すっかり聞き慣れた、凛とした低めの声をかけられて我に返る。そうだ、ここには鍵太郎がいた。
彼の実力のほどは知らないが、少なくとも生身で非力な僕より霊体である彼の方が、数倍頼りになるはずだ。僕は鍵太郎の言葉に耳を傾けた。
「本が浮いていた場所をよく見てください。空間が歪んでいるのが分かりますか?」
「え…、あ、ホントだ!いつの間に……?」
化物の登場に気を取られている間に、トキさんの本が浮いていた場所がその形を残したまま歪んでいる。
「今から歪みの中に入ります。あの歪みはとある場所へ繋がっていて、その場へたどり着くまであの化物…紙魚から本を守らねばなりません」
「紙魚?」
「本を喰らう害虫です。私が先に行くので紡さんは後から付いてきてください」
「わ…分かった!」
ここまで苦労してトキさんの憂いを浄化したんだ。あんな化物に喰わせてなるものか。
鍵太郎が走った。僕はその後を必死に追う。
同時に紙魚も動いた…と、思った直後に姿が消えた。
刹那――――、鍵太郎のマントの裾が宙を舞う。
左腕を横一線に薙いだのだ。消えたと思った紙魚が左横に吹き飛んでいた。
「!?」
「速いですね」
鍵太郎は薙ぎ払った紙魚を睨みつけながら言った。
消えたと思った紙魚は超高速で動いていたらしい。彼にはそれが見えていたようだ。
全身を強か地面に叩きつけられた紙魚は、奇声を発して激痛に悶絶している。
「今のうちに!」
鍵太郎の言葉を合図に僕たちは急いで空間の歪みに飛び込んだ。その先がどうなっているのかなんて、考えている余裕はない。とにかくあの気味の悪い化物から逃れたくて、全力で走った。
飛び込んだ先は、暗い洞窟らしき空間に繋がっていた。
空はなく、側面も頭上もゴツゴツとした岩肌だ。周りが見えるのは転々と灯されている篝火のお陰だった。
「こっ怖かった………ッッ!!!」
腰を抜かして地面に座り込み、震えの止まらぬ体を抱きしめ、ホッとしたのも束の間。
カサリ。
不穏な音が耳に響いた。
カサリ、カサリ、カサ、カサカサ。
「ま、まさか……」
岩の陰から二本の触覚が見えた。紙魚だ。
しかも一体だけではなくそこかしこに潜んでいて、全てが僕の抱えている本を狙っている。
「嘘だろ、ここにもいるの!?こんなの…こんな数相手じゃ逃げ切れないよ……っ!!」
「大丈夫です。私にお任せください」
「今回ばっかはその”大丈夫です”は信用できませぇぇぇんッッ!!!」
僕の大声を皮切りに、紙魚たちの姿が一斉に”消えた”。
「ひぃぃ!!」
とにかく本を守らなければと、僕は本を胸に抱き込み、亀のように丸まって地に伏せた。
この時の”見えない恐怖”たるや。
何かを殴りつけるような音のみが頭上で交錯する。鍵太郎が紙魚を片っ端から叩き落としているようだ。地面に叩きつけたれた紙魚が、僕の目の前でバタバタと倒れていく。その光景は想像を絶するおぞましさだった。
しかし素手で倒せるこいつらは、もしかして動きが俊敏なだけで大して強くはないのか。
「っ!」
「え」
鍵太郎の動きが止まった。
まさかの事態である。一体の紙魚の鋭い刺のような触覚が、鍵太郎の右脇腹を貫通していた。
「かっ鍵太郎ッ!!!」
前言撤回。この紙魚と言う化物は相当危険な化物だ。霊体とは言え、人の体をいとも簡単に貫通させられるほどの固く鋭い触覚を持っている。
だが鍵太郎はそれ以上に強かった。
刺さった触覚を手刀で叩き折り、紙魚を殴りつけたあと腹に残った触覚の先端を引き抜いて、別の紙魚に突き刺した。
「拉致が飽きませんね、強行突破します」
左手を目の前にかざすと、ひと振りの剣が現れた。西洋のレイピアと呼ばれる細い剣だ。
「わぁ!?」
鍵太郎はレイピアをひと振りして僕を本ごと右脇に抱えた。まるで荷物扱いだ。
そして力強く一歩踏み切ると、もの凄い勢いで飛んだ。跳躍したのではなく、文字通り空中を飛んでいるのである。
「か、鍵太郎っお腹はっ?大丈夫なのか!?」
「大丈夫です。痛みは感じません」
そう言って珍しく不敵に微笑んだ。この状況において余裕綽々で頼もしい限りだ。
紙魚は執拗に追ってくる。それをレイピアで数体ずつまとめて切り伏せながら鍵太郎は飛んだ。
こんな時になんだが、すごい動体視力だ。もっとも霊的な力も作用しているのだろうが。
しかし一瞬垣間見せた体育会系なノリ――――何故ポーカーフェイスを装っているのか未だに謎だが――――といい、このガタイといい、鍵太郎は生前スポーツ少年だったに違いない。絶対そうだ。ついでに言うと左利きらしい。
しばらく暗い一本道を進むと広い空間に出た。中学や高校の校庭より少し狭いくらいだろうか。
そこには巨大な門があった。お寺の門…所謂、山門と呼ばれるものだ。
近付くと触れてもいないのに門が勝手に開いたので、鍵太郎は僕を抱えたままその中へ飛び込んだ。
すぐさま門が締まり、閂がかけられる。その直後、門に何かがぶつかる音が相次いで聞こえた。
紙魚が体当りしているようだ。
「やかましいっ!!!失せろ害虫どもっっ!!!」
誰が叫んだのか、ものすごい怒号が飛んだ。
なんの力も持ち合わせていない僕でも分かる。その声にはとてつもない力が宿っていた。
「――――ッッ!!!」
声の爆風とでも言おうか、鍵太郎が咄嗟にマントで僕を覆ってくれなければまともに食らっていた。
怒号は洞窟内に響き渡り、ビリビリと振動さえ起きている。頭上からパラパラと小石が落ちてきた。
声は鋭い音波となり、門の外にいる紙魚を一掃したようで、潰されたような悲鳴が上がった後、静かになった。
僕は恐る恐る鍵太郎のマントから顔だけ出して、あたりを伺ってみた。
てっきりお寺があるのかと思いきや、目の前の空間に建物は何もなく、あるのは一脚の玉座のみ。しかもこの場に不釣合いな、西洋のおとぎ話に出てくる王様が座るようなあの玉座だ。
その玉座に悠然と肘掛に凭れ、足を組んでこちらを見つめている女性がいた。
そう、女性なのだ。先ほどの声の主は。しかも絶世の美女だ。
踵まで伸びた長い髪は見事な烏の濡れ羽色で、緩くウェーブがかかっている。その頭上には黄金のティアラが光り輝いていた。大きく胸の開いたドレスは目の覚めるようなロイヤルブルー。体に巻きつけてあるだけのようなデザインで、チラリと覗く太腿が目のやり場に困る。
少しつり上がった切れ長の目は燃えるように赤く、真っ赤な口紅で彩られた唇は少し厚めで官能的だった。
先ほどの恐ろしい怒号がこの美女の口から出たとは到底思えないのだが、周りには僕たち三人以外は誰もいないので、間違いなくこの女性が叫んだのだろう。
「……………」
なんだろう、この既視感。
鍵太郎と初めて出会った時と同じ違和感が半端ない。
「―――――っぷ、ぶわっははははははっっ!!」
美女は僕の様子を見るなり膝を叩いて大爆笑した。
「閻王…、少し加減してください。紡さんが吹っ飛んでしまいます」
「ああ?貴様がいるだろうが、白金の」
えんおう?はっきん?初対面の美女にいきなり爆笑され、聞きなれない単語に僕は呆けるしかなかった。どうでもいいが、なんかガラ悪いな。
「こいつがお前が選んだ管理人か、しっかし見れば見るほど貧弱なモヤシだな。いや、モヤシ以下だな。あ~、あれだあれ!スプラウト!」
(スス、スプラウトだとぉぉ!?)
スプラウトって知ってるぞ、ブロッコリーの芽だ。カイワレ大根をもっと細く小さくした感じのヒョロヒョロした野菜だ。母が好き嫌いの多い僕になんとか栄養をつけさせようと、あれこれ野菜を出してくるものだから覚えてしまった。
「ス、スプラウトは栄養満点のスーパーフードなんだぞ!」
「ふん、このアタシに反論しようってか」
「うぅっ!あ、あなた一体誰なんですかっ」
「白金が言っただろう、閻王だ」
えんおう、閻王………、どこかで聞いたことがあるような。
「閻魔大王のことです」
鍵太郎がこっそり耳打ちしてくれた。
「えんま…大王…………閻魔大王っ!?!」
―――――――予想外にも程がある。




