第八話 前橋曜子
ヘアシャンプーを両手で泡立たせ、頭皮によく馴染ませる。
それから蛇口をひねり、シャワーで綺麗に洗い流した。
洗髪を終えると、前橋曜子は温かい湯のはられた浴槽に、顎の下まで身を沈めた。
ぼんやりとしているうちに頭に浮かんだのは、親友の沖田香波のことだった。
今日、香波にああは言ったものの、曜子も植草樹には罪悪感を抱いている――いや、むしろ彼女の方が、その感情はずっと強いかも知れない。
樹だけではない。曜子は香波に対しても後ろ暗いところがあった。
曜子は正直、香波がストーカーに苦しめられ、自分に相談してくれていたときが、これまでの付き合いの中でもっとも喜びを感じていた。
香波は美人だ。同じ女から見ても、そう思う。きれいな黒髪に、きめの細かい肌――中学の頃から、彼女は他のどんな女子よりも輝いていて、いつも男子たちの注目を浴びていた。
香波自身は、きっとそのような自覚はなかったに違いない。彼女は自身の魅力に気付いてはいないのだ。
いったい、いつからだろうか――自分がそんな彼女の、引き立て役に過ぎないのではないかという思いに囚われるようになったのは。
香波の美貌を羨み、妬み、そんな彼女と自分を比べ、強い劣等感を抱いた。ときに香波と一緒にいるのが苦痛になることもあった。
だから香波がストーカーに付きまとわれ、優れた容姿ゆえの災難に遭ったことで――ようやく釣り合いがとれたように思った。これで自分は、本当の意味で彼女の親友になれたように、曜子は感じることができた。
香波も香波で、彼女なりに苦労していると知ることで、彼女をより身近に感じ、自分たちと対して変わらない存在なのだと安心することができた。
自分がどれほど歪んでいるかは、曜子も分かっている。そのせいで常に後ろめたさを感じていた。それは劣等感よりも辛いものだった。
物思いに耽っているうちに、体は芯まで温まっていた。
「……ふぅっ……」
一つ息を吐くことで、自分の気持ちを切り替える。明日もまた香波の親友として、個人的な感情をなどおくびにも出さず、普段通りに振る舞わなければならない。
そして曜子は、そろそろ風呂を上がろうと、湯船から身を起こしかけーー体がまったく動かないことに気が付いた。
「あ、れ……?」
まさか、金縛りだろうか――だが考え事はしていたものの、自分は眠った覚えなどない。
「え……な、何で……?」
焦り、全身にありったけの力を込めるが、それでも駄目だった。
曜子が目には見えない足掻きをしていると――浸かっている湯に、ある変化があらわれた。
「――っ?」
曜子も、そのことに気が付いた。透明だった湯が、みるみるうちに赤く染まっていく。
独特のなまぐさい匂いを、曜子は嗅いだ――これは、血だ。
助けてを呼ぼうと口を開けるが、恐怖のためか声が出ない。湯に浸かっているにも関わらず、悪寒のせいで体の震えが、どうしても止まらない。
やがて――いまや完全に血に染められた湯の中から、何かがゆっくりと浮かび上がってこようとしていた。
まず、黒い髪がのぞく――人間の頭だ。それから額が見え、続けて両眼ーーその視線は、曜子へ向けられている。
ついに顔全体があらわれたとき、曜子はようやく声を出すことができた。
「……植、草――」
そしてそれが、この世で曜子が発した、最期の言葉となった。




