第五話 植草樹 (5)
一人の少女が、樹を見ている。何か伝えようとしているのか、唇がかすかに動いている。
外見からすると、少女は樹と同い年ぐらいで、高校の制服を身に着けている――見たことのある顔だ。
すぐに思い出した。それはこれまで夢の中で、何度も樹を追い回した首吊りの少女だ。 あのときの苦悶に歪んだ表情と比べると、とても同一人物とは思えない。こうして改めて対面してみると小顔で、可愛らしい顔立ちをしている。
それに、死顔では分からなかったが、少女の顔は、どこか覚えがあるような気がする――気がするだけで、いつどこで会ったことがあるのか、少女が何者であるのかまでは思い出すことができない。かなり以前のことであるのは、まず間違いはない。
樹が過去の記憶を探る間も、少女は彼に向かって何事かを訴えようとしている。いったん思考を中断し、樹は少女の声に耳を傾ける。
――きて……。
樹の耳が、少女の言葉をようやく捉える。
――きて……こっちに……。
かろうじて、それだけ聞こえた。すると役目を終えたかのように少女の姿は薄れ、ゆっくりと消えていった。
目が覚めたときは、すでに真夜中だった。あれほどひどかった体調は、ずいぶんと楽になっていた。
外出するのに、何ら支障はなさそうだった。
こっちにきてと、少女はそう言った。彼女は待っている――自分がくるのを。今も学校の中で。根拠はないが、樹はそう思った。そして、その考えが正しいであろうことも。
部屋のドアを静かに開ける。忍び足で母の寝室の前を横切り、玄関へ向かう。仕事で疲労の溜まった母の眠りは深いようで、感付かれる心配はなかった。
家を出ると、街灯の明かりに沿うように進み、住宅街を抜けた。普段の通学路をそのままなぞり、歩いていく。
不思議と、恐怖心はなかった。ただ学校に行かなくてはという思いだけがあった。あの少女が何者なのか、これで明らかになるかも知れないという期待も、少なからずあった。
今すぐ行かなければ、原因不明のまま、ずっと悪夢に悩まされ続けるかも知れない――その方が樹にはたえられない。
当然といえば当然だが、校門は閉ざされていた。よじのぼって、乗り越える。だが昇降口には鍵がかかっている。こればかりはどうすることもできない。
「いったい、どうすれば……」
樹は途方に暮れた。こうなれば他の侵入口を探す以外にないだろう。宿直の教師が、一階の窓をどこか締め忘れていることを願うしかないが、そうそう都合よくはいかない。
――こっち……。
少女の声が、聞こえた。
「――え?」
声のした方を見る――誰もいない。
――こっち……こっちにきて……。
また聞こえた。自分は眠っていない――夢の中でもないのに、少女の声は、樹の耳に届いた。
「こっちって……どこ?」
姿の見えない少女に、樹は問いかける。第三者からすると、独り言を呟いてるようにしか映らないことだろう。
――きて……こっちに……。
だが、少女は同じ言葉を繰り返すばかりだった。仕方なく樹は、声のする方角におおよその見当をつけて、そちらに足を向けた。
声がしたのは一階の廊下――ちょうど職員室のドアが見える辺りだった。窓に手をかけてみると、予想外にすんなりと開いた。
まるで少女が自分を誘い込んでいるように、樹は感じた。
窓から一階の廊下に侵入する。すると廊下の暗がりを遠ざかっていく、少女の後ろ姿が見えた。あちらには二階に続く階段があったはずだ。
階段の下までやってきた。少女は踊り場から二階へと消えていく。両足は宙に浮いている――ように見えた。
少女の後を、樹が追いかける――夢の中とは立場が逆転していた。
少女は自分をどこに導こうとしているのだろうか? 追いかけながら、樹はそんな疑問を抱いた。
樹の心情に構うことなく、少女はどんどんと先に進み、階段をあがっていく。
――やがて、終点が見えた。階段の突き当たりにあるドアを、樹は開く。
夜風が体を包む。見上げれば星一つない空――。
そこは屋上だった。周囲をうかがっても、当の少女の姿は、どこにも見当たらない。今はどこに――。
――こっち……。
聞こえた――その声に招かれ、樹はまっすぐ進む。
少女は転落防止用の金網の向こう側にいた。首を吊った姿勢のまま、何もない中空で全身を揺らしている。
――きて……こっちに――。
促されるまま、樹は何のためらいもなく金網に手をかけた。ただ、そうしなければならない気がした。
――きて……。
運動不足の樹には、校門と比べてよじのぼるのに苦労した。それでも何とか乗り越えることができた。
少女は先ほどの中空からはいなくなっていた。どこにいったのかと振り向くと、樹と入れ替わるように金網の内側に移動していた。
散大し、濁った二つの瞳孔が、樹をじっと見つめている。
少女はまだ待っている。だが、いったい何を待っているのだろう?
――こっちにきて……こっちに……。
「こっち……?」
樹は戸惑うしかない。こっちにきてと言われても、もうどこに行きようがない――。
――きて……こっちに……きて……。
少女から目を離し、樹は屋上の先に広がる夜の風景を見やった。
「あ、ああ……」
しばらくそうしているうちに、樹は悟った。
「そういうこと、なんだ……」
樹は勘違いをしていた。少女が待っているのは、この学校ではない。
「君も、なんだ……君も、そう望むんだ……」
少女の待つ場所は、この世のどこにもありはしなかった。要は死者である彼女の元にいくにはどうするべきか、ということだ。
「分かった、分かったよ……」
樹は投げやりになって、うなずいた。
「そこに行くよ……行けばいいんだろ……どうせ他に、行き場所なんてないし……」
屋上の縁に近づく。夜風が心地いい。荒んだ心が解き放たれていくような感じがする。
みんながそう望むなら、それでも構わない気がした。もう苦しいのも、痛いのもたえられそうにない。そんなものがこれ以上、長引くくらいなら、いっそ――。
片足が縁を踏む。今度の苦痛はどれほどだろうか――きっと想像もつかないほどだろう。だとしても一度きりだ。これで終わりだ。そう考えれば、何とか前に踏み出せそうだ。
もう片方の足も動かす。背後で視線を感じる。どうやらあの少女は、まだ待っていてくれるようだ。あまり待たせて、あの飛び出た両目で睨まれ続けるのは勘弁してほしい。いつまでもぐずぐずしてはいられない。
大きく深呼吸をする。今生における最後の空気だ。
――もういいだろう。時間をかければかけるほど、迷う気持ちが増してきそうだ。
樹は両膝に力を込めて――そして、跳んだ。
ついにやってしまったと思った。それでも、後悔は微塵もなかった。
わずかな浮遊感のあと、体は落ちる。次第に落下速度は増していき、地面が近づいてくるのを肌で感じる。
――と、数々の記憶が、樹の脳裏を一気に駆け抜けていく。これが走馬灯と呼ぶものだろうか。
やがて一つの記憶が鮮やかに蘇り、樹はつい、あっと声を出してしまった。
「栞、お姉ちゃんっ――」
だが直後に樹の意識は飛び、視界は漆黒の闇に閉ざされた。




