第四話 植草樹 (4)
二限目は、担任教師による古文の授業だった。教師が最前列の生徒にプリントを配り始める。そこから後ろの席へと、次々にプリントが回されていく。
樹の席は、窓際のもっとも後ろだった。その時点で、彼は嫌な予感がした。
案の定プリントは、樹の一つ前の席でその流れを止めた。彼のところまで回される過程で、誰かがプリントを余分に受け取ったに違いない。
「……あの、すみません」
おずおずと、樹は手をあげる。
「プリントが一枚、足りないんですけど……」
「――本当か……? 早くこっちに取りにこい」
露骨に迷惑そうな顔で、教師は応じた。自分の授業を中断されたことが気に食わないのだろう。席を立ち、樹は教壇に近づく。
いきなり、前の席にいる男子生徒が脚を突き出し、樹は危うく転びかけた。
「ったく……何をしてる?」
明らかに見ていたはずなのに、教師は知らぬ振りして、そんなことを口にする。樹は態勢を立て直すと、教師の手から余ったプリントを受け取り、自分の席に戻った。
他のことはなるべく考えないように心掛け、樹は今の授業に集中する。教科書の試験に出そうな箇所に、マーカーでチェックを入れることも忘れない。
――ごんっ、ごんっ、ごんっ……。
ふいに、窓から音が聞こえた。
――ごんっ、ごんっ、ごんっ……。
何かが外からぶつかっているような、そんな音だ。
――ごんっ、ごんっ、ごんっ……。
それほど大きな音ではない。だが、どうにも気が散って仕方がない。
――ごんっ、ごんっ、ごんっ……。
すぐに止むだろうと、樹は思った。だが窓の音はなおもしつこく、彼の集中力を妨げる。
いったい何が、ここまでの音を出しているのだろう――樹はちらと窓に目をやる。
スカートを履いた二本の脚が、窓の外に見えた。
少女の脚は風に揺れて――上履きを履いた足が窓に当たり、音を立てている。
樹は途端に、強い眩暈に襲われた。
晴天の下に佇む、喪服姿の集団は、やけに目立つ存在だった。
彼らは一様に打ち沈んだ表情をして、ぞろぞろと白く四角い建物へと消えていく。
そこは火葬場――死者の肉体を焼く場所だった。教えてくれたのは母ではなく、名前も知らない親戚の伯父だった。
父の死因は肺癌だった。気付いたときには、すでに末期だった。
当時の樹は、入院中の父親を見舞うことを避けていた。別に父を嫌っていたわけでも、病院に行くことに抵抗があったわけでもない。ただ病気の進行につれて、痛々しいほどに痩せ細っていく父の姿が、見るにたえなかった。
父のことが大好きだったからこそ――なおさら、辛かった。
わずかな見舞いの中で、父親はとても穏やかな顔をしていた。そのことが樹には理解ができなかった。
もういつ死ぬかも分からないというのに、少しも怖くないのだろうか?
一人だけ勝手に悟った風でいて、遺される自分たちの気持ちも考えているのだろうか?
今となっては未熟なそんな反撥心が、樹が父を避ける原因の一つにもなっていたのかも知れない。
そのせいで、父の死に際に立ち会うこともなかった。あれほど好きだったのに――。
もっと顔を見せればよかった。もっと話をすればよかった。父もそれを望んでいたはずなのに、自分の方が拒絶した――ひどい息子だ。
父親のいない喪失感にそんな罪悪感も加わり、樹の小さな胸は押し潰されそうだった。
やがてステンレスのトレーの上に乗せられた父の遺骨が、樹たちの前に運ばれてきた。あんなに大きく、頼もしかった父の面影を、そこから感じとることはできない。
ごめんなさい、ごめんなさい――。
声もあげずに涙を流し、樹は心の中でひたすら謝り続けた。父から許しの言葉を得ることなど、二度とないことを知りながら――。
「…………」
樹は、保健室のベッドで目を覚ました。眩暈がした後、彼は体調不良を理由に授業を抜け出した。どうやら、保健室のベッドで横休んでいるうちに眠ってしまったようだ。
教室の窓の外に見えた、少女の脚――あれも夢だったのだろうか? それとも幻覚だろうか?
熱があるのか、頭はいまだくらくらとしている。体も怠く、とても授業を受けられる状態ではない。
担任教師に断りをいれ、樹は早退することにした。帰宅すると薬を飲み、すぐさまベッドに横になる。
全身が熱くてらない。汗があとからあとから噴出し、喉も渇く。頭痛までしている。
症状は安定するどころか、ますます悪化していく。目覚めることも眠りに落ちることもなく、樹の意識はその狭間をどっちつかずのまま彷徨っていた。




