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エピローグ

 時間の流れは、常に一定だ。いついかなるときも無慈悲なまでの正確さで、時を刻み続ける。

 事件が終わって一週間が経ったと思えば、一ヶ月、二ヶ月がもう過ぎていた。

 時間の進みに置き去りにされることなく、未来を見据えて歩き続けることこそ、成長するということなのかも知れない――近頃の沖田香波は、そんなことをふと思うときがある。自分も高校卒業までまだ先だと高を括っていると、すぐに進路のことで頭を痛めるはめになりそうだ。


 事件のあと、小畑愛の口から、ストーカーの正体が共通の友人である安西千春であることを伝えられた。

 信じられない――信じたくなかった。だが愛がスマホに録音していた、二人がやりとりしている録音内容をきき、それがどれほど残酷であっても真実であるということを、認めざるを得なかった。

 

 「――香波はどうしたい?。あんたの好きなようにしていいから」

 

 愛は、傷ついて涙する香波にそう言った。

 

 「学校中にバラせば、あいつの居場所はなくなる。香波がされたことだから、どう仕返しをするかは香波に任せるよ」

 

 口ではそのように言ってはいたが、その表情を見ると、香波は決してそのような道は選ばないだろうことを確信しているようだった。

 実際、香波は声を震わせながらもただ一言「削除して」と、それだけを愛に伝えた。

 案の定、愛は何も言わなかった。黙ってうなずくと、保存していたその録音を削除した。香波には自身の決断に後悔はなかった。

 その後、香波は直接に千春と顔を合わせ、話し合いをした。振り返って考えても、よく自分にそこまでの勇気があったものだ。あのときも、自分にしてはかなり強い口調だったと思う。

 話し合いという名の対決をして以来、ストーカー行為はそれまでが嘘のようにぴたりとやんだ。

 そして千春は、高校を退学した。

 繰り返しになるが、香波は自分の決めたことに後悔してはいない。ただ、自分がもっと上手くやっていれば千春は学校を辞めずに済んだのかも知れないという罪悪感は、少なからずあった。

 

 「そういうの、考え出したらキリがないじゃん」

 

 愛に意見をきくと、彼女はいつになく神妙な顔つきで言った。

 

 「確かに結果は残念だけど……あたしたちにできることには、どうしたって限界があるんだしさ。香波は香波で、自分にやれる範囲のことはしっかりやっていたと、あたしは思うよ」

 

 愛のその言葉に、何よりも香波は励まされた。


 それから香波は自分のクラスメイトに樹の無実を訴えることもした。だが今となっては千春が樹を陥れるために用意した証拠を覆すものはなく、いくら香波が言葉を重ねたところで庇っていると思われるだけだった。

 やり過ぎたとはいえ、クラスメイトの行いはひとえに香波のためでもあった。元凶はあくまですべてを仕組んだ千春にある。

 その千春がいなくなったことでこれ以上の被害者が出ずにすんだ――そう自らを納得させるしかないのだろうか?

 香波の中で完全に決着がつくには、まだ当分先になりそうだった。




 試験を間近に控え、放課後も図書室で自習をしていた。そのため、下校するときには日がすっかり落ちてしまっていた。

 すべての事件に片がついたからといっても、暗い道の一人歩きがこわいのに変わりはない。それは自分だけに限らず、大抵の女子生徒に当て嵌まることだろう。

 近道を駆使しながら早足で行けば、自宅までの距離を短縮できる。

 香波がそう自分を納得させた、そのときだった。

 

 うなじの辺りに、視線が突き刺さった。

 

 「――――っ!」

 

 立ち止まり、振り返りたくなる衝動をこらえる。気付かない風を装いつつ、それでも意識だけは背後に向けながら、なるべく速度を変えずに歩いていく。視線の主もついてくるのが分かる。

 

 まさか、ストーカーなのか? だがあれは千春の仕業で決着がついたのではなかったか?

 

 歩きながらも、疑問がぐるぐると渦巻いていた。

 自分の机に写真を忍ばせたり、私物を盗んだりしたのは千春で間違いないはずだ。今は残っていないが、愛のスマホの録音も自分はちゃんときいた。

 ならば、どういうことなのだろう? ストーカーをしていたのは千春だけではなかったということか? 

  そこに考えがいたると、香波の頭に何かが引っかかった。何だろう、この違和感は? どこがおかしいというのだ?

 自分が何に違和感を覚えているのか――過去におけるストーカーから受けた体験の記憶を探っていく。

 そして、その正体を悟った瞬間――全身の皮膚という皮膚が総毛立つほどの恐怖が、香波を襲った。

 

 「あっ…………」

 

 香波はつい、足を止めてしまった。

 以前、何度か下校途中にストーカーに尾けられていた頃――そのときも、常に自分が一人でいるとは限らなかった。友達と並んで帰ることだって頻繁にあった。

 そして当然、一緒に帰っていた友達の中には、千春も含まれる。

 そう、思い出した。いつだったか他ならぬ千春自身がその相手を見咎めて、追いかけたものの逃げられてしまったということもあったではないか。


 「う、う……」

 

 相手を確認したい欲求に逆らえず、香波は振り向く。

 

 「っ!」

 

 路肩に停められたトラックの陰に身を隠す人影が、しかと見て取れた。

 

 「ひっ――」

 

 踵を返し、香波は走り出した。もうたえられない。一刻も早く自宅に帰りたい。安全な場所に避難したい。

 相手が追ってくる気配がする。いまや背後の足音ははっきりと香波の耳に届いていた。

 脇腹が痛くなってくる。自分の足なのに思ったように早く動かない。焦燥感ばかりが大きくなっていく。

 左手に公園が見えた。

 公園の前を通りがかったとき――誰かが茂みから飛び出し、香波の行く手に立ち塞がった。心拍数が一気に上昇する。

 

 「……よぉ、沖田」

 

 それは井上卓也だった。普段と同じ軽薄な笑みを浮かべている。

 

 「おまえ、帰り遅いっての。どこで油売ってたんだよ?」

 

 顔見知りとはいえ、香波は警戒を怠らなかった。真意は知れないが、卓也が自分を待ち伏せしていたことは確かだ。

 

 「い……井上くん? どうして、ここに……」

 

 「んあ? そりゃ、おまえを待ってたに決まってんだろ。おまえの家、あそこだろ?」

 

 あっけらかんと言い放ち、親指で香波の自宅がある方角を示す。少しずつ、香波との距離を詰めてくる。


  「……どうして、わたしを?」

 

 にじりよる卓也から後退りしながら、香波は更に訊ねる。


  「…………」

 

 だがその質問に対する卓也の返答はない。足だけが香波に近づく。

 

 「あ、あの……井上くん?」

 

 「うるせぇ女だな」

 

 卓也は一転して態度を豹変させた。怒りで眉間の間に深い皺が刻まれる――かと思うと、次には香波へ躍りかかった。

 逃げようとしたが、卓也の動きの方が素早かった。香波の腕を鷲づかみにすると、公園の茂みへ乱暴に引き摺り込む。

  

 「痛いっ――何をす――」

 

 卓也の左手が、香波の口を塞いだ。ちっ、と舌打ちをする。

 

 「てこずらせんなっての。とっとと済ませてやるからよ。既成事実さえ作っちまえば、おまえはもうおれのモンだ」

 

 端正な容貌を歪ませ、卓也は香波の上に圧し掛かる。

 制服のブレザーのボタンを力任せに引きちぎる。その下の白いブラウスに手を伸ばすと、香波の抵抗が激しくなる。

 

 「暴れんじゃねぇっ!」

 卓也の拳が、香波の頬を容赦なく殴る。暴力による痛みで、彼女から抵抗する気力を奪う。香波が大人しくなったのを確認すると、改めてブラウスを乱暴に破いた。

 苦痛と恐怖と恥辱のあまり、香波は声も出せずに涙を流した。殴られた際、鼻腔からも出血している。

 卓也の指が、露わになった肌に触れた。かたく目を閉じ、香波はたえる。

 

 遮断された視界の中で香波は、ごんっ、という鈍い音を聞いた。直後、体から卓也の重みが消えた。

 

 「…………?」


  いったい、何が起きたのか――恐る恐る、香波は目を開く。卓也の姿が、どこにも見えない。

  香波は上半身を起こした。両腕で胸元を隠し、周囲をうかがう。

 

 「あっ……」

 

 卓也は香波からそれほど離れていない路上で、うつ伏せになって倒れていた。だがそれよりもむしろ香波を驚かせたのは、その脇で石を持ち上げている人影の方だった。

 目撃したのはほんの一瞬で確証はないが、その人影の体格は、先ほどまで自分を尾けていたストーカーと似ている気がした。

 人影は手にした石を、卓也の後頭部に振り下ろした。がつっ、という音とともに卓也の両足がわずかに跳ねた。コンクリートの地面に、血の飛沫が散る。

 卓也が息絶えたことを確認すると、その人影は凶器の石を無造作に投げ捨てた。それから静かに立ち上がると、香波の方に顔を向けた。

 

 「……怪我はない? もう、大丈夫だから」

 

 香波の身を案じる台詞が、その口から発せられた。だが香波は返答も忘れて、今しがた自分を救ってくれた者を愕然と見上げた。


  「あ、あな……あなた、は……」

 

 香波は目の前の人物と会ったことがある。だから、それがどこの誰であるのかも、彼女は知っていた。

 知っているからこそなお、香波には衝撃的だった。その人物が自分を付け回し、生活を脅かしてきたストーカーの、もう一人の正体だという事実が。


 「植草、くんの……お母さん?」


 それはかつて、樹の病室に行った際に香波を追い返した、彼の母親――植草暁子、その人だった。

 

 「びっくりするわよね……ごめんなさい」

 

 全身に卓也の返り血を浴びた状態で、暁子は心の底から申し訳なさそうな表情をした。

 

 「え……ど、どうして? どうして植草くんのお母さんが……」

 

 「実は校門からずっと、あなたの後を尾けてきていたの。そうしたらあなたが襲われているのが見えて、つい勝手に体が動いてしまって」

 

 「わたしの後を……どうして?」

 

 もっとも香波が知りたいのは、まさしくそのことだ。 

 

 「樹の……息子のいじめのことで、担任の先生に調査を頼みに学校へ行ったときに偶然、廊下で生徒の子が話しているのをきいてしまったのよ。息子がいじめられた原因は、あなたをストーカーしていたからだって」

 

 「あ……」

 

 香波は言葉を失った。

 

 「息子がそんなことをするはずがないって、信じたかった……本当にそんな事実があったのか知りたかった。そのために当事者であるあなたに詳しい話をきこうと様子をうかがっていたけど、担任の先生からあまり騒ぎ立てるようなら訴えると釘をさされていたから、うかつな真似ができなかった。それで、なかなか機会が得られなくって」

 

 「…………」

 

 「あるとき、仕事帰りに息子と同じクラスの男の子とばったり会って。後ろから声をかけたら彼、なぜかひどく怯えて、逃げようとして。引き留めようとしたら、そのはずみでっ――」

 話すうちに暁子は興奮し、声が大きくなる。

 「殺すつもりじゃなかったっ! ただ話をききたいだけだったっ! まさかあんなところにコンクリートブロックがあるなんてっ――まさかそれに頭を打つなんてっ――本当に殺す気はなかったのよっ! 入江くんを、わたしはっ――」

 

 一息に、そこまで喋った。

 

 「……そんなのはただの言い訳に過ぎない。経過はどうあれ、結果としてわたしは人一人の命を奪った……これが事実」

 

 一転して、暁子は淡々と語る。 

 

 「でも……それでもわたしは諦められなかった。息子がなぜあんな目に遭わなければならなかったのか、どうしても知りたかった」

 

 そして、暁子は香波を見た。

 

 「あなたの方から息子の病室を訪れたときに、わたしはやっと知ることができた……息子には何も罪はなかった。そうしたら今度はあなたのことが許せない気持ちが芽生えてきた。それからは、目的が変わった……わたしはね、あなたを殺す機会をうかがうために尾行を続けることにしたの」

 

 その言葉をきいて、香波はぞっとした。それなら自分はいつ殺されもおかしくはない、危うい状況にいたということになる。

 

 「機会は山ほどあった……でもわたしは、なぜかどうしても行動に移せなかった。すでに一人を殺している。もう一人増えたところで大して変わらない……そう自分を納得させようとしても、駄目だった」

 

 そこで、暁子は言葉を切った。どうしたのかと思っていると、彼女の瞳から次第に涙が溢れてきた。

 

 「理由が分かったのは、ついさっきのことよ……後を尾けるうち、わたしはあなたを本心から憎んではいないことに、気が付いてしまったの。わたしはただ息子のために復讐する母親という役割に酔っていただけに過ぎなかった。あなたのことを、わたしはいつの間にか無自覚のうちに許していたのよ」

 

 暁子は両手で、自分の顔を覆う。

 

 「たった一言……たった一言でいいから、わたしはあの子に謝ってくれれば、それで良かったの。息子にした仕打ちを、息子のクラスの子たちが心から悔やんで、二度と同じ過ちを犯さないでくれたなら、他に望むものはなかった。でも実際に来てくれたのは、あなた一人だけだった。それでも……それだけでも、わたしは本当は嬉しかったの。でもこれであっさり許しては、母親として息子に顔向けできないと、勝手に思い込んで……馬鹿な母親よね、わたしって。息子が……樹が、母親が殺人犯になるのを望むなんて、絶対にありえないことだって分かり切っているはずなのにっ!」

 

 暁子はその場に泣き崩れた。香波はかけるべき言葉が見つからず、ただ見守っている以外になかった。

 

 「――わたし、これから警察に自首するわ」


 しばらくして、落ち着きを取り戻した暁子は鼻をすすり、そう言った。


 「あなた……沖田さん。一人で家まで帰れる? できれば送ってあげたいけど、人殺しが一緒だとあなたも嫌でしょう?」


 香波は慌ててかぶりを振った。


 「そんな……嫌なんて、そんなことはないです。でも家はすぐそこなので、一人でも平気……だと思います」


 「そう……分かった。良い人ね、沖田さんは」


 暁子は穏やかな表情をして、香波の前から歩き去っていく。

 香波は目を離すことなく、暁子の後ろ姿が闇に溶けて消えてしまうまでの間、その背中を見送っていた。




                                   (了)

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