第四十二話 沖田香波 (13)
「――ん……」
小さく呻き、香波はゆっくりと目をあけた。
背中には冷たい床の感触――身を起こして、どこか本調子とはいかない頭を働かせる。
ここは、深夜の教室だ。昼間とは違う、どこかよそよそしさを感じさせる、独特の空気が流れている。
「香波っ? よ、良かった……」
傍にいた愛が、ほっとしたように息を吐いた。
そうだった。自分は何者かに操つられて、愛を殺しそうになるのを必死に抵抗し――そこて、記憶は途切れている。どうやら気を失っていたらしい。
見たところ愛は無事のようで、香波も安堵した。
――と、愛はじっと香波の顔を見つめていた。
「……?」
香波が怪訝に思うと、愛は遠慮がちに言った。
「香波……どうしたの? 泣いてるよ」
「えっ?」
指摘されるまま、目尻に触れてみると、確かに涙が流れた様子があった。
そういえば、目が覚めるまでに何か夢を見ていたような気がした。悪い夢ではない――が、とても悲しい気持ちになる夢だったと思う。
どんな夢だったか思い出そうとしても、無理だった。言い様のない喪失感を、香波は覚えた。
「……香波、大丈夫? まだ気分が悪い?」
香波の沈んだ表情を誤解したのか、愛が気遣しげに声をかける。
「ううん……そうじゃないの、ごめんね」
応えて、精一杯の笑みを浮かべた。
二人で教室を後にした。一階まで歩きながら、香波は愛の話をきいた。
樹は、自分に憑いていた松島栞という少女と、ともに逝ってしまったらしい。樹の決意は揺るぎなく、引き留めることはできなかったという。
結局、樹本人に謝罪の気持ちは伝えられなかった。だが彼の事情で、彼自身の決断に自分がとやかく言う権利はないだろう。あるがままの結末を、ただ受け入れるしかない。
入ったときと同じ一階の廊下の窓から外に出て、校門も越えた。
「…………」
愛は妙に押し黙り、気もそぞろだった。香波に言いたいことがあるものの、口にしていいものかどうか迷っているようだ。
「あ……あのさ、香波」
香波が訊ねる前に、愛はおずおずと口を開いた。
「あたし、香波に言わないといけないことがあって……」
緊張した愛の声音に、香波も何事かと、つい身構えてしまう。
「実は、さ。あたし、香波のことが好き……なんだ」
「…………え?」
一瞬、何を言われたか分からなかった。愛の顔付きは変わらず真剣そのもので、ふざけているようには見えない。
「冗談とかじゃないんだ。マジな話、恋愛対象として香波が好きっていうか……上手くは言えないんだけどさ」
「えっ……えっ……?」
突然の告白に、香波は戸惑う。これまでの愛と接してきた中でも、そんなことは微塵も感じられなかった。いつからなのだろう? いつから愛は、自分に対してそのような気持ちを抱いていたのだろう? 一緒にいても、まるで気が付かなかった。
「こんな風に思うのは、もしかしたら香波への裏切りじゃないかって……ずっと言えなかったんだ。ごめん」
それで香波は合点がいった。怪我をしてからの愛の様子がどこか変だったのは、そういう理由があったためだったのだ。きっとその前後で、自分の思いに気付くきっかけとなる、何かがあったのかも知れない。
愛は不安そうに、香波の返事を待っている。彼女にしてみれば、これはただの告白以上の意味があるはずだ。
愛が自らの秘密を明かすということは、それだけこちらを信用してくれてのことだろう――それなら自分も彼女の気持ちに、正面から向き合わなければならない。
「ごめん。わたし、愛のこと……友達としてしか、見られない」
嘘や誤魔化しもなく、正直にそう答えた。
「そう……だよね。やっぱり」
言って、愛は目を伏せた。
「何かごめんね、急にこんなこと言われたりしたら、普通はひくよね……」
自虐的な愛の様子は痛々しく、とても見てはいられない。
それに―香波の言葉には、まだ続きがある。
「でも、ありがとう……愛」
取り繕うためなどではない。これは自分が心から感じた、そのままの気持ちなのだから。
「ずっと一人で悩んでたことを、愛は打ち明けてくれたし……それに、それだけわたしのことで真剣になってくれてたってことだよね? 嬉しくは思っても、ひくことなんて絶対にない」
後半は特に力強く、香波は断言した。自分の思いがまっすぐ、愛に届くことを願って。
愛にどんな秘密があろうと、それは彼女という人間の本質とは関わりがない――いつも明るく前向きで、奔放な愛が友達であるということを誇らしく思う気持ちに偽りはなく、それは今でも――いや、これからも変わることは決してないだろう。
「香波……」
呆気にとられたような顔をしたと思うと、愛はいきなり声をあげて笑った。
「あっはは――そうだ……そうだった、忘れてた。そういう子だったよね、香波って」
「それ……わたし、褒められてるの?」
香波は少しだけふくれてみせる。
「もちろん。ああ、何だかなぁ……今までびくびくしてたのが馬鹿みたい」
星のない夜空を、愛は仰ぎ見る。
「それにしても、さ。想像以上にきついなぁ……好きになった相手に振られるっていうのは」
言葉とは裏腹に、その声は明朗そのものだ。
「もしかしてこれ……あたしにとって、初めての失恋なのかもね」
香波に目を戻した愛の表情は、とても晴れやかだった。




