第四十一話 松島栞
――誰にも、必要とされない人生だった。
松島栞という存在を認めてくれる者は、どこにもいなかった。
クラスメイトはおろか実の家族すら、栞をいない者として扱った。
それは、ただの無視とは違った。意識的に相手を拒絶しようとすれば多かれ少なかれ態度に現れてしまうものだ。だが栞の場合は意識さえされなかった。
『見ない』という意識的な反応ではなく、『見ていない』という無意識な振る舞い――無視による疎外感とはまったく別種の孤独を、栞は味わった。
好きの反対は嫌いではなく、無関心だときいたことがある――その意味を、栞は身をもって体験した。それこそが、彼女の日常だった。
そのうち、彼らには本当に自分が見えないのではないかという錯覚に、栞は陥った。
存在はしているが、認知はされない――それではまるで、幽霊と変わりがない。生きながらにして、死んでいるも同然だった。
それならいっそ、本当に死んでしまった方がいい――なまじ生きているから苦痛に感じるのだ。いずれにしろ受ける扱いは同じなのだから、自分にとって少しでも楽な道を選ぶのは当然だろう。
死んでしまえば、苦痛は短くて済むのだから――。
だが、そんなとき――栞は出会ってしまったのだ。植草樹という、一人の少年と。
話しかけたのは、栞からだった。どうしてそんなことをしたのか、彼女にも分からない――いきなり声をかけられた樹は驚いていたが、内心では栞も自身の行動を意外に思っていた。自分にいまだに、このような積極性が残っていようとは考えてもなかった。
学校を休みがちになってからの栞は、近所の公園で時間を潰すことがままあった。だがその少年の顔を見たのは、その日が初めてだった。話かけたのはただの気まぐれだったのか――それともやはり誰かと会話をする機会のなかった彼女は、心のどこかで人恋しさを感じていたのかも知れない。そのどちらかなのか、どちらでもあるのか、はたまたどちらも当て嵌まらないのか――まったく分からなかった。 相手が年下ということで、こちらも変に身構えて接する必要がなかったのだろう――というのが自身を納得させるため、最終的に下した主な結論だった。
実際、何ら気負うことなく話はできた。栞もいつになく饒舌になっていた。
本当に、楽しかった――時間が過ぎるのが、あっという間だった。こんなに他人といろいろな話をしたのは、久し振りだった。
次に樹と会える日が、待ち遠しかった。彼は自分という人間を、ちゃんと見てくれている――樹といるときだけ、栞は曖昧模糊とした幽霊などではなく、血肉をもった一人の人間になれた気がした。
だが――時が経つにつれ、栞の内で、ある不安が膨れあがっていった。
こんな日々がいつまでも続くわけがない。今の樹は実の父親を亡くしたことで落ち込んでおり、自分は言うなればそこに付け入る形で彼と親しくなったのだ。もし樹が立ち直って元気を取り戻せば、自分は用済みになるのではないか――そんな思いが拭えなかった。
その日が果たしていつやって来るのか――見当がつかなくて、栞にはそれがおそろしかった。何も言わず、ある日を境に急に姿を見せなくなる可能性だって、充分にある。
だから、樹と公園で会えない日は気が気でなかった。明日は来てくれるのだろうか? 本当に会えるだろうか? 前に会ったのが最後ということはないだろうか?
不安はやがて焦燥と恐怖を、栞にもたらした。
こんなに苦しむくらいなら、樹と出会わなければよかった――声なんてかけなければよかった。悔やんだところで、もう遅かった。
自分の人生を諦めていた――誰にも知られず、孤独のまま一人で死ぬつもりだった。だが栞はすでに、誰か他人と共に同じ時間を過ごす幸福を知ってしまった。樹が去り、元の孤独な自分に戻ることなど、想像ができなかった。一人きりで死ななければならないということも、考えられない状態になっていた。
樹を失うのは嫌だ――いつか自分の前から姿を消すなど、絶対に認めたくない。
いずれいなくなってしまうなら――そんな喪失感を味わうくらいなら、いっそ――。
いっそのこと、樹も一緒に連れていこう――あの世へ。
そうだ――そうすればずっと、いつまでも、永遠に――二人は離れることはないだろう。
自分のその考えに満足し、ある日、栞はついに実行に移した。
だが樹は抗い、拒んだ。拒んだだけではなく、栞をおそれたように走って、逃げた。
栞と違い、樹はまだ生に未練があった。彼女と共に逝くより、この先も己の人生を歩んでいくことを選んだ。
樹の反応は、充分に予想の範囲内だったはずだ――それでも栞は、ショックを隠しきれなかった。彼がいなくなってからも、しばらく涙は止まらなかった。
これで、二人の人生は完全に別たれた――もう、互いに顔を合わせることは、二度とない。
自分は死ぬまで一人――死ぬときも一人だ。
幸福から不幸、希望から絶望へ――栞の心の痛みは、それまでの孤独とは比べものにならなかった。
もう、ほんの一時もこの世にとどまっていることがたえられない。
樹は自分の意志で選択した。この自分と、道を違えることを。
選択には責任が生じるのは道理だ――なら、樹は責任を負わなければならない、自分の下した決断に。
絶望することなど、この先の樹には許されないのだ。
――思い出した。思い出してしまった。
眼前にあるトイレの個室の中では、栞自身が首を吊り、すでに事切れている。
記憶が蘇った瞬間、口から漏れ出る絶叫を、栞は止められなかった。
狂ったように頭をかきむしり、うずくまった。
――どれだけの間、叫び続けたか分からない。言い換えれば、それくらい長いものだったのだろう。
死んでしまえば楽になれると、そう強く信じていた――生きている以上の地獄などないと。
だが、それは大きな間違いだった。
死の先に待っていたのは、終わりのない真の孤独だった。
この身はすでに肉体を離れ、魂のみの存在として現世に取り残されている。比喩ではなく、本物の幽霊になってしまったというわけだ。
こんなもの、自分は望んでいない。なぜ自分は死してなお、この世にとどまっているのだ? いったい何が自分を、ここに縛りつけているのか?
自分はこんな世の中に未練など、まったくないはずだ――それなのに、どうして?
夜の校舎で一人、自身の死体を前に、栞は必死で原因を考える。
もしや自分でも気付かないうちに、現世に思い残すことがあったとしか考えられない。
「…………あ」
それなら、一つしかない――樹のことだ。
もし樹と出会う前に死んでいれば、このような事態にはならなかったかも知れない。
なぜなら自分は、樹と会って初めて、他人と触れ合うの喜びを知ることができたのだから。それは、生きているからこそ、体験できた感情だった――それを自分は、無意識に悟っていたのだ。
そしてその感情が、この世に対する未練に他ならず、死者となった今の栞の枷になっているものの正体だった。
「う、あ……あ……」
嗚咽が漏れる。視界が歪む。
死にたくなかった――本当は死にたくなどなかったのだ。自分はただ、誰かが傍で笑っていてくれたら、それだけで幸せだったのに。そういう平凡でありながら貴重な人間関係を築きたかったのだ。
「嫌、だ……独りは嫌だ……」
溢れ出す涙が顔を汚していく――自分はこのまま誰とも関われず、永劫の孤独に苛まれ続けるのだ。
ここはまるで、栞にとっての無間地獄のようだった。
――それから、どれほどの年月が経過したのだろうか。
今が西暦何年で、季節はいつなのか――そんなことなど、栞は気にならなくなっていた。世間がどう変化しようと、自分が誰の目にもとまらない学校で、独りきりでいたということに何も変わりはない。
思考を止め、心を殺した。そうやって寂しさを意識しないよう、ずっと努めていた――ように思う。記憶はほとんど残っていない、空白の期間だった。
せめて隣に樹がいてくれたなら、まだ救われたのに――ふと、そんな思いが栞の胸に去来した。彼は今頃、 どうしているのだろう。楽しく青春を謳歌しているだろうか?
樹の現状が気になり始めると、どうにも確かめずにはいられなくなり、栞は何年か振りに行動を起こした。
奇しくも樹は自分と同じ高校、同じクラスにいた。
樹はすぐに見つかった。成長していても一目で彼だと分かった。
「………………」
樹は、クラスメイトからいじめを受けていた。陰湿な嫌がらせ、言葉による罵声、殴る蹴るなどの肉体的な暴力――。
傍目にも、それは壮絶な仕打ちの数々だった。
「何よ、これ……」
樹が自身の意志で、生きることを選択した結果が、これなのか?
「あ……あはは……」
思わず笑ってしまう――笑わずにはいられるものか。
何だ――今の樹は不幸そのものではないか。やはり自分は正しかった――樹はあのとき、
自分と一緒に死ぬべきだったのだ。そうすれば、今のような生き地獄を味わう必要もなかったのに。
それ見たことか――あのとき、自分の気持ちを裏切るから、こんな目に遭うのだ。
自分は間違っていなかった。樹の決めた道こそが誤っていた。そのことがこれで証明された。
今からでも遅くはない――樹をこちら側に連れて来よう。
樹の意見には耳を貸さない。自分のいう通りにすればいい。彼にとっても、その方がいいに決まっている。
そして栞は樹を怯えさせ、更に精神を極限まで追い込み、彼の判断力を鈍らせた。
栞がしたのは、紛れもない洗脳だ。その上で樹を自殺させるよう操った。
屋上から身を投げた樹は一命をとりとめたものの、その魂は肉体から離れた――俗にいう、生霊というものだ。
自身のおかれた状況に気付いた樹が、元の体に戻ろうとするのを、栞は強引に引き剥がした――当然だ、せっかくまた一緒にいられるのだから。
だが樹は、いっこうに新しい環境を――栞自身を受け入れてはくれなかった。彼の頑なな拒絶のせいで会話はなく、充実感は皆無だった。
そこまで今を否定するというのなら――そうできなくなるようにするまでのことだ。
樹に、彼自身に己のクラスメイトを殺させる――樹の手でこちらに連れてこさせる。
そうすれば自分たちは一蓮托生――本当の仲間になれるというものだ。
最初に選んだのは、前橋曜子という少女だった。実際にやってみると、案外と容易かった。
曜子を殺させたことに、栞は思ったより罪の意識は感じなかった。どうせ樹に酷い仕打ちをした人間だという気持ちがあったためかも知れない。
こうして二人目の仲間が加わった。当時の栞の喜びを、どのように表現したらいいだろう?
これでもう長年、付き添った孤独とはお別れだ。自分は独りではなくなった。
この調子でどんどん仲間を増やしていけば、もっとここも賑やかになるだろうか?
そうやっていずれは、自分の――自分が思い描いた望みのクラスを、こちらに作るというのも悪くない。
それなら――クラスにするというなら、教師は必要不可欠だ。
次は教師を、曜子に連れてきてもらおう。物事は公平に進めなければならない。仲間内ならなおさらだ。不公平は軋轢の元になる。
三度目――曜子に憑き、操り、坂野達明教諭がやってきた。
これで、三人目――クラスを作るにはクラスメイト全員が必要だ。道のりは、長いが、とても待ち遠しい。
ああ――本当に、楽しみだ。
――結局、今にいたるまで、自分は自身の歪みを自覚することはなかった。
いったいどこで間違い、どこからおかしくなっていたのか――その黒い感情は癌細胞のように気が付かないうちに進行し、自分の心を蝕んでいた。
最初は誰かとともにいたいという、ささやかな願いを抱いていたはずなのに――自身の思う通りの仲間たちを作るなどという身勝手な欲望へと、いつの間にかすり変わっていた。
そしてあろうことか、自分は二人の命を奪ってしまった。どのような理由でも、決して許されない大罪だ。
今の自分ができることといえば、早急に彼らの魂を解放して、来世に生まれ変わるときまで、せめてもの安息が得られるよう祈ることだけだろう。
「ぼくは……ぼくだけはいるから。栞お姉ちゃんの、傍に」
はっとなり、樹の顔を見る。彼は今、何と言った?
「これから先も、ずっと……いつまでも一緒だよ」
「えっ……で、でも――」
そもそも樹は死んではいないのだ。ようやく元の肉体に帰れるというのに、それなのに――樹は栞に言葉を最後まで言わせず、首を左右に振る。
「これは誰によるものでもない、ぼく自身の意志で出した答えなんだ。ぼくが……そうしたいって、思ったんだ」
樹はこちらから目を逸らさず、そう言った。表情には強い決意が感じられ、どうしたって覆せそうにはない――栞は発しかけた言葉の続きを、それ以上は紡ぐことを断念した。
樹は――自分が彼にあれほどの目に遭わせたというのになお、こんな自分と共にいてくれるというのか――それも、自身の命を擲ってまで。
「わ、わたし……」
言いかけたものの、涙が溢れそうで声が詰まり、肝心の台詞が出てこない。
だから栞は、心の中で言った。その程度で許される罪ではないと知りながら。これまでの非道な行いを樹に、己の身勝手な欲望の犠牲にしてしまった曜子と坂野教諭に。
ごめんなさい――と、告げた。




