第四十話 植草樹 (7)
名前を呼ばれて、沖田香波は友人の存在に気付いたようだったが、すでにその両足は、机を離れてしまっている。小畑愛が駆け出そうとするが、間に合うはずかない。
だがそれは、ここにいる自分を除けばの話だ。
ぶつっ――とロープが切れ、香波の体はそのまま床に落ちた。
「香波っ? 大丈夫?」
愛が香波の元に駆け寄る。
「…………」
植草樹は目を閉じると、安堵による吐息を漏らした。
香波を死に誘うために、松島栞は彼女に取り憑く必要があることを、樹は知っていた。彼自身も前橋曜子の際、栞に理性を奪われた経験がある。そして香波に憑いている間は自分から離れていることも。
正気に戻った樹は、香波の友達である愛にすべてを明かした上で、彼女の危機を伝え、学校まで導いた――あと一歩、遅ければ香波の命はなかった。本当に僅差だった。
改めて二人に視線を向け――目を見開き、樹は声をあげた。
「危ないっ!」
樹のただならぬ声に愛が反応するより早く、香波は動いてた。
香波は愛を突飛ばし、その体に馬乗りになると――両手で彼女の首を絞めた。
「――んぐ!?」
愛は驚愕の表情を浮かべ、香波を見た。
「きて……」
抑揚に欠けた台詞が、香波口から発せられる。
「きて……こっちに、きて……こっちにきて……こっちに……」
憑かれたように、繰り返し呟く。
いや――香波は実際にまだ、栞に憑依されたままだ。
香波の背中に寄り添うように、栞がいた――彼女が香波を操って愛を襲わせ、こっちにきてと言わせているのだ。嫌というほど経験しているので、樹はよく分かる。
「ぐうっ、あぐっ――ぐぐっ――」
激しくばたついた愛の両足が床を蹴る。必死にもがいているが、その細腕のどこにそんな力があるのか、香波の両手の指は愛の喉に食い込み、びくともしない。
「うぐぐっ――がっ――んんっ――」
身をひねり、仰け反らせ、愛は苦痛から逃れようとする――が、無理だった。
「こっちにきて……こっちにきて……こっちにきて……こっちにきて……こっちにきて……こっちにきて……」
香波の体をかりて、栞はそう何度も口にする。
このままでは、愛は殺される――誰でもない、彼女の友人の手にかかって。
止めなければ――栞を香波から引き剥がさなければ。
樹は背後から、栞にそっと近付く――。
「……だ……めて……」
樹はぴたりと足を止めた。
それまでの単調な、同じフレーズとは違う声を、香波は発した。
「い、やだ……殺したくない……やめ、て。やめてよ……」
歯を食い縛り、涙をぽろぽろと零しながら――香波は抗っていた。自分の意志を――理性を取り戻そうと、死に物狂いで戦っていた。
両腕がぷるぷると震え――愛の首を絞めている手の力が弱まる。ほんの少し、手が離れた。
「――あんたは……間違ってる」
喋れるようになった愛は、苦しげながら口を開く――その言葉は香波に対するものではない。厳しい視線は、香波の背後で彼女に憑いている存在へと向けられている。
「そんなに一人が嫌なら……そんなに誰かといたいなら、どうして生きようとしなかったんだよ?」
「………………」
香波――いや、栞は沈黙していた。答える必要がないと判断したのか、答えに窮しているのか――いずれにしろ確かなのは、その動きが完全に静止していることだった。
「あんたのこと、何も知らないし……どういう奴かも、あたしには分からないけどさ……」
愛の糾弾は、更に続く。
「身勝手な理由で無関係な他人を巻き込んでさ……はた迷惑にもほどあるよ、この馬鹿女」
怯んだように、栞が身を退く――その肩に、樹は手を置いた。
「傲慢だよ、栞お姉ちゃんは」
諭すような樹の声に反応し、栞は振り向く。
「………………」
「こんなの仲間と呼べない……みんなの意志を無視して、自分の理想を強引に押し付けるなんて、そんなのは独裁者じゃないか」
いつの間にか、栞は生前の姿に戻っていた――と、香波が床に倒れ伏した。憑依状態から抜け出し、失神したらしい。
「みんなを還そう……もう、解放してよ?」
栞に囚われたままでは、二人は――前橋曜子と坂野達明教諭は成仏することができない。
本来これは、自分と栞だけの問題だったはずだ――それがあのとき、自分が逃げせいで――栞を裏切ったせいで、事態はここまで発展してしまったのだ。
栞が死にたがっているのは分かっていた。ならせめて友達として、彼女を説得して考えを改めさせるなりなんなりできたはずだった。あのときの自分は幼かった、などという言い訳は、もはや通用しないところまできてしまったのだ。
自分が、栞を見殺しにした――その結果、彼女は絶望し、孤独を抱いたまま自らの命を絶った。そして死後、栞自身にとって理想の仲間――理想のクラスメイトを求め、見境なく自分のクラスの人間を殺した。それは覆しようのない事実だった。
もし自分の手に余るというなら、誰かに相談を持ちかけることもできた。努力を怠ったとの謗りは免れない。
だから、次こそ逃げたりしない――今回の悲劇を生んだ責任の一端は自分にある。
「ぼくは……ぼくだけはいるから。栞お姉ちゃんの、傍に」
「――――っ!」
驚いたように、栞は真正面から樹を見た。その瞳の焦点は、しっかりと樹に合っている。
栞は正気に戻っている。もう大丈夫だろう――彼女の顔付きを見て、樹はそう判断を下した。
「これから先もずっと……いつまでも一緒だよ」
「え……で、でも――」
戸惑いの声をあげる栞にを、樹は首を横に振って遮った。彼女が何を言おうと、自分の決意はかたい。
これは誰によるものでもない、ぼく自身の意志で出した答えなんだ。ぼくが……そうしたいって、思ったんだ」
樹の言葉を聞いた栞は、自分が何を言ったところで彼の決断を変えることはできないと察したのか、言いかけた口を閉じた。その瞳が涙で潤む。
「わ、わたし……」
再び、栞が口を開く――が、込み上げる涙で声を詰まらせたのか、それが言葉になることはなかった。
「それじゃあ、ぼくたちは行くから」
樹の声に、愛ははっと顔を上げた。
「ちょっと……どうして? あんたはまだ生きてるんだよ!?」
今にも詰め寄りかねない愛に、樹は微笑を返した。
「ごめん。もう決めたことだから」
自分の決断に、後悔はない。むしろ、もっと早くこうしていれば――そうすれば、犠牲は少なくて済んだのではないかとすら、思っている。
「もう、一人で残していったりはしないよ。栞お姉ちゃん」
こくん、と栞は頷く。一滴の涙が、その頬を伝った。
そして――植草樹は、今度こそは真の意味での、死を迎えたのだった。




