第三話 植草樹 (3)
殴り飛ばされた樹は、転落防止用の金網に背中をぶつけた。唇を切り、苦い血の味を口の中に感じる。
樹は昼休み中に五人の男子によって、強引に屋上へ連れ出されて袋叩きにあっていた。彼らにとっては食後の軽い運動のつもりなのだろう。
「おまえ、よく学校に来れるよな?」
へらへらと笑う男子生徒に、樹は何も答えなかった。元より返答など求められてはいない。
「見た目によらず、神経が図太いんだな」
腹部に男子生徒の右足が食い込んだ。一瞬、呼吸が止まる。
「もうさ、生きてても意味なくね? 何でまだ生きてんの?」
「いっそ、ここから飛び降りりゃいいのに」
「みんな待ちくたびれてんだよ。いつになったらいなくなるんだってな」
「毎朝、てめぇの面を拝まされるおれたちの気持ちを、ちょっとは考えろよ……な?」
口々に言いたいだけ言うと、男子生徒たちは去って行った。
昼休み終了のチャイムが鳴っても、彼らにやられた全身の痛みのせいで、しばらく樹は動けなかった。
――足が重い。思うように走れない。
もっと早く逃げなければと焦れば焦るほど、廊下の先は遠のき、足も遅くなっていく気がする。
今にもあの首を吊った少女に肩を追いつかれそうで――そう考えただけでも、樹はパニックに陥りかける。
足の動きに反して上半身ばかり先に出て、前のめりになり、ついに転倒してしまった。
「嫌だっ――どこか行ってくれよぉっ!」
わめきながらも、樹は這いずった。止まったら捕まる――そればかりが頭を占めていた。
ふぅっ――。
すぐ背後で、少女の吐息を感じた。
「ひゃああっ!」
情けない悲鳴が、樹の口から無意識に漏れた。
――そこで、目が覚めた。
脱力感が体中を覆い、樹はなかなか起き出すことができなかった。現在時刻を確かめる気も起こらない。
いくら悪夢を脱したところで、これから樹を待っているのは、より過酷な現実だった。
本当の意味での安らげる居場所など、樹にはどこにもなかった。
夜毎の悪夢に、クラスメイトのいじめ――卒業を迎えるまで、はたして自分は保つのだろうか?
ふぅっ――。
「――――えっ?」
うなじに吐息を感じ、樹は振り向く。だがそんなところに、誰かがいるはずもない。
「…………」
気のせいに決まっている――だが目覚めてからもあの少女の存在を意識してしまうということが、それだけ自分が精神的に参っている証拠だと思うと、とても割り切ることができない。
「……行きたくない……もう、学校なんて……」
そう呟きつつも、樹はのろのろと登校の準備を始める。
昇降口――。
今朝における樹の上履きは、溢れんばかりの泥水で満たされていた。彼より早くに登校したクラスメイトによる仕業だろう。
この程度のことなら、これまでに何度もあった。排泄物ではないだけ、まだいい方だ――そう考えるのは、感覚が麻痺しているせいかも知れない。
上履きを手に取り、逆さにして泥水を出す。このままでは履くこともできない。
ぼたっ――。
泥水と一緒に、何かが上履きの中から落ちた。灰色の気に覆われたその小さな物体からは、ピンク色の尾が生えている。
鼠の死骸だった。
驚いた樹は、反射的に飛び退き――たまたまやってきた男子生徒とぶつかってしまった。
「――痛ぇだろうが、ボケ」
思い切り肩を突かれ、樹はよろめく。踏ん張った右足の靴下越しに鼠の死骸の、ぐにゃりとした気味の悪い感触が伝わった。
「うわぁっ!」
たまらずに悲鳴を漏らし、足をあげた。
ぶっ、と誰かが吹き出した。そちらに目もくれず、樹はそそくさと上履きを履き、下駄箱から離れようとする。
「は? 何だ? 謝りもしねぇで行くつもりかよ?」
先ほどの男子生徒が樹の胸倉をつかみ、下駄箱のロッカーに体を押し付けた。喉が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。
「てめぇ、おれのこと舐めてんだろ?」
怒気を込めた質問に、ぷるぷると首を振って返す。
「その場しのぎの嘘なんて、通用すると思ってんのか?」
男子生徒の頭突きが、額に炸裂した。一瞬、意識が飛んだあとに痛みがやってきて、樹は下駄箱のロッカーに背をつけたまま、額を抑えてうずくまった。
「あぁ、くそ……朝から最悪じゃねぇか……」
樹に唾を吐きかけ、男子生徒はいなくなった。登校してきた生徒たちは素知らぬ振りをし、通り過ぎていく。
痛みはいまだひかないものの、樹は身を起こして、自分もまた教室へと向かうことにした。ぐずぐずしていてはチャイムが鳴ってしまう。
廊下を歩き、階段に足をかける――。
「…………?」
怪訝な表情で、樹は階段の上を見た。
踊り場に、一人の女子生徒の後ろ姿があった。頭を垂れて佇むその様子は、どう見ても普通ではない。
だが、他の生徒たちはその女子生徒を気に留めることもなく、何事もないかのように階段をあがっていく。
無視をしている、という感じではない。まるで誰も、その女子生徒の存在自体を認識していないかのようだ。
どう対処すべきか、樹自身が思いあぐねているうちに、女子生徒はすっ、と移動し、階段の上へと消えた。
我に返った樹は、数段飛ばしで階段を駆けあがった。つい今しがた女子生徒がいた踊り場に着き、上階に目をやる。
女子生徒の姿は、どこにもなかった。
彼女はいったい、何をしていたのだろうか――それとも、あれは単なる自分の見間違いだったのだろうか?
気にはなるものの、だからといってそれを解消する手立てなどはない。忘れてしまうのが一番だ。
だが、それでも樹には――あの女子生徒の足が、踊り場の床についていなかったように見えて――それだけが、どうにも気がかりで仕方がなかった。




