第三十八話 沖田香波 (12)
――こっちに、きて……。
声がしている――自分を呼んでいる。
――きて……こっちにきて……。
呼んでいるのは少女だ。消え入りそうなほどか細いが、おそらく前橋曜子の声だろう――というか、それ以外の候補で心当たりのある人物がいない。
肌寒さを感じ、沖田香波は自分がいつの間にやら家の外に出ていることに気付いた。あの声に誘われるまま、ついふらふらと出てきてしまったらしい。
――こっち……にき、て……こっちに……。
途切れ途切れに声がきこえていた。集中していないと、誰が何を言っているのかもきき取ることは難しい。それほどまでに頼りない声音だった。
声のする方を目指し、香波は歩き出す。
行かなければ――そう強く感じていた。不安も恐怖もある。行った先でどんな危険が待っているか、知れたものではない。今度は夢ではなく、本当に自分は死ぬかも知れない。
それでも――そうだとしても、いつまでも学校に行かず、部屋のベッドで怯え続けるよりは、はるかにましだ。あのまま自分の内にこもっていたところで、根本的な解決にはならない。自分から行動しなければ何にもならない――そして、今がそのときだと、香波は思った。
ただただ藁にもすがる思いで、香波は歩を進める。
声を追って辿る道は、香波には歩き慣れたコースだった――なら、行き着く場所も充分に予想ができる。
学校だ――声のする先には、自分の通う高校しかない。
夢に出てきた夜の校舎――あの中で今も曜子は、自分を呼んでいるのか――自分のことを待っているのだろうか?
あそこには曜子だけでなく、樹や坂野教諭もいるだろう。彼らが何を望んでいるかは分からないが、それを叶えれば――あるいは自分を解放してくれるかも知れない。
そんな一縷の望みを抱き、香波は暗い夜道を一人、ひたすら学校へ向かっていく。
校門を乗り越え、昇降口に行くが開かない。迂回して窓の開いているところから一階の廊下に侵入した。
――こっち……にき……て……。
声を耳にする。上の階からだ。
――き、て……こっち……に……。
どこからきこえてくるかを確かめつつ、階段へと足を向ける。
――きて……こっち、にきて……。
二階に着くと、もう何度目になるか分からない声が、廊下の先からきこえた。香波はそちらを見る。
一つだけ、明かりの点いている教室があった。
「……誰か、いるの?」
そんなはずはない。常識ではありないが、香波が体験していること自体、不可思議な現象としか説明しようがない。非現実的だと否定することは、まるで意味をなさない。
腰がひけそうになるのをぐっとこらえ、いつも以上に床を踏む足に力を入れ、香波は廊下を進む。
背筋を冷たいものが流れた。それでも足は確実に、教室に近付いている。
引き戸の前にくる。教室の中から物音がしていた。
椅子の脚が床を擦る音――。
黒板にチョークで書き込む音――――。
教科書のページをめくる音――。
授業をしている――この真夜中の、誰もいないはずの学校で、誰かが授業を行っている―-。
生唾を飲み込み、覚悟を決め――香波は引き戸を開け放った。
「――――え?」
そこには――教室内には、何なかった。明かりも消えて閑散とし、人気どころか生きているもののいる様子は微塵も感じられない。
「……ふぅっ」
緊張が解け、息を吐く。教室に足を踏み入れて周りを見るが、やはり誰の姿もない。
正直なところ拍子抜けな気持ちになり、何の気なしにふと天井を仰ぎ――香波の表情は強張った。
異常は、香波の死角――彼女の頭上にあった。
一本の長いロープが、蛍光灯に結ばれている。輪になった先端が、風もないのにゆらゆらと不気味に揺れている。
その様はまるで、香波を誘っているかのようだった。
「あ……」
ぺたん、とその場に膝をつく。
これが――答えだというのか? 今の自分を苛んで止まない生き地獄から脱するただ一つの方法が、こんなものだというのだろうか?
自らの命を絶つことで苦痛を終わらせるより他に、もう何も残されていないというのか?
息苦しいまでの絶望が、腹の底へ溜まっていく――。
そこで香波は理解した。あの三人が口々に言っていた、『こっちにきて』の真の意味を――。
『こっち』というのは、この世の場所を指しているわけではない。それはあの世――つまり死後の世界を示していることを。
樹も曜子も坂野教諭も、香波自身の死を――自分たちの属する場所、同様の存在になることをこそ、望んでいるのだ。
そんなものは香波が望んだ解決ではない――いや、もはや解決とは呼べない。これは、屈服だ。
「あ……あ……」
思考が麻痺する。どうすることが正しいのかさえ、もう分からない。
「もう……もう、どうでもいい」
香波はふらふらと立ち上がる。焦点の合っていない視線を、宙に向ける。ロープを見ているのかいないのか、判別がつかない。
何も分からない――すべてがどうでもいい――自分など、どうにでもなればいい――。
覚束ない足取りで、ロープに近寄る。
こうする意外に救われないというのなら、仕方がない――自分はそれに従うのみだ。
机をロープの真下に運び、踏み台の代わりにする。
ロープの輪を両手でつかみ、頭部をくぐらせる。
「今から、行くよ……わたしも」
死ぬのがこわくないといえば、嘘になる。両親にも申し訳ない気持ちもある――本当に、親不孝な娘だと思う。
ごめんなさい、と心の中で遺していく両親に謝った。
そして目を閉じ、香波は――机を蹴った。
それなりに高さはある――きっと一切の苦痛もなくロープは頸骨を砕き、自分をこの世から旅立たせてくれるだろう。
刹那の間、そんなことを考えた直後――
「――――香波ぃっ!」
かけがえのない友達の叫びを、香波はきいた。




